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057 第一章刹那45 雲壌


 遠くから喧騒が聞こえる。


 それを聞いて、俺は我に返る。ひたすら遥の事を想っていた思考が、目に映る白い光の光景が、霧散する。


 俺の大切な何かが、霧散していく。


 胸にぽっかり空いた風穴が苦しかった。




 昼過ぎ。三限のみのテスト課程を終えてからしばらく経つ、誰もこの保健室に入って来る者はいない。別段おかしな事はないが、常勤している筈の校医すらいない事に今さら気付く。


 おかしな事など何もない、容易に想像が付く……瞬だ。

 俺をここに運んでくれたのも瞬。刹那をここに連れて来たのも瞬。誰も来ないように人払いをしてくれているのも瞬。

 もしかしたら、扉の前にいるのかもしれない。もしかしたら、さっきの話を聞いていたのかもしれない。もしかしたら、俺達と同じように涙を流しているのかもしれない。


 お節介な親友、優しい親友、大切な親友……俺が迷っても、俺を信じてくれた親友……。


 俺は応えなくてはいけない……親友にも、目の前の刹那にも……。ようやく気が付くことが出来たから……。



 刹那は未だ小さな嗚咽を繰り返している。


 俺はゆっくりベッドから下りる。軽く目眩がしたが、構わず立ち上がる。


 窓際に佇む刹那を見据えるといつか右目に焼き付けた刹那が重なる、真夜中の電話で聞いた刹那の声が重なる。


 遠くに感じていた刹那、もう俺には大切な友達の為に涙を流す普通の女の子にしか見えない。


 一歩、衝動的に体が動く。


 あまりに弱々しく、見ているのがとてもつらい。五年前の刹那との日々をを思い出す。再会した刹那との日々を思い出す。俺の心の中の衝動が加速する。


 また一歩、刹那との距離をゆっくりと縮めていく。確かめるように、思い出すように、ゆっくりと縮めていく。


「……刹那」


 傍らに立った俺は呼び掛ける。


 刹那の嗚咽が止まる。項垂れたまま、意識だけが俺に向けられる。


「…………」


 刹那は何も言わない。自分自身が発するものに苦しんでいるように見える。俺自身が幾度となく体験して来たそれと同じものを体現しているように見える。


 今、この瞬間、未練と罪悪感を有するのは俺の筈だった。たくさんの迷惑を掛けて、為すべきことも出来なかった……そして遥の事……俺は強い自責の念に駆られている。


 しかし、この瞬間、この場所を支配しているのは刹那の感情だった。俺よりも深い感情が俺を取り込み、空間を支配している。


 これでは駄目だ。こんな結末は誰も望んではいない。


「……刹那はどうなっちゃうのかな? 授業免除はやっぱり解除になっちゃうの?」


 遥を想い、五年前を顧みる刹那の気を逸らしたかった。とっさに手近な話題を振ったつもりだったが、すぐに自分の浅はかさに気付く。


 たくさんのものを失ったあの日。俺のトラウマも、刹那のトラウマも、切っ掛けはその時に生まれた。授業免除……それは刹那のトラウマに大きく関わっている。


「……生徒会長の権限を行使したとしても、上手く保たせて学年末まで……その後は一般生徒と同じように授業に出なくてはいけないわ……」


 俺の失言を受け止めてくれた刹那、項垂れたままで力なく答える。強い諦めを含むその声、俺はぶり返した自分の不甲斐なさを心の中で嘆く。


「刹那、ごめん……」


 何度、謝ろうが結果は変わらない。でも、謝らずにはいられなかった。弱い自分を晒すのに慣れても、嫌な事から逃げるのに慣れても、人を傷付ける事に慣れるなんて出来る筈ない。


「……謝らないで……ふふ、十八だけじゃないのよ? 三限目の保体は私も受けていないんだから……」


「えっ……?」


 俯いていた顔を上げた刹那は薄く微笑みながら言った。言葉の意味も、微笑の理由もわからない俺は驚く。


「保健体育のテストなんて無意味よ……面倒だから、さぼったわ」


 力ない微笑みを続ける刹那はふざけた冗談のように言う。


 俺は絶句してしまった。いくら刹那が無駄や余計が嫌いだとしても、自分の沽券に関わる事まで簡単に切り捨てるのだろうか?


「う・そ……冗談よ、受けていないのは本当だけどね」


 否、刹那に言わせれば、それこそ無駄である。理由は他にある。


「倒れちゃった十八を放って置けなかったのもあるわ……でも、私はきっと気付いたのね。逃げてばかりじゃいけないって……。そう思ったら教室に戻ってテストを受ける気分になんて、なれなかったわ……」


 何処か吹っ切れたような表情の刹那、遠くを見るような瞳で虚空を見つめ、力ない声で呟く。


「ずっと、ずっと、逃げて来たわ……嫌なものから目を逸らして、自分の殻を必死で作って、維持して……気が付いたら、私は一人になっていたのよ……」


 そのまま語り出す刹那。


 虚空を見つめる濡れた瞳、掠れている綺麗な声、拭うことすらしない涙の跡……しかし迷いのないその姿は、とても綺麗で、とても危うくて、悲壮美すら感じ取れた。


「どんなに別のものを意識しても、無駄だった……無くなったものも、残ってくれたものも、目を逸らすことなんて出来る筈ない。一番無意味だったのは私の五年間よ……」


 俺は何も言えない。刹那の陰りを支えるように、見つめ返すだけしか出来なかった。


「全く……お節介な弟のせいで全部ぶち壊しよね……」


 自嘲するようなため息混じりの含み笑いで首を傾げる。俺に同意を求めるように。


「刹那……」


 全くだ……お節介な親友は、たった一ヶ月で俺達をここまで変えてしまった。継ぎはぎだらけだけど、間違いだらけだったけど、俺達は時間を取り戻している。


「私、今日で諦める……いいえ、そうじゃなかったわね、認める事にしたの……ハルの事も、私の事も……」


 言いながら真っ直ぐな視線を俺に向ける。


「あなたの事も」


 射抜くように据えられた黒い瞳に俺が映る。

 見つめ返す俺の瞳に刹那が映る。


 互いを映した瞳の中が、互いに埋め尽くされていく。


 刹那の瞳に映るのは俺だけ。

 俺の瞳に映るのは刹那だけ。


 そして――。


 刹那と俺の距離がゼロになる。立ち竦む俺の胸に両手をあてがい、俺の視線から逃げるように顔を埋める。


 俺の胸は刹那でいっぱいになった。


「……十八……ごめんね……」


 絞り出すような声が俺に染み込んでいく。優しすぎる刹那の感情が染み込んでいく。


 俺は言葉に乗せられた真実を瞬時に理解してしまった。


「ごめん……! 十八! ごめんなさい……っ!!」


 添えられただけだった両手が俺のワイシャツを掴む。昂ぶった刹那の感情が俺を突き抜けていく。遥に向けた優しい感情よりも大きな激情が俺を突き抜けていく。


 刹那はあまりにも変わってしまっていた。でも、あまりにも変わっていなかった。


 きっと、刹那はずっとこの言葉を伝えたかったのだろう。


 五年間、刹那は苦しんでいたのだろう。自分の中に溜め込んで、溜め込んで、溜め込んで、誰にも言えなくて、苦しくて、怖くて、寂しかったのだろう。


 そうだった、俺は知っていたじゃないか。俺達四人の中で刹那が一番臆病だった事を。


 刹那が謝りたい理由も、謝れなかった理由も、俺は知っていたじゃないか。


 俺達が隔たっていた理由はそれだけなのだから。


 今、俺の運命は決まった。




 五年前のあの日、俺は身近なものを全て失った。


 遥も、母さんも、父さんも、居場所も。


 俺だけ残ってしまった。


 どんな小さな事でも嬉しくて、触れるもの全てが優しくて、目に映るもの全てが眩しくて、訪れる全てが待ち遠しくて、楽しかった。


 全て失った。


 俺は一度死んで、絶望した。


 もう――。


 失う訳にはいかない――。






「瞬がさ、言ったんだ」


 俺は刹那の激情を遮るように言った。


「……えっ?」


 冷静すぎる俺の声に刹那の激情が一気に静まる。ワイシャツを掴む力がスルリと緩む。


「俺と刹那でさ、付き合えって言うんだよ」


 俺は沸き上がる衝動を全力で否定する。頭の中で造り上げた運命の台本を読み上げる。


「……十八?」


 見当違いの俺の言葉に刹那は困ったような顔を上げる。僅かな距離が開く。


 俺は一歩下がると、距離を広げる。刹那との距離が更に開く。


 たった一歩の距離、また踏み出せば触れ合える距離。しかし、俺が開いた一歩は絶望的なほど広く、埋められない深い溝になった。


「いやぁ、まさかぁって思ったよ。俺はさ、『友達』に戻れただけで十分なのにさぁ」


 台本は続く。俺はなんて酷い男なんだろう……自分の感情を隠す為とはいえ、ふざけた言い回しをしている。


「ちょっと……十八?」


 これ以上ないほど困惑する刹那の表情が悲しそうに歪む。


 ……俺達に隠し事なんか必要ない。でも、それだけじゃ駄目なんだ。


 それだけじゃ刹那を守れない。


 例え俺が許しても、俺は刹那から五年前のことを聞いてはいけない。俺は『知らない事になっていないといけない』んだ。


 俺じゃ駄目なんだ。


「俺は……遥がいなくても……俺達三人の関係が続くだけでいいのにさぁ」


 今まで口にするのさえ躊躇っていた遥の名前まで出す。刹那の優しさを利用した防衛線を張る。


 胸に空いた風穴が俺の代わりに慟哭する。


「刹那は俺と……男と付き合うとか考えられる?」


 決定的な言葉を口にした。俺は刹那の優しさを利用し、刹那のトラウマさえ利用した。


「あ……いや、その……」


 俺の勢いに完全に呑まれてしまった刹那は言葉を濁して狼狽えている。


 ……要は言い方一つだったのかもしれない。


 刹那は言わなかったのかもしれない、もっと上手いやり方があったのかもしれない。


 衝動に任せて抱き締めても良かったのかもしれない。


 わからない……何が正しい事なのか、わからない。


 正しい事はただ一つ、足りないという事だけ。


 やわらかな木漏れ日の中にいるような、暖かい陽だまりの中にいるような、そんな心地よかった俺達の関係は取り戻す事は出来ない。


 俺も、刹那も、瞬も……一番大切な時間があの時だったなら、戻ることは出来る。俺達は……。


 でも、進むことは出来ない。足りないから……。


 維持するなら、それを埋めるものが必要だ。


 それならば、俺がまた道化を演じればいい。


「やっぱり刹那も有り得ないって思うだろ? 瞬もさぁ、高校生になったんだから、彼女の一人でも作っちゃえって言うけどさぁ、俺だよ? 参ったよねぇ」


 それは拒絶よりも残酷だった。俺にも、刹那にも。


 風穴がしくしくと哭いている。


「…………」


 おどける俺を前にしても刹那の悲しそうな表情は晴れない。そりゃあそうだ……俺達の時間は戻っているのだから……俺の棒読みな演技に刹那が気付かない筈がない。


「……と、とにかくさぁ! 刹那の授業免除については考えなくちゃいけないけどさぁ……とりあえず俺はみんなに謝らないとだよね! みんなが何処にいるか刹那は知ってる?」


 俺は笑う、しくしくと嘆く胸を押さえ付けながら、崩れ落ちそうな膝を支えながら。


「…………時計棟、みんなは、そこにいるわ……」


 刹那も笑う、俺の馬鹿げた行動に気付いたから、本当に優しいままだから。


「よ、よし! じゃあ、時計棟に行こう」


 俺と刹那は思い出になる筈だった場所を後にする、逃げ出すように……。


 笑いながら、心で哭きながら。

 寄り添いながら、距離を保ちながら。


 お互いの距離感はない。五年前のような気安い関係……手を伸ばせば届く距離。

 しかし、そこには決定的に開いた隙間がある。

 触れてはいけない。越えてはいけない。


 そんな関係。




 これからは、付かず離れず、不即不離の関係を続けよう。


 それが今の俺達の精一杯なのだから……。






 遥……ごめんな。


 俺、誓ったけど、約束したけど……。


 刹那の事、好きなんだと思う。


 叶わなくても、時間が無くても。


 一緒にいたいよ……。














 Chapter1 setsuna Complete


 To Be Continued


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