046 第一章刹那34 因果
一睡も出来なかった俺は朝のバイトを終えると、いつも通りの時間に登校していた。
いつも通りの時間といっても今までよりは早い時間だった。この時間、一昨日と同じ時間であればだが刹那が登校して来る時間。俺は無意識にこの時間にここにいた。
海老原さんは図書館棟だろうか、姿は見えないが時計棟の鍵は開いていた。最近知った事だが毎朝の時計棟の鍵を開けるのは海老原さんの仕事らしい。
時計棟昇降口の扉を開く。
刹那がいた。
丁度登校して来たところらしく、背中を向けて時計棟用の上靴を履いていた。
瞬間に俺の胸が高鳴った。目の前の存在が僅かに残っていた不安感を拭い去った。意志とは無関係に湧き上がる嬉しさが俺を包む。不眠からの体の気怠さすらも吹き飛んだ気がした。
「おはよう、刹那」
湧き上がる思いに任せたまま、言う。
「――っ!?」
俺の声を聞いた刹那。突然の声だったからか凄いびっくりしたような反応だった。
「……おはょぅ」
「えっ?」
辛うじて聞き取れる位の小さな声で挨拶を返してくれた刹那。と思ったら、凄い勢いで奥に歩いて行ってしまう。
「ちょ、ちょっと? 待ってよ」
こっちを向いてくれないので表情がわからないが、明らかに逃げるように行ってしまう刹那。なんで?って感じで慌てて追い掛ける俺。
「ついて来ないでよっ」
早歩きでずんずん行く刹那。それをちょっと必死に追い掛ける俺。
「なんでだよ? 俺って何かやったかよ」
心当たりといえば昨日の一件。何かやったといえばやったが、深夜に交したあの電話の後にそんな行動を取られても正直困る。
「別になんでもないわよ! あぁ……! 軽率だったわ軽率だったわ軽率だったわ……!」
ぶつぶつ言いながら加速する刹那。
意味わからん。
……と、その途中で本を抱えた海老原さんを発見した。
「あっ、海老原さん。おはよう」
急ブレーキで立ち止まって挨拶をする。
「……おは、よ……」
じぃ〜
さぁ早速とばかりに俺を凝視しながら言う海老原さん。俺を気遣うような不安そうな表情だった。
「……十八……大丈夫……なの……?」
じぃ〜
そうか……海老原さんは俺を馬鹿な醜態を晒した時までしか知らないんだ。
「……い、や……昨日はごめん……ちょっと懐かしくてさ。感極まったってヤツだっただけだからさ、もう、大丈夫だから……」
何についてなのか言わない。大丈夫という漠然とした言葉を使う。取り繕った言葉。上手く出来る筈ない作り笑いで視線を合わす。
海老原さんのしてくれた気遣いにそんな言葉を返した自分に心底腹が立った。
「…………」
俺の取り繕った言葉に対して海老原さんは何も言わない。ただ俺の顔を、いや、俺の瞳を見つめて来るだけだった。
じぃ〜
いつものような、少し違うような長い前髪越しの真っ直ぐな視線。
「……それ、持つよ」
その視線に俺は堪えられなかった。卑怯な口実で合わせた視線を外す。
ごめん……海老原さん。
本当に優しい海老原さんに申し訳ない気持ちで一杯だった。
……と、自分の下衆な感情に嫌気が差して来た時。
「――ちょっと十八っ! どうして追い掛けて来ないのよ!」
!!?
はい?
突然、正に突然の大きな声に呆気に取られる俺と海老原さん。
「あの状況で諦めてどうするのよ! 会長室に鍵まで掛けて待ってたのに!」
……えーと、廊下の奥からぷんぷんと文句を垂れ流しながら現れたのはもちろん我らが生徒会長の刹那さんです。
「い、いや、海老原さんがいたからさ」
色々と構えながら言い訳してみる。
「あら曜子、おはよう。……ほらっ! みっともない言い訳している暇があったら、さっさとお茶を淹れて来なさいよ! あなたの朝一番の仕事は先ずそれでしょう!」
両手を腰に当てて仁王立ちする刹那がいつ決定したのかわからない俺のダメ出しをしてくる。
「わかった、わかったから。海老原さん、この本と一緒に海老原さんの分も淹れて持って行くからね」
言いながら逃げるように給湯室に退散する俺。
逃げる理由は刹那が怒っていたからじゃない。突然で慌てた訳でもない。
自分の嬉しくてニヤけた顔が恥ずかしかったからだ。
思っていたより元気そうな刹那が嬉しくて、強引に怒る刹那が嬉しくて、それに困る自分が嬉しくて、俺達を見て不安そうな表情を和らげてくれた海老原さんが嬉しくて。
安心したからだ。
カタカタカタカタ
「…………」
カタカタカタカタ
「…………」
カタカタカタカタ
先ほどのやり取りから数分後。
刹那の指令通りにお茶を淹れて来た俺は事務室を経由して会長室に来ていた。しかし、『お待たせ→ありがとう』からずっと無言。刹那にさっきの強引な勢いはさっぱり無い。彼女の叩くパソコンのキーボードの音だけが会長室に響いていた。
刹那。昨日の一件を引き摺っているのかいないのか、いつにも増して不機嫌そうな仏頂面。
……でも良かった。もし俺なんかの為に罪悪感のような物を引き摺っているとしたら俺はどうしたらいいかわからなかった。昨日の電話のような事を面と向かってやれ、と言われてもたぶん無理だ。
ともかく、朝の生徒会活動といっても俺のやるような仕事は無い。お茶を淹れたらだいたい突っ立ってるだけ。今までそうであったように今日もそれは同じだった。
「なぁ……」
さっきから自分の状況を整理しようと思考を巡らせているが、色々とこんがらがってさっぱりまとまらない俺の単純思考回路。そのこんがらがった色々の要因の一つである彼女に声を掛けてみた。
「なによ。疲れたなら教室行けば?」
カタカタカタカタ
……うわぁ、怒ってる? 刹那、怒ってるのかな? 気持ちキーボードを叩く勢いが上がった気もするし。
「いや、大丈夫だけどさ。刹那……怒ってる?」
カタ……
ピタッと止まるキーボードを叩く音。
言ってから、言っちゃった、って思った。
「べ、別に怒ってないわよっ!」
えっ、なに? この反応。今みたいな聞き方したら怒られて当然って思ってたのに。なんか自然と『ツンデレ』ってキーワードが浮かんだぞ?
「刹那?」
「なによっ!」
カタカタカタカタ
不機嫌モードとタイピングが復活しました。
うーむ。まさか有り得ないと思うが、もしかしたらと考えるとニヤけてしまいそうだ。……ちょっと調子に乗ってみよう。
「まだ教室には行かないよ」
「どうしてよっ!」
カタカタカタカタ
「ぎりぎりまでここにいるよ」
「だからどうしてよっ!」
カタカタカタカタ
「一緒にいたいから」
カタタタッ
「あっ!」
何やらミスってしまったらしい刹那。マジで?って思って刹那の表情を窺おうとすると、さっと紅い顔を逸らされてしまう。そう、紅い顔を逸らされたのである。
……って、いや、マジかよ?
必然的に俺も顔が紅くなる。何も言えない。刹那も何も言わない。
「「…………」」
しーんと静まり返る会長室。いつもは聞こえて来る筈の部活の喧騒も聞こえて来ない。嫌に静かだった。いや、静か過ぎる!
なんやねんっ! この幸せ空間はなんやねんやっ!
「……十八」
「えっ?」
一人盛り上がる俺に小さな声が届く。
俺は軽く驚いてしまう。静まり返っていた所で呼ばれて驚いた訳ではない。呼んでくれた刹那の声、暗く沈んだ悲しそうな声、ついさっきまでとはまるで違う暗い声、昨日の電話の声に重なってしまう悲しい声を聞いたからだった。
幸せ空間は一瞬で消え去っていた。
「十八……私……」
俺から視線を逸らしたままの刹那。とても言い辛そうに、とても辛そうに、とても悲しそうに……俯いていた。
足元から消えていた不安が這い上がろうとしている。
つなぎ止めていた現実が足元から不安定になって行く。
いけない。この先を言わせてはいけない。俺の心がそう訴える。
「――せつ」
コンコン
「「…………」」
突然のノックの音。それは俺の声と俺達の思考を、いや、この部屋の空間すらを中断した。
悲しそうな表情を一瞬だけ俺に向けた刹那。
「どうぞ」
『いつもの』ように凛とした声で応える。ついさっきまでいた刹那はいない。生徒会長、佐山刹那がそこにいた。
「……失礼……します……」
ノックの主はファイルの束を抱えた海老原さんだった。
「……曜子。どうしたの?」
生徒会長、佐山刹那は訊く。
「……来月の……定例説明会の案件と……目安箱の……件……まとまったの……」
胸元に抱えたファイルの束がそうなのだろう。
「そう。十八、受け取って」
凛とした声が告げる。
「わかった」
ぼぉ〜っとしたような海老原さんからファイルの束を受け取る。
「ありがとう、曜子。放課後までにディスクにまとめて発表できるようにしておくわ」
「…………うん……」
そう言うと海老原さんは少し不安そうな表情で俺を一瞥してから会長室を出て行った。
「……十八。それを置いて教室に行っていいわ……」
とても小さな刹那の声、凛とした雰囲気は消えていた。
「でも、刹那」
「お願い……」
凛とした生徒会長の雰囲気も、元気だったせっちゃんの雰囲気も、我が儘だけど優しい刹那の雰囲気も、消えていた。
机に付いた立て肘の上で組んだ両手で顔を隠す刹那。見ていられない位に痛々しい。
「……わかった」
きっと俺がいるのは逆効果だろう。そう思って会長室を後にする。
部屋を出る前にもう一度刹那に刹那に視線を送る。
「…………」
俯く刹那を右目に焼き付ける。
会長室を出る。
静まり返る時計棟の廊下。海老原さんは教室に行ってしまったか事務室に行ってしまったようで右も左も誰もいない。
でも背中にある扉の向こうの刹那の存在が俺の思考を支配する。
「……せっちゃん」
無意識に、無意味に呟く。
俺は彼女が何を言おうとしていたのか知っていた。
彼女が悲しい理由を知っていた。
全ては五年前のあの日の事に他ならない。
俺も刹那もそれを執拗に隠している。だからこそお互いの距離は開いていた。
縮まってしまった俺達。……刹那は打ち明けようとしている。
「…………」
俺は無意識に拳を握り締めていた。右手も、役立たずの左手も、力一杯握り締めていた。溢れ出そうになるものを堪えるように、逆らうように、振り払うように、俺の精一杯の力で、心で、握り締めていた。
言わせてはいけない。
絶対に言わせてはいけない。
二度と刹那にあの表情をさせてはいけない。
遥だってそう望む筈だ。
近付く距離とは正反対のものを見いだした俺の意志。動き出したその意志は今までの俺を否定するものに他ならない。
昨日から止まらずに流れ続ける俺の現実。
俺の過去。
刹那の現在。
……未来。
誰のものかもわからないこれから……。
自分の事を忘れ、『彼女』ではなく『彼女』を気に掛ける俺は……。
曖昧で不安定な現実に縋り付いていた……。