045 第一章刹那33 痕跡
そこにあった幸せ。
当たり前のように、ごく自然に、意識なんてした事ない。誰かに言われても受け入れない。続くと信じていたから、無くなるなんて思った事なかったから、前触れなんて無かったから。
幸せは気付けないから幸せなんだろう。
失って初めて気付くものなんだろう。
『なぁ。寒いし、もう眠いから明日にしようよ』
『えぇぇ? うぅ……ねぇ、じゃあさ、そっちに行ってもいい?』
『えっ? ヤダよ、もう遅いじゃないか』
『いいじゃない、私まだ眠くなくってさぁ。ねっ? お願い』
『はぁ……ったく……わかったよ。枕は持って来てよ』
『はははっ、うん』
刹那の部屋。
『この際だから関係副詞、複合関係詞は捨てるわ。レイチェル先生の英語は難しいらしいけど、難問とされる問題の配点は低いの。基本を押さえた方が点数は上がるわね』
むにむに
「なるほど、わかった」
テーブルには俺と海老原さんが向かい合うように座っている。刹那は俺の隣から俺のペンが止まる度に色々と指摘してくれる。海老原さんもテキストを開いてふむふむしているのを見ると自分の勉強をしているらしい。瞬は刹那の机に座って俺をニヤニヤと見ていた。
「ほら、また間違えた。そこの訳は『しない』じゃなくて『するとは限らない』でしょ?」
むにむに
「あ、うん、そっか。ありがとう」
くおお……! 教えてくれるのは嬉しいが、さっきっから刹那の色んな所が当たってるよぉぉ。密着し過ぎだよぉぉ。むにむにってやわっこいよぉぉ。瞬と海老原さんの視線がイタイってばよぉぉ。
「ただいまー」
俺が勉強に集中できる筈ない状況に頭を沸騰寸前まで暖めていると、階下から声が聞こえた。
「お母さんだわ。十八、下に行こ」
「ああ……って、刹那」
待ってました、っとでも言わんばかりの勢いの刹那、嬉しそうに俺の手を引く。突然すぎて焦る間も無く引っ張られて行く俺。ニンマーっとした笑顔の瞬とぼぉ〜っとした表情の海老原さんに見送られながら引き摺られて行く。
刹那と二人で階下へ。
「おかえり。お母さん」
「おひ、おひ、お久しぶりです!」
吹き抜けの階段の下の玄関。そこに帰宅したばかりの刹那達のお母さんがいた。
刹那と瞬のお母さん。五年前に俺が退院して以来だろうか……。
でも顔はほとんど毎日見てる。実は刹那達の両親は夫婦揃ってニュースキャスターだ。佐山直之、早苗夫妻は朝の顔だったりする。
「トヤ君……」
「……あ」
懐かしい愛称で呼んでくれたおばさん……泣いている。
「元気にしてた? 瞬から話を聞く位で……心配で……」
そう言うとおばさんは俺の胸に顔を埋めてしまう。俺のワイシャツにおばさんの涙が染み込んで行く。
『上手くやってる。心配いらない』。佐山の家に迷惑を掛けたくなかった俺は瞬にそう伝えるように頼んでいた。
「おじいさんも亡くなったって聞いて……大丈夫? 生活は出来ている? 寂しくない?」
震える声で言うおばさん。
……俺はバカだ。この人も……おじさんも……俺を心配しない筈ないじゃないか。
「……はい……瞬と刹那がいますから……」
俺も泣いていた。釣られた訳ではない。おばさんの優しさが苦しいほど嬉しかった。忘れていた懐かしい優しさが暖かかった。
「……十八」
後ろにいる刹那が俺の名前を呟く。震える手で俺のワイシャツを掴む。
……刹那、ありがとう。
しばらくして刹那の部屋に戻ると勉強会再開となった。
刹那は付きっきりで勉強を教えてくれている。
「いい? 英語はね、まずは読む事なの。テスト範囲の中の例文でも過去問の例文でも何でもいいからたくさん読むの。後は例題に沿って数をこなして行けば、点数なんて簡単に稼げるわ」
ねっ?って感じでそう言うと、例文を完璧な発音で読み上げる刹那。わざわざ読み上げる単語と訳文を指差しながら読んでくれるのでわかりやすい。苦手だった英語が少しも苦痛じゃなかった。
密着する刹那には少し困ったけど刹那が強引に進める勉強会は楽しかった。
海老原さんはいつものようにあまり喋らなかったし、瞬のニヤニヤ笑いは気になったけど楽しかった。
いつもより優しい刹那との空間が心地よかった。
楽しかった。
でも楽しい時間はそこまでだった。
「十八、手が止まってるわよ?」
「ああ、教科書見すぎかな? 目が痛いよ」
苦痛ではなかった勉強。しかし酷使し過ぎた俺の右目が悲鳴を上げ始めていた。
「ちょっと換気しようか?」
「えっ!?」
優しい雰囲気のままの刹那が窓を開けようと立ち上がる。何故か瞬が驚いたような声を上げた。
――刹那が窓を開けた瞬間、俺は見てはいけない物を見てしまった。
隣の家。
隣の家の壁があった。
視界にモザイクが掛かる。目に映るものがぼやけて行く、霞んで行く。頭の中の妄想が加速して行く。ある筈の無い幻想がフラッシュバックして行く。都合のいい現実が音を立てて崩れ落ちて行く。
なんだ? なんだ? なんだなんだなんだなんだなんだ? 何が起きている?
「刹那! 窓を閉めろ!!」
「えっ? 十八……?」
俺を見て固まっている刹那の代わりに窓を乱暴に閉める瞬。
乱暴だなぁ。そんなに急いで閉めなくても…………? って、あれっ? なんだっけ? どうしてみんなは俺に注目しているんだっけ?
どうしてみんなの表情がわからないんだっけ?
「……十八……! 十八……!」
海老原さん? そんなに慌ててどうしたのさ?
「――――」
あれっ? 喋れない?
ガチガチガチガチ
なんの音だ? って、えっ? これ俺じゃん! 俺の歯がガチガチいってる音じゃん! 寒いの? いや、別に寒くないよな。どうして? 俺は何をやってるんだ?
「十八! 大丈夫? 大丈夫? どうして?」
刹那まで。いったい何が起きているんだ?
「昔この窓を開けたら何があったよ!! 刹那ぁっ!!」
怒声とも取れる瞬の大声。
それを聞いた俺の震えが止まる。
窓を開けたら何があった?
自分の状況を理解する。
俺は号泣していた。止めどなく流れる涙が頬を伝って行く。役立たずの左目からも溢れている。人前で晒してはいけない弱さを晒している。
しかし状況を理解したと同時に、繋がった。
自分の妄想と都合のいい現実が、繋がった。
刹那の部屋の窓。
開けたら俺の部屋の窓があった。
五年前までは――。
「今日は解散しよう……」
瞬が言う。
「「「…………」」」
誰も答えない。しかし誰もがそうするべきである事をわかっていた。
「俺は十八を送って来る。海老ちゃんも送るよ」
「……私は……大丈夫……十八を……送って、あげて……?」
「わかった。気を付けて帰ってくれ」
俺を気遣っている二人の会話をぼんやりと眺める。
「十八……行こう」
部屋を出るように促す瞬。未だ余韻を引き摺る俺の背中を押す。
「……刹那、ゴメン……」
刹那の部屋を出る前に刹那に声を掛ける。
「…………」
背中を向けて座る刹那、俯いたまま何も答えなかった。
帰り道を瞬と二人で歩く。
「母さんには上手く言っておくから」
いつにも増して俺を気遣っている瞬、言葉を選んでいるように、慎重そうに言う。
「ああ……悪い……」
気分は最悪だが、俺はだいぶ落ち着いて来ていた。
「十八……俺がちゃんと見ていれば……すまない」
申し訳なさそうに、悔しそうに言う瞬。
「……ばか。謝るのは俺だろ? 刹那にも悪い事、したよ……」
親友の声を聞いて俺の心が穏やかになって行くのがわかる。
「俺は最初から不安だったんだ。十八は言わなかったけど、十八が俺達の家を避けていたのはわかってた。今日の勉強会の事を聞いた時は本当に驚いたんだぞ?」
「瞬……」
お節介なくせにどうしようもない位に優しい親友。俺は長い間コイツを苦しめていたのかもしれない。
「突然の中央委員会で遅れてさ。俺はお前がどうにかなってるんじゃないかって、すっ飛んで行ったんだ。でもお前、刹那もやたらと仲良さそうでさ、昔みたいにさ……俺も気ぃ抜けてたんだよな……」
「…………」
瞬の話す言葉に妙に納得してしまう。
「……俺も、そうだよ、瞬」
「えっ?」
「俺もさ、最初は怖かったんだ。でも……刹那の部屋があんまり変わってなくてさ。おばさんに会えて、刹那が優しくてさ……気持ちが昔に戻ってたよ……」
そう。嫌というほど理解した筈だったのに、自分の都合のいいように勝手な妄想を現実に引っ張り出したんだ、俺は……。
「十八……」
自宅に着いた俺はすぐにシャワーを浴びて布団に入った。
布団に入って何時間が経ったのだろうか。時刻は日付を変える時間を過ぎて深い夜の時間へと変わっていた。
バイトをせずに帰宅した為なのか、あるいは五年振りに訪れた場所を引き摺っているからなのか、酷く落ち着かなかった。眠れなかった。悪夢を恐れてではない。自分の中に渦巻く想いが俺を現実に留める。
いや、違う。俺が気になっているのは一つ。刹那だ。
部屋を出る時に見た刹那の弱々しい背中。俺のワイシャツを掴んだ震える手。楽しそうに勉強を教えてくれていた刹那の声。俺に向けられた全てが彼女の優しさに思えてならなかった。
彼女の事が頭から離れなかった。
ピリリリリッ
「――!」
驚く。暗い静寂に包まれた部屋に突然鳴り響いた電子音。
時刻は深夜1時を回っていた。
着信 佐山刹那
「刹那!?」
俺は慌てて通話ボタンを押す。
「もしもし! 刹那!?」
『…………』
大急ぎで応えた俺の声への反応は無かった。
「刹那? 刹那?」
『…………』
再度呼び掛けた声にも反応は無い。
「…………」
『…………』
声を発しない刹那に倣うように俺も口を閉ざす。何も無い部屋が再び静寂に包まれる。
ふと思い出す。
まだ小学生の頃、俺がまだ刹那達の隣に住んでいた頃、俺の部屋が刹那の部屋の隣にあった頃。今思えばただの欠陥住宅、近すぎる窓の向こうに刹那の部屋があった頃。
深夜だろうと何だろうと窓を叩く音に起こされた事があった。
『……せっちゃん……どうしたの?』
眠いままの瞼を擦りながら渋々窓を開けた俺はそう尋ねた。いつも。いつでも。
『…………』
決まって彼女は何も言わなかった。ただ俯いていただけだった。
『……もう、しょうがないなぁ……ほら、こっち来なよ』
親に怒られて沈んでいた時、瞬とケンカしてむくれていた時、怖い夢を見て震えていた時、寂しくて眠れなかった時。
いつも彼女は俺を呼んだ。
それは当たり前だった。
「せっちゃん。どうしたの?」
俺は言った。当たり前のように。それが今言えるたった一つの言葉のように。
『…………』
刹那は答えない。五年前と変わらない答えが返って来る。
俺はそれ以上何も言わなかった。電話口の向こう。刹那の俯く姿を思い描いて虚空を見つめていた。
『…………うぅ……』
携帯越しに彼女の声を聞いた。彼女の弱さを初めて知った。
『……うぅ……っぅ……私、無神経……だった……』
やっと応えてくれた刹那。でもその声は別人を思わせるほど弱々しく、痛々しかった。
「……刹那は悪くないよ……?」
そう、刹那は絶対に悪くない。誰がなんと言おうとそれは間違いない。刹那の優しさを間違いだなんて、俺が許さない。
『うぅ……! でも……!』
刹那……本当に嬉しい俺の幼馴染み。
「刹那……いいかい? 俺は嬉しかったんだ、刹那が呼んでくれてさ、刹那が優しくてさ、刹那の部屋が変わってなくてさ、刹那のお母さんに会えてさ、刹那が毎日勉強教えてくれるって聞いてさ、刹那に毎日会えるって……思ってさ……」
俺は納得していた。瞬の言葉と同じように、それ以上に、自分の言葉に納得していた。
「五年前に『あんな事』なくてさ、俺はまだ隣に住んでてさ、いつものように、当たり前のように、ただ俺は刹那の部屋に遊びに行ってたんだなぁ……ってさ……錯覚、していたんだよ……」
『……トヤ、君……』
刹那の声が俺の間違った心を覆う。五年振りに聞くせっちゃんの声が落ちた俺の心を拾い上げる。
「だから刹那? 悪いのは俺なの、わかった?」
『……でも……』
「いいんだよ、せっちゃん。俺はもう大丈夫だからさ。明日からまた勉強会しようよ、ねっ?」
弱々しい刹那に優しく言う。『彼女』に言うように優しく、言う。
『……トヤ君……トヤ君……トヤ君……』
それから刹那は俺を懐かしい愛称で呼ぶばかりだった。
電話を切れない俺は刹那が泣き疲れて眠るまで、ずっとそれを聞いていた……。