068 第二章曜子11 顧眄
生徒会の活動を終えた俺たちは、いつもより早い時間に時計棟を後にした。まだ放課後も中頃だったが、既に冬の寒空は色を失い、吹き荒ぶ北風が太陽のぬくもりを連れ去ってしまっていた。
もうすぐ冬至。一年でも太陽の出ている時間が最も短い時期であり、乾燥した空気による冷え込みもひときわ厳しくなり始める時期でもあるだろう。
今日はleafの定休日だった。昼間の事もあって海老原さんが気になった俺は彼女と一緒に帰る事になった。勉強会の時と同じように彼女の家の前まで送り届けるという訳である。
そして、かなりいきなりだが、俺は現在パニック状態にある。
「おじゃましま〜す……」
ここは海老原さん家の玄関だ。そして正に今、俺はそこに上がり込んだところなのである。
「……私の部屋……二階、だから……」
「う、うん……」
革靴を行儀よく並べていた俺を促す海老原さん。思いがけないこの状況に俺の緊張はかなり高い。自意識過剰かもしれないが、海老原さんもそんな感じかもしれない。
「あ、挨拶しなくちゃ、かな?」
刹那以外の女の子の家にお呼ばれするのはかなり久し振りの俺は妙な質問をする。おいおい、女の子の親御さんに挨拶とかどんだけ……いやいや、そうじゃないそうじゃない、おじゃまするんだから挨拶するのは当然なのだ。
「……そんなの、いい……早く……」
心の中で自分とツッコミ合っていると、そんな俺を急かすように手を引っ張ってくる海老原さん。どうやら俺が挨拶するとか言い出したのが恥ずかしかったみたいだ。
そういう訳で、なすがままの俺は二階に引っ張り上げられてしまった。
はい、ここでちょっと状況を整理させてください。端折った部分を思い出してみます。
つい先ほどの事です。彼女を自宅前に送り届けた俺は今までと同じように挨拶をしたんです。
『……寄ってく……?』
『はい?』
で、返された言葉がちょっと難解だったから聞き返したんですよ。
『……お茶、出すから……』
そしたら彼女はそう返してきて……そうです、俺はここでやっと理解できたんです。
『いやいやいやっ! そんなお構いなくぅっ!』
まあ、当然(?)こうなりますわなぁ。ははは。
『……お礼……』
『いやそのっ! 家の人に迷惑だしっ!』
『……いるけど……私の部屋、なら……平気……』
『恐縮っすぅっ!』
そうそう、そんな感じで約二十分の問答を繰り返した挙げ句、結局お邪魔する事になってしまったんでした。……いやはや、予想通りすぎる展開でしたね。申し訳ないです。
「なんかゴメン……」
「……? ……部屋で……待ってて……」
なすがまま状態で更に意味不明な俺にそう言い残した海老原さんは階下へと下りて行ってしまった。
「…………」
少し廊下でうろうろしてから海老原さんの部屋の扉を開く。
「おじゃましま〜す……」
一応、もう一度挨拶しておく。緊張しつつ、手探りで明かりを点けて、蛍光灯の明りに照らされた部屋の中を、見た俺は息を呑んだ。
本。
見渡す限りの本で埋め尽くされていた。八畳くらいの洋室だと思うが、正確にはよくわからない、何故なら壁が無いからだ。本来は壁紙がある部分は全て背表紙で埋め尽くされている。四方の壁はこの入り口と窓を除いて全てが本棚、クローゼットも半分は本棚で開かなくなっている。机もベッドもあるが、びっしり詰まった本棚際に設置されている。読み終えた物なのか、それとも棚に入り切らないのか、本棚の壁の隅には積み上げられた本。あまり統一性の無い様々なジャンルの本は如何にも文字が多そうな本ばかりだった。当然のように漫画なんかは一冊も無い。
俺は図書館棟に行った時以上の驚きで愕然としてしまった。
異様な空間にたじろぎながらも、俺は最も見慣れた物である窓際へと足を進める。そして、部屋の中の圧迫感を少しでも緩和しようとカーテンを開いた。
水中から水面に浮上したような感覚を覚える。出窓から覗く小さな風景が窒息しそうな程の圧迫感から俺を一気に解放してくれた。
そして、もう一度、部屋の中を見回す。本で埋め尽くされたような部屋。テレビも、ラジカセすら無い。海老原さんらしいような気もする。勉強が出来て、読書が好きで、おとなしい海老原さんのイメージにはぴったりかもしれない。ひとりの時間をたくさんの本を読んで過ごす海老原さんはこの部屋にきっと溶け込むだろう。
でも、俺にはここが牢獄のように思えた。
少し俺の部屋に似ているのかもしれない。似ているとはいえ、おおよそ何も無い俺の部屋に対して、過剰すぎるほどの物で溢れているこの部屋。双璧を成しているようにも思えるが、根本的な部分はさして変わらない。手っ取り早く言ってしまえば、俺にとっても、彼女にとっても、それぞれは居場所ではないという事になる。
……いや待て、俺は何を考えているんだ。ここは海老原さんの部屋で間違いないんだ。全てが憶測に過ぎないんだし、余りにも彼女に失礼じゃないか。
「……ん?」
じぃ〜〜
「――でいや!!」
不意に視線に気が付いた俺は本気で驚く。飛び上がらん位の勢いで……実際飛び上がった。
「いやははっ海老原さんひゅーっ!」
「……?」
馬鹿げた考えを振り払おうと頑張る俺、その滑り気味のテンションにコテンと首を傾げる海老原さんだった。
しばらくサムいテンションを引っ張った俺が冷静になると、海老原さんが淹れて来てくれたお茶をいただく事になった。
「……コーヒー……インスタント、だけど……」
「コーヒーならなんでもオッケーだから……じゃなくて! お構いなく……でもなくて! いただきま〜す」
「……くつろいで、ね……?」
冷静になった事で再確認した状況にテンパる俺を見て嬉しそうに微笑んでくれる海老原さん。状況にというと、女の子の部屋で二人きりであるのはもちろんのこと、更にはこの、まるで本屋のど真ん中でお茶しているような状況、その事である。
「……十八……コーヒー……好き、なの……知ってるの……」
「えっ? ああ、そうなんだぁ。いっつも俺だけコーヒー飲んでるもんねぇ。うん、コーヒーは好き、大好き。苦くても甘くてもコーヒーならなんでも大好きなんだよぅ」
「……う、うん……」
振ってくれた話題に『俺ジャンルキタコレ』と食い付いた俺だったが、海老原さんは顔を真っ赤に染めて俯いてしまった。ヤバい、俺の嬉しくてニヤけた顔が変だったのかもしれない。
「ま、まあ、それはそれとしてもさ、凄い量の本だよね、いったい何冊くらいあるの?」
無言空間になる前に手近な話題を振る。実際この部屋に来てこの話題を振らない方が変だと思う。
「……入り口、右側から……五十音順に、並べてあるの……ちょっと、順番に追ってみるの……」
「へっ?」
少しだけ考えるような素振りの後、海老原さんは妙な事を言い出した。
「……あ行の、作家さん……ぶつぶつ……」
目を閉じてぶつぶつと作家さん達の名前を詠唱開始、同時に指折りカウントを開始した!
「ちょっ! 俺が悪かったから正確な数量の計算を止めてぇ!」
海老原さんの無鉄砲すぎる行動を慌てて阻止する俺。一冊一冊思い出してカウントとかしたら絶対に今日中に終わんないよ。ていうかなんだか申し訳ないよ。
「いやまあ、だいたい一万冊は余裕で超えてるだろうねぇ……。でもさ、やっぱり海老原さんは本が好きなんだね? こんなにたくさんの本を持ってる人って、中々いないんじゃないかなぁ」
これは俺の素直な感想である。
「……そう……?」
おっ、海老原さんもまんざらでもないみたいだぞ。
「そうだよ〜。初めて会った時も駅前の本屋だったじゃん。……なんか凄いの読んでたけどさ……」
「……昼妻シリーズ……!」
「えっ……海老原さん?」
食い付いて来た!?
「……昼下がりの団地妻、シリーズ……うだつの上がらない……サラリーマン、ヨシオを……夫に持つ、アケミが……語り部と、なる……ヒューマンドラマ……全12巻……現在も、月刊"わかおくさま"で連載中……最新巻、『友情編』は……すごく、感動するの……!」
「…………」
いや……ねぇ? どうしよう。
なんというか、ヒューマンドラマだったのかよとか、12巻も出てんのかよとか、月刊若奥様?とか、っていうか感動するんかいとか、色々とツッコミたいが、一番ツッコミたいのは海老原さんのホクホクテンションだよっ。
「……でも……まだ、買えない……年齢的には、買えるけど……学生、だから……立ち読みで、我慢……なの……」
「やっぱり官能小説かい! それに立ち読みでもあかん!」
ああっ! 思わずツッコんでしまった!
「……濡れ場は……圧巻、なの……」
「きゃああぁぁっ! 恥ずかしいよぅっ!!」
海老原さんは何気にイケナイ子だった。
コーヒーを3杯ほどご馳走になった俺は、いい加減おいとまする事になった。
海老原さんは玄関前まで送り出してくれるらしく、一緒について来てくれた。海老原さんの部屋も落ち着かなかったけど、他はもっと落ち着かない。正直助かった。
静かに階段を下りて、色々と構えながら靴を履いて、
「おじゃましました〜」
リビング方面に向けてしっかり挨拶。
「…………」
じぃ〜〜
返事は無かった。俺はちゃんと聞こえるように言ったつもりだったが、リビング方面からの応答は無い。代わりに海老原さんが見つめてくれていた。
「…………」
じぃ〜〜
「……じゃあ、海老原さん、おじゃましました。それと、ごちそうさま」
……だから俺は何を考えているんだ。明らかにお節介が過ぎるだろう。それに俺の馬鹿な思考をこの子に持ち出すのは止めるんだ。
俺は僅かに膨れようとした思考を遮断しながら靴を履き終えた。
「……十八……今日は、ありがとう……」
踵を返そうとした時に海老原さんは言った。それを聞いた俺は体の芯から脱力するようにホッとしてしまう。
俺は思う。やっぱり海老原さんは安心する。俺の一番好きな言葉を言ってくれたという事もあるが、彼女の気遣いは俺の緊張や不安を拭い去ってくれる優しさを伴っている。これほどの安心感は瞬にも、刹那にも感じた事がない。
「……うん。こちらこそ」
そう返した俺は、海老原さんの家を後にした。
俺は刹那の部屋を除いて女の子の家、いや、友達の家にお呼ばれするのはかなり久し振りだった。中学の時くらいが最後だっただろう。
小学生の時は刹那や瞬の家だけではなく、藤村や河本の家、女の子の桂の家だってよく遊びに行った。もちろん今日のようにひとりではなく、刹那や遥、瞬と一緒だったが、よく遊びに行っていたと思う。
でも、今日とは違った。
中学の時、物好きなクラスメイトの女子が自宅に招待してくれた事もあった。嫌々ながらも強引に連れて行かれて夕食をいただいたのだが、その時は瞬も刹那もいなくて、俺ひとりだった。そのせいか、よく覚えている。
やはり、今日とは違った。
何より、俺が最も知る『もの』と余りにも一致しない。
違和感は拭えない。
俺は立ち止まる。そして、振り返る。
海老原さんの家からは数十メートルしか歩いていない。彼女の家はまだすぐそこに見える。
海老原さんの家。
新聞配達の時に見上げた部屋はやはり海老原さんの部屋だった。今も明かりが漏れている。
俺がぶっ飛んでいた時に海老原さんがいたポーチライトの明かり。
リビングの明かり。
……おかしい。はっきり言って普通じゃない。俺にはそう思えて仕方がない。
断言なんか出来ない。俺のマイナス思考が導く馬鹿げた妄想にも思える。むしろそうあってほしいとさえ思う。しかし、俺の思考は嫌な方向にばかり進み、俺の信念が巨大化してゆく。
この時、俺の頭の中には、刹那も、遥も、いなかった。
その理由も、この時の俺には知る由も無かった。