058 第二章曜子01 譎詭
――人は傷付け合って生きていく。
俺は君と巡り逢い、言葉を交し合う。
君と俺は触れ合い、視線を交し合う。
俺達は傷付け合う。
俺達は見つめ合う。
俺が見たものが悲しいなら、君が見たものもきっと悲しいだろう。
だから――。
俺が見たものが優しいなら、君が見たものも優しくあってほしい。
笑い合うことも、支え合うことも。
生きることだから――。
テスト休みが明けた月曜日の朝。
朝とはいえ、まだ明け方前の辺りは暗く、立ち込める朝霧なのか夜霧なのかわからないもので町は霞んでいる。
俺はその町を走っていた。
肩に掛けたバッグには新聞の束、もちろん新聞配達のバイト中である。
久住ヶ丘は海岸線に位置している為か、早朝と夕方にはいつも霧や靄が掛かる。今も俺の吐く白い息は体を弾ませる度に霧に吸い込まれている。
新聞配達のアルバイトを始めて一年半以上、12月の冷たい空気も霧り掛かった暗い風景も割り切ることが出来るようになってきた。
――俺は思わず足を止めた。
「…………」
割り切ること……物思いに耽るつもりなどなかったが、どうしても他のものを連想してしまった。
不甲斐ない自分の事、生徒会のみんなの事……刹那の事。
クズ校の定期テストは準備期間も長ければテスト休みも長い。三日間のテスト課程を終えれば次の週まで休みである。
つまり、あの期末テスト最終日から5日が経ってしまった。
あの後……自分のしでかした"こと"に怯みつつも時計棟を訪れた俺は瞬を始めとした生徒会のみんなに『療養しろ』と、声を大にして断言された。
そして昨日までの4日間、夜のバイトはもちろんの事、今やってる朝のバイトまで強請休暇だった。学校も無いという事で、24時間体制で瞬が主夫兼看守となって俺を自宅に軟禁状態に……。
まぁ、お陰でこうして体の不備は収まってくれたと言える。
気が付けば配達する新聞の束も残り少ない。復帰したてとはいえ、テスト期間中の俺に比べれば配達時間は半分にも満たないだろう。
自嘲気味に苦笑しながら、次の配達先へと条件反射に近い動きで顔を上げると……。
膠着。
次の配達先は『海老原』、その表札だった。
海老原さんの姿は無い。5日前、俺がぶっ飛んでた時までは毎日ここに立って待ってくれていた。……流石に今日はいないみたいだ。
ちょっぴり残念なような、ホッとしたような、何とも複雑な気分だった。
カコンという音を立てながら新聞を投函する。海老原さんの家の新聞受けはポストと兼用の壁埋め込み型でステンレス製のタイプ。一番よく有るタイプの新聞受けだが、自然に投函するのは意外と難しい。物に選ってはカコンがガゴン!になってしまう事もある。加えて、古くなってしまって立て付けが悪い物だと、新聞が綺麗に入らない。
美しく入らないのだっ!
おっと、若干熱くなってしまったか。つまるところ、俺のこだわりであるベストな形にならないという事だ。
海老原さん家のポストはいい。カコン音はもちろんだが、入り口の滑らか具合も申し分ない。だから新聞がほらっ、ベストスタイルにっ! 半分より僅かに少ない部分がはみ出していて、角度も申し分ない。これなら向こう側の出口が少し浮いている状態の筈だ。家の人が取りに来た時にわかるし、取り出しやすい筈だ。
「…………」
……俺は人ん家の真ん前でなにをやってるんだ。自分のこだわりなんかどうでもいいじゃないか。
とにかく、配達もあと少し。明るくなる前に終わらせないと。……と、思いながら走り出したが、俺は振り返ってしまう。
海老原さん家の二階、道路側の部屋。少し明かりが漏れている気もするが、部屋の電気は点いていない。海老原さんの部屋はあそこだろうか? まだ寝ているだろうか?
「…………」
いや、当然寝てるだろ! 海老原さんの寝顔とか想像するな! 俺はストーカーか!
「いかんいかん……すぅ、はぁ……すぅ、はぁ…………よしっ!」
自重を込めた深呼吸で気を取り直して踵を返す。
俺は再び朝霧の中に駆けて行った。
自宅に戻った俺は支度を済ませると、いつも通りに道場へと入る。
療養という事でバイトは休んでいたが、朝の鍛練を怠った事は無い。これだけは怠る訳にはいかない。
礼節として一礼だけ済ますと準備運動、柔軟体操、この屋敷に住み始めてから一日も欠かした事の無い習慣を開始する。
続いては演武、春まではじいちゃんと一緒だったが今は一人、観者のいない単調な稽古に専念する。これも習慣。
一通りのノルマをこなした頃、窓から光が差し込んでいる。いつの間にか日の出を迎えていたらしい。
俺は道場の中央に立つ。習慣は続く。
道場は冷たい空気で冷蔵庫のように冷えきっている。動かしていた体を止める事で、否応なしに体は引き締まっていく。
素足で踏む畳の冷気が突き刺さる――無視。
締め付けられるように体が強張る――無視。
吸い込む空気は体の内側を締め付ける――無視。
息を、吸う、吐く、吸う、吐く、繰り返す、繰り返す。
これも毎日の習慣の一つ。
吸い込む息は濃く、吐く息は薄く。吸い込む息を体の不十分な所に補充する感覚、吐く息で体の不備を確認する感覚。
空手の息吹に似ているのかもしれない。しかし、力を込める部分は違う。空手の息吹は腹筋に力を込める、"これ"は脳に力を込める。
力を込めるといっても脳にそんな事は出来ない。脳に全意識を集中させる感覚。自分を一定に保つ感覚。
イメージは水。波紋を鎮めるように、心を静めていく。逆らわないように、流れるように、浮かぶように、沈むように、たゆたうように……。
「…………」
……今日から学校。今日までの4日間、瞬とは毎日一緒にいたが、他のみんなとは会っていない。
でも、海老原さんと進藤さんは何度かメールをくれた。『大丈夫?』とか『だいたい先輩は……』から始まる文字数が足りなくなる位のお説教などだった。
橘からは何故か空メールが来た。『なに?』って返信したら『知るか!』って返って来た。
刹那は……電話もメールも、無かった。俺からも連絡していない。
「…………」
俺は刹那の居場所を奪ってしまったのだろうか?
俺が学校に依存する中で最も恐れていたこと……よりにもよってそれが刹那なんて……。
「十八」
声が掛かった。
ハッとして視線をやると、道場の入り口に寄り掛かるように瞬が立っていた。
「おはよう、瞬。ずいぶん早いな」
「ああ、おはよう。何となく目が覚めちまってさ……」
テスト休み中、ずっと泊っていた瞬、当然のように今日も泊っていた。
しばらく泊りに来ていなかった分を取り戻すように俺の側を離れる事は無かった。
「……十八、刹那に会うのは……つらいか?」
何処かばつが悪そうな表情の瞬。テストの最終日に俺が倒れて以来、ずっとこの調子だ。刹那との事を話した訳じゃない。でもきっと瞬はわかってる、俺と刹那がどうなったのか……。自分のせいだと自分を責めているだろう。……瞬はそんなヤツだ。
「つらいなんて事は無いって。ただ……申し分ない、だけ、だよ」
馬鹿を言う。割り切ることがどんなに難しいか、どんなにつらいことなのか、知っているくせに。
「刹那だってわかってた筈だって、十八を生徒会に入れた時点で。あいつもあの時のままじゃいけないって、わかってたんだよ」
「…………」
きっとそうだろう。優しいままだった刹那は怠惰なだけの俺を間近に突き付けられて、放って置けなかったのだろう。
自分の殻を犠牲にしてまで……。
「もう、無理はしないよ。みんなにも迷惑かけないようにするからさ」
終始ばつが悪そうに俺を窺う親友を見ていられなかった。俺は自然と言っていた。
テストの時の行動に後悔はしていない。俺がした行動自体は間違っていた訳じゃない。ただ俺じゃ駄目だった、俺には無理だった…………それだけ。
「だから迷惑とか言うな。俺が泊りに来なかった理由は言っただろ?」
瞬は悲しそうに言う。この5日間、何度も聞かされ、何度も見せられた言葉と表情だ。
「ごめん……」
瞬が泊りに来なかった理由は実に単純だった。
明るくなった刹那。瞬も、おじさんも、おばさんも、その刹那との時間が増えただけだった。家族の時間が増えただけだった。
瞬は俺の行動に意味があったと言いたいのだろう。
「ふぅ……ったく。どうだ? 久々に組手でもするか?」
呆れたような、ホッとしたような表情の瞬は苦笑しながら言う。
全く……瞬には敵わない。
「ああ、久し振りにやってみるか」
もうすぐ学校。秘伝の呼吸法なんかより、親友の優しさの方がよっぽど俺の心を落ち着けた。
8時前、二度寝した瞬をどうにか起こして登校した学校。
半寝したままの瞬を引き摺りながら俺は今まで通りに時計棟に向かっていた。
刹那。どうあっても顔を合わせなくてはいけないのはわかっている。嫌という事は欠片も無い、むしろ会いたいと思う。しかし、どんな顔をしていいのかわからない。どんな事を話せばいいのかわからない。
気安い関係に戻ったと思っていたが、疎遠だった時と何ら変わらないじゃないか……。
タッタッタッ
「――おっはよーっ!!」
ぴったーん
「どぅぇい!」
いざ時計棟昇降口をくぐろうとした時にやたらと元気いっぱいなヤツに背中をひっぱたかれた。
こんな明朗活発でデスティニーなヤツはいたか?と、一瞬だけ思ったが、行動はともかく今のパーフェクトボイスを発する事が出来るヤツは一人しかいない。
「……せ、刹那?」
勢いよくひっぱたかれたお陰で、ケホケホとむせたままで訊く。
「朝から暗いわよぉっ! せっかく療養したんだから、もっとシャキッとなさい! シャキッと!」
百パーセント無邪気で屈託ゼロな笑顔の刹那が言う。……いや、ダレ?とか思ってしまう。反則的にかわいいけどさ。
「あー! さては休んでる間、瞬に攻められっ放しだったんでしょー?」
何が?
「もうっ、ただでさえろくでもない噂が立ってるんだから、ほどほどにしなさいよ〜」
いや、だから何が?
「あっ、そうよ! やっぱりあなたは彼女を作っちゃえはいいのよ!」
だから何が……?
「って、ハァッ!?」
流石にツッコむ俺。ハイテンションすぎる刹那にも驚きだが、言った事があまりに意味不明だった。
「ふふ〜ん、十八ぁん。あなた、自分の素晴らしすぎる立ち位置を忘れちゃったのかしらん?」
お前はダレなんだ!
「私が学内から選りすぐったか〜わいい女の子達が身近に、い・る・で・しょ?」
人差し指でチッチッチってやってから、自分の口許でしぃ〜って感じにする刹那……で、いいんだよな?
「……私の読みだと、曜子とルナはあなたにかなり気を許しているわ……」
人差し指を当てたまま俺に近付くと、ヒソヒソっとおかしな事を囁く刹那。
「あ……あのぅ……」
もはや俺は刹那が心配になっていた。
「私も力になってあげるから、瞬から乗り換えちゃいなさい?」
「……いや、だから」
「会長である私が全面的にバックアップしてあげるわ。大船に乗ったつもりでいなさい」
どっかで聞いたような台詞を言うと、ねって感じで小首を傾げる刹那。さっさ〜っと時計棟の中に入って行ってしまった。
「…………ぉ〜ぃ」
ポツネンと取り残された俺はどうしていいかわからずに立ち尽くしてしまった。
隣の瞬は何故かKOしていた。そういえば最初のぴったーんと一緒にドバキィッて音も聞こえた気がする……。