054 第一章刹那42 鍔際
明晰夢というものがある。
明晰夢とは、眠っている時に見る夢の中で、自分が夢の中にいると自覚しながら見る夢のことである。
Lucid Dream (ルシッド ドリーム)ともいう。
俺はこの明晰夢を『必ず』見る。俺の悪夢は必ず明晰夢だった。
いや、明晰夢と呼べるものよりも、ずっとたちの悪い夢を必ず見てしまう。
――遥はもういない――。
『あーうー……テストなんて、どうしてあるんだろ……』
僕の右手と左手でつながった遥は言った。朝から今日のテストの文句ばっかり言っていた。
『頑張った結果を見せる機会、学校が生徒の能力を測定、評価する機会。意味を考えれば色々と出てくるかもしれないけど、僕もその意味を理解しかねているのは確かだね』
僕は苦笑しながらも優しく言った。
『うわぁーっ! 難しいこと言わないでよーっ!』
……つもりだったけど、僕の言い方が悪かったか、遥は駄々っ子をするみたいにつないでいる手を振り回してくる。
『ご、ごめん……い、いやさ、僕は遥に勉強を教えるのとか、楽しいよ? それで遥が頑張ってくれれば、もっと嬉しいし』
僕のフォローというか、とっさの苦しい言い訳みたいな本音を聞いた遥はピタッと駄々っ子を止める。そして、はにかんだような顔をチラチラ向けると、今度は恐る恐るといった感じで真っ赤な顔を僕に合わせてきた。
よくもまぁここまでコロコロと表情が変わるものである。……かわいいけど。
――都合のいい遥を造り上げるな――。
『……ずるいよ……そんなこと言われたら、ボクも頑張るしかないじゃん……』
視線から、言葉から、つないだ掌から、遥の気持ちが伝わってくる。
遥に当てられた僕の気持ちも伝わったに違いない。
とっても恥ずかしいけど、とっても心地のいい関係。
僕は遥の為だったら、なんだって出来る。遥が喜んでくれるなら、なんだって出来る。
僕の物語の主人公は僕じゃない、僕の物語の主人公は遥なんだ。僕は心の中心は遥なんだ。
――都合のいい夢を見るな――。
『……す、少し急ごっか? せっちゃん達も待ってるし、遅刻しちゃうよ』
照れ隠しするみたいにわざとらしく言う僕。たぶん僕の顔も真っ赤であるに違いない。
つないだ小さな掌は僕の全て。
つないだ小さな掌は俺の全て。
呼ばれて振り返った世界が、俺の全てなんだ。
…………
……リリッ
都合のいい妄想が霞み出す。
ぬくもりを伴った優しさが黒く塗り潰されていく。
ピリリリリッ
曖昧な現実にある俺の左手が動き出す。自分の意識がそうさせているのか、別のものなのか、今の俺にはわからない。
ピリ――
掴んだ携帯を引き寄せながらアラームを止める。
「――ハァッ! ハァッ!」
真っ先に寝汗にまみれた体の不快感を感じ取る。気持ち悪い……激しい動悸がして、体がもっと酸素を寄越せと要求してくる。
布団の感触、愛用の銀色の携帯、寝汗を否応に冷ます窮屈な自分の部屋の冷気。意識が覚醒していく。
「……はる……か……!」
覚醒した意識が不快感の次に感じ取ったのは激しい孤独感だった。
現実を理解すればするほど、胸を突き刺すような切なさが込み上げてくる。起き掛けの頭でもさっきまで見ていた遥の表情がはっきりと浮かぶ。
俺は両手で壊してしまいそうなくらいに携帯を握り締める。ガタガタと震える体を止めてくれ、と願うように。
アラームの設定を……と考えながら尚も震え続ける両手で携帯を開こうとして気付く。自分の馬鹿げた行動……反吐が出る。逃げてばかりいて誤魔化す事しか考えつかない自分に憎悪すら湧き上がる。
人間が夢を見るには1〜2分の睡眠で十分な夢を見る事ができる。たかが30分ずつ睡眠を刻んだところで意味は無い。ただ自分の体をいじめているだけのようなもの……。
……俺は何をやっているんだ。
そう頭では考えたとしても俺は携帯を開く。ただ自分は抗っていると言い聞かせるように行動する。もう俺にはそうする以外に考え付かなかった。……涙が出そうになった。
「…………バイト……行かなきゃ……」
開いた携帯に表示されていた時刻は午前3時を回っていた。馬鹿げた行動を繰り返している内に出掛ける時間が迫っていた。
既に頭の中のスイッチは切り替わっていた。時間通りに鳴り始める携帯のアラームのように、俺は痛む体を引き摺るように布団から這い出した。
全てが光り輝いていた。
楽しくて、優しかった。
笑顔を振り撒いて、ぬくもりを分け合っていた。
過ぎ去ったあの時は俺の心を捉えて離さない。
優しい人達の笑顔が俺の心を捉えて離さない。
……きっと、それは今も……。
だから、俺は抗ってしまう。
自分の運命を呪ってる訳じゃない。自分の過去を嘆いてる訳じゃない。不甲斐ない自分を蔑んでる訳じゃない。
俺はただ優しい人達に優しい笑顔でいてほしいだけなんだ。
たとえ自分を見失ったとしても――。
新聞配達のバイトを終え、朝の鍛練を終え、俺は毎朝の習慣通りに仏壇の前に座っていた。
「…………」
四つ並ぶ遺影。俺は虚ろな目で見つめる。
変わらない表情を前にして俺の胸は切なくなる。痛いくらいに胸が締め付けられれる。
静まり返る仏間。俺は語り掛けることができない。唇を噛んで写真を見つめるだけで精一杯だった。
湧き上がる罪悪感。
湧き上がる疚しさ。
湧き上がる虚しさ。
それらに堪えられない。ある筈の無い視線に堪えられない。自分が造り上げた愚かな被害妄想に怖くなる。
俺は一度も語り掛けることもないまま、逃げ出すように仏間を後にするしかなかった。
部屋を出る時に聞こえた気がした声……優しく思えた筈のその声すら、怖かった。
集中、集中、集中、集中、集中、集中、集中…。
晴れているのか、曇っているのか、雨が振っているのか、それすらわからない通学路を進む。いや、時計を見ていなければ、昼間なのか、夜なのか、それすらもわからない。
神経を研ぎ澄まして意識を叱咤し続けなければ、その場に蹲ってしまいそうだった。
期末テスト、今日は最終日である三日目。よく覚えていないが、初日と二日目はどうにか乗り切ったと思う。正直、至るところで記憶が飛ぶ自分に不安を感じてしまう。しかし、テスト自体は確かな手応えだったのだけはしっかりと覚えている。
一生で一番勉強したんじゃないか、と思うほど勉強した結果を試す時。歩くことすら精一杯だが、今日も問題を解いて答えを書くことなら出来そうだ。……馬鹿げている。
家を出てからどれくらいの時間が経っただろうか、周りには俺と同じように登校しているであろう生徒達の姿がある。……ような気がする。
最近の俺ならば、生徒会活動の為に始業時間一時間前には登校していた。しかし、テスト開始からは朝の活動だけは休みである。だから遅く登校した今日、学校の近くであろうここが賑わっている。……という事は始業時間の数分前くらいなのだろう。
周りの生徒達の表情はわからない。彼らが交わし合っている会話の内容もよく聞き取れない。テストの事か、それともテスト休みに関しての事か。今日はテスト最終日、明日はテスト休み、みんなのテストへの不安も、テスト休みへの期待もひとしおなのだと思う。……もちろん俺も。
「待って!」
自分に言い聞かせるように状況を確認している俺に突然の声が掛かる。
数時間前の妄想と重なり合ったその声にドキリと心臓が跳ね上がった。
遥? そう思う。俺はまだ夢を見ているのか? そう思う。
自分の虚勢が首をもたげ始める。一人の時には到底なし得ない集中力が自身を保とうと奮い立つ。
「…………」
……そうして意識がはっきりし始めると、思考の矛盾に気付く。
違う。
遥の筈がない、この声は刹那。今は現実に他ならない。
「おはよう、十八」
追い付いて来た刹那が隣に並びながら言う。走って来たらしい彼女は肩で息を弾ませていた。
「おはよう」
虚勢を絞り出すように挨拶を返す。表情はわからない、笑っているつもりだが、上手くできているかは自信が無い。
「……十八……」
やはり上手くできていなかったらしい……俺の挨拶を聞いた刹那は苦しそうに表情を歪ませる。呆れたのか、心配してくれているのかは、わからない。
もうすぐ学校とはいえ、刹那がどうして俺の家の方角から来たのか尋ねたかったが、俺は半ば諦め気味に刹那の次の言葉を待つしかなかった。
「何でもないわ……あなたの好きなようになさい……」
「えっ……?」
思っていた事と違う事を言った刹那に、俺は呆気に取られた。
刹那はその俺をちらりと一瞥しただけで校門への坂を駆け上がって行ってしまった。
……胸に風穴が空いた気がした。
最近は優しかった刹那も、今の俺のどうしようも無い姿に呆れてしまったのだろうか……。
空虚な心で立ち尽くす俺はぼんやりと刹那の背中を見送った。
――いつの間にか教室にいた。
自分の席である窓際の一番後ろの席。見慣れた教室の風景。テスト期間でも席順は変わっていないから、目の前の渉の後頭部がある。
「それでは、早速テストを配りたいと思います」
えっ?
「伏せたままで後ろに回していってください」
影の薄い担任が問題用紙と思われる物を配っている。どういう訳だかもうテストが始まってしまうらしい。突然の事に思考が追い付かないせいなのか、もっと根本的な間違いなのか、俺にはここまでの経緯が全くわからない。
不安になった俺は条件反射に近い動きで隣の隣の瞬に視線を移す。
瞬は俺の視線に気付かないのか、机に肘を付いてつまらなそうに座っている。上の空で黒板を見つめる様子はどこか疲れているようにも見えた。
――ふと気付く。
そういえば俺は瞬と久しく会話をしていない気がする。今までであれば、学校はもちろん、俺の家、最近では生徒会の仕事の時などに周りから変な噂が立つくらいに一緒にいるのが当たり前だった筈だ。
おかしい……最近、瞬と絡んだ覚えがほとんど無い。一番最後の記憶でも一週間以上前、合同会議の日だ。その日の勉強会が最後だと思うが、俺はその時に瞬と会話をしたか? ……してない気がする。
たぶん最後の記憶では、合同会議後の先生とのやり取りの前が最後だ。それ以降に瞬と話した覚えが全くない。
……どうして?
「……シオ?」
「えっ?」
ズキズキと痛む頭を抱えていると、声が掛かる。顔を上げると、用紙を俺の眼前でヒラヒラしている渉が首を傾げていた。
「あっ……ごめん」
すぐに気付いて用紙を受け取る。
そうだった、今はテストが始まろうとしている時だった。俺はせっかくやってきた勉強の成果を示さなければいけないんだ。
今日の一限目は数学。俺が一番点数を稼げる教科だ。頑張らないと……。
瞬には、このテストが終わったら話し掛けてみよう……。
――ハッとした。
気が付くと、目の前にはテスト用紙。いつの間にか意識が飛んでいたのかと慌てて問題を読むと…………?
英文。
英文の羅列がある。
俺は目眩を覚えた。
おかしい、おかしい、おかしい。
今は数学のテストの筈じゃないのか? どうして数学のテスト用紙に数字がほとんど無いんだ? どうして英単語の群れが書き記されているんだ?
確かに今日は英語のテストもある。一限目が数字で二限目が英語で間違いはない。という事は俺は数字のテストが始まる前から英語のテストの二限目まで意識を失っていたという事か?
背中にも、額にも、脂汗がにじんだのがわかる。己の状況に大きな危機感を感じ取る。
遅かれ早かれ、馬鹿な行動を繰り返している自分がどうにかなるのはわかっていた。
……でも、テストが終わるまでは保ってほしかった。
どうやらそれは叶わない願いだったようだ……。
理解した途端に頭はスッキリした気がする。周りのクラスメイト達が発するペンの音がやけにクリアに聞こえた。うるさいくらいに大きく聞こえた。
湧き上がる焦燥感は無視。幾つもの矛盾に気付かないのか、気付けないのか、心の中で自嘲しながら俺もペンを取った。
――瞬間、ガタンという大きな音、同時に視界が掻き回されたように回転した。周りから悲鳴のような声が聞こえた気がする。
なんだろう? と考えようとするが叶わない。
俺の意識はそこまでだった――。