055 第一章刹那43 豁然
怠惰の中に見いだした意志はわりと呆気なかったな。
必死に頑張って、たくさんの人達に迷惑を掛けて、信じてきたものを犠牲にした結果は『裏切り』だ。
慣れない勉強をして、縋るものを間違えて、行き着いた先は身の破滅だ。
志半ばで終了。
傑作だ。
みんなを裏切った気分はどうだ?
嫌な現実を受け入れる準備は出来たか?
まだ誰かを信じているのか?
誰を? 刹那? 瞬? 渉? それとも知り合って間もない生徒会のみんな? 妄想の遥?
一番裏切った結果になった刹那に何を求める? 昔と変わっていなかったとしても、刹那はがっかりするだろう? どんな顔をして会うつもりだ?
いつも一緒にいてくれた瞬か? いや、とっくに見限られてるだろう? 瞬が家に泊りに来なくなってどれくらい経つ?
生徒会とは関係ない渉? 関係ないから信じるのか?
五年前に繋がらない他のみんなだって同じだろう? 何にも知らない彼女達からすれば、ただの狂気の沙汰にしか見えなかっただろう?
一緒にいて何故か安心する海老原さんなら大丈夫か?
誰かさんに面影が重なるルナちゃんなら大丈夫か?
瞬みたいに気兼ねのいらない橘なら大丈夫か?
苦手だけど楽しい思い出を作った進藤さんなら大丈夫か?
妄想の遥に縋るのはいいけど、今は現実なんだ。ちょっと無理があるだろう? また都合のいい妄想を引っ張り出すのか?
嫌味な声が俺を責め苛んでいる。
俺が落ちた時に聞こえる『俺』の声。……随分と久し振りに聞こえた気がする。やけにタイミングがいい。俺が本当に落ちるまで、傍観していたみたいに……。
自分に言い返すなんて馬鹿げている。というより言い返す必要が無い。無視しておく。
今が夢なのか、現実なのか、よくわからない。意識はあるが、目に映るものが無い。
眠っているのか、目を閉じているだけなのか、黒い世界は何も答えてくれない。
どちらとしても意識がしっかりしてくれているお陰か、それとも嫌味な声のお陰なのか、俺は気付く事が出来た……。いや、自分を取り戻したと言っていい。
打ちのめされて、自覚して、ようやく自分を取り戻した。
馬鹿な事をやったものだと自嘲する事が出来た。
刹那が打ち明けようとしたあの日から、守るものを見つけたあの日から、走り出した俺は現実に縋り付いていた。
悪夢を見る事を恐れ、現実を維持している気になって、目的を見失っていた。自分を見失っていた。
俺の見いだした意志。そんなのただの綺麗事だった。俺は嫌な思い出から逃げていただけだった。自分の妄想から逃げていただけだった。
だから追い縋るものも受け入れる、幾つも。だから見失う、幾つも。
本当は忘れたくないくせに……現実が怖くて仕方ないくせに……。
そうだ。
俺は現実と妄想を都合のいいように入れ替えていた。
都合の悪い事は忘れ、都合のいい妄想を現実に置き換えていた。ある筈の無い夢の中の出来事を自分の記憶に刷り込んでいた。
俺の見る悪夢はある筈の無い『今』を映す妄想。
自分の都合のいいように造り出した『遥』を登場人物にしている妄想。成長した遥を俺と同じ17才に勝手に想像した妄想。五年前の事件を都合よく無かった事にしている妄想。
いない筈の遥と高校に通い、いない筈の遥と俺は笑い合い、いない筈の遥と瞬は笑い合っていた。
都合のいいだけの妄想は上手く出来ていた。俺が執行部に入った途端に登場人物に刹那が追加された。執行部のみんなも追加された。遥を中心とした妄想は執行部に舞台を移して続いた。
いない筈の遥は刹那と笑い合い、いない筈の遥は海老原さんと笑い合い、いない筈の遥はルナちゃん達と笑い合っていた。最近ではいない筈の遥と勉強会までしていた。
明晰夢であるその夢。俺は干渉する事が出来なかった。
『そこに遥はいない』……何度も言い聞かせた。
『これは妄想なんだ』……何度も言い聞かせた。
でも、俺の妄想は一人歩きしていた。そうあってほしい。遥なら喜んでくれる。遥なら応えてくれる。
都合のいい方向にばかり進んだ。
それが現実なら、どんなに嬉しい事か。
俺は干渉できなかったんじゃなくて干渉しなかったのかもしれない。どんなに現実が歪んでいっても、そうなる事を何処かで願っていたのかもしれない。
そして、現実に戻った時に感じる絶望のような孤独感……目覚める度に俺は狂いそうになっていた。夢と現実、どちらも俺には地獄だった。
何処にも遥はいないのだから。
…………これを悪夢といわずに何というか。
俺が現実に縋り付いてから、振り払える筈の無い悪夢は俺の縋った現実にも及んだ。
説明会や合同会議のあった日の勉強会。あれは俺の妄想だった。
意識が飛んだのも妄想。刹那が俺の顔で遊んでいたのも妄想。いたずらな瞬の行動も妄想。見つめていた海老原さんも妄想……。
違う。あれは海老原さんじゃなかった。見つめていたのは遥だったんだ。
俺は自分の都合のいいように見た夢の中の遥を現実の海老原さんと置き換えていたんだ。矛盾が発生しないように。
あの日の真実は違った。
勉強会の最中に意識を失った俺は、刹那達に気を遣われてずっと居眠りをしていた。
目を覚ました俺に刹那は優しく言った。無理しなくていい、目安箱の件も忘れていい、冗談だと忘れてしまえと。
俺はそれが嫌だった。刹那の言ってくれた勉強会の目標も、先生が信じてくれた目安箱の件も、俺にはそれを無かった事にするなんて出来なかった。
だから、夢に見た妄想を自分の記憶にすり替えたんだ。都合のいい方の記憶を選んだんだ。
他にもあるかもしれない。校門前の『だれだ』も、今日の登校の時に追い付いて来た刹那も……都合のいい遥を刹那にすり替えただけなのかもしれない。
まだある。
いくら自分の記憶を捏造したとしても、現実での俺の体はすぐに息切れした。
当然だろう。ただでさえ弱い体で、ほとんど睡眠を取っていないのだから。俺は日に日に弱っていった。
それに瞬が気付かない筈がない。
思い起こせば、瞬はいつも俺を気遣っていた。気遣ってくれていた。
『お前はいつも真に受ける……どうして気付かない振りをしないんだ……』
忘却した。
『一人で抱え込むなよ……』
忘却した。
『あと少しだ……頑張れ……』
忘却した。
瞬だけじゃない。海老原さん……彼女は最近、朝の新聞配達のバイトの度に自宅の前で待ってくれていた。
暖かいお茶を入れた水筒を持って待ってくれていた海老原さん。
忘却した。
手伝うとか言ってジャージ姿で待っていた海老原さん。これには本当に驚いた。
忘却した。
ルナちゃん達もそうだった。俺に与えられるかもしれない新しい仕事、目安箱の件。
『ルナ達って暇なんです。目安箱に関する下調べはルナ達がいただいたです。先輩は勉強会に専念しやがれです』
忘却した。
『あたしだってやべぇんだって! こんな事してる暇ないんだって! 帰ったら円のスパルタな個人指導が待ってるんだって! いや……まぁ、ルナが言うからやるけどさ』
忘却した。
『理解しかねる……事が終わったら、簡潔な、いや、こと細かな説明を要求する』
忘却した。
自分を維持するのに、都合の悪い事を全て忘却してきた。
……そして、みんなを裏切った。やり遂げる事すら出来なかった。
なんて馬鹿げているんだろう。なんて愚かなんだろう…………。
――そう思った時。
風 が 頬 を 撫 で た――。
現実に呼ばれた気がした。
閉じていた目を開く。
浮き上がったような、落ちたような感覚が捉えた世界は白かった。
肌に感じる白いベッド、肌をくすぐる風に揺れる白いカーテン、窓ガラスから差し込む白い光。
保健室。
僅かに鼻をつく薬品の匂い、自分が横たわる布団の感触、窓ガラスの向こうの風景、ここが一年二年校舎の一階にある保健室だとわかった。
俺はゆっくりと半身を起こす。ぴりぴりと痛む節々の痛みが現実を更に色濃くする。
12時。壁に掛けられた時計の針は二つとも真上を向いていた。午前で全て終わる予定であったテストは終わってしまっただろう。
この時点で俺のトップ30入りは消えた。いくら追試でいい点数を取ろうと掲示板には載らない。
俺の願った未来は叶わない。
風は尚も俺の肌をくすぐる。保健室の白に乱反射する白い光が綺麗だった。
「……刹那」
風に語り掛ける。
俺の声に応えるように風が吹く。白いカーテンが揺れる。白い光が揺れる。
彼女の髪も揺れる。
窓際に寂しそうに佇む刹那の髪も揺れていた。
「……いつから気付いていたの?」
中庭の風景を見つめたままの刹那、独り言のように言った。
「……ごめん」
俺は答えない。自分の一番伝えたい言葉を言った。
「……どうして謝るの?」
窓の外に語り掛けるように刹那の声は続く。刹那の声は、横顔は、寂しそうなままだった。
噛み合わない会話。
しかし、成立してしまう会話。
刹那の言ったことも、俺の言ったことも、二人は理解できてしまう。
……俺がそれに気が付いたのは、刹那が期末テストの目標を言った時。
もちろん、ちゃんと気付いたのは冷静になってからだが、あの時の刹那は明らかに刹那らしくない……。
当然だろう、刹那はあんな事を言いたくなかったのだから。あれは刹那の追い詰められた姿だったのだから。
刹那は昔からそうだった。己顕示欲が強くて自意識過剰で我が儘なくせに、いつも他人の事ばかり考えている。誰かに無理を押し付ける事なんて絶対にしない。刹那の我が儘には、いつも優しさが隣り合っていた。
俺は刹那との距離を取り戻す度に俺はそれを確信していた。
「謝る事が多すぎるよ……心配かけた事も……テストの事も……何も言わなかった事も……何も言わないでいてくれた事にも……」
刹那に応えられなかった俺には、裏切ってしまった俺には、言える言葉がわからない。
でも、足りない言葉は幼馴染みという俺達の関係が補ってくれる。五年間の隔たりはもう、消えていた。
「意味不明ね……本当にあなたはわからない……」
風が刹那の感情を俺に運ぶ。変わっていたと思っていた刹那は本当に優しいままだった。
「自分のこと『俺』とか言ってるし、ヘタレになってるし、何でも出来たのに何にも出来なくなってるし……私のこと『佐山さん』とか言うし……」
「……はは……」
本当に何も変わっていない。
「ムカつくから接収してやれば使えないし、ヘタレのくせにモテるし、お茶は美味しいし……」
瞬のお節介が切っ掛けだったのだろう……。強引に狭まった距離で感じた隔たりは刹那も同じだったんだ。
「別人みたいに変わったと思ってたのに……何も変わってないし……」
「刹那……」
「自分のことなんて二の次……自己犠牲のかたまり……あなたは……ばかね……」
横顔を逸しながら言う刹那の声が掠れていく。風が刹那の優しさをはらみ、俺の頬を撫でていく。
「違うんだ、刹那。俺は何も出来なかった。一人で足掻いていただけだったんだ。切っ掛けはそうだったとしても、結局は自分の為だったんだ」
そう、全て自分の為。刹那の為という大義名分を振りかざした独り善がりだったんだ。
刹那が打ち明けようとした五年前も。
刹那が言った期末テストの目標も。
先生の言った窓口の件も。
全てが刹那の為だった。
でも、違う。刹那の為といいながら、自分の嫌なものを受け入れなかっただけだった。
その全てに応えようとして、自滅しただけだったんだ。