041 第一章刹那29 涙雨
「幼馴染みだぁ?」
レストラン&ダイニングバーleaf
「昔家が隣同士だっただけです。それに刹那は瞬の双子の姉なんですよ」
みんなと別れた俺は大急ぎでleafに出勤した。遊び疲れた体でどうにかディナータイムを乗り切って恒例のアナログ皿洗い。そこで永島さんに夕方の件をねちねち問い詰められていた。
「佐山の姉弟だったのかぁ。そりゃぁ驚きだな」
瞬はたまにleafに顔を出すので永島さんも知っている。
「親友の姉で同級生で幼馴染みだとぉ……幼馴染みだとぉ……」
ぶつぶつ言い始める永島さん。
「や。本当に仲良かったのは小学校までで。また仲良くなったのも最近で。別に朝起こしに来てくれたりとか無いっスよ? あの、聞いてます?」
「あんなにかわいい幼馴染み、しかもツンデレだとぉ」
「ちょっとちょっと永島さん!? 勝手に変に捏造しないでくださいよ!」
何を言おうと聞いてくれない永島さん。結局、上がりの時間までいじられまくってしまった。
最高の日曜日?
……落ちるぞ。
……堕ちるぞ。
……墜ちるぞ。
お前にそんなものがあると思っているのか?
浮かれて立ち止まっても踏み外す落差が大きいだけだぞ?
信念も約束も後回しか?
お前に後なんて無いのに……。
黒い道路を歩く。
バイトを終えて外に出ると雨が降っていた。観覧車から見た綺麗な夕日が嘘だったみたいに、シトシトと冷たい雨が全てを濡らしていた。雨が傘を叩く音、雨が軒を叩く音、耳に届く音はそれだけ。海岸沿いの家路、いつもは聞こえてくる筈の波の音も雨音にかき消されていた。
黒い。
辿る家路は黒い。意味を為さない申し訳程度の街灯に照らされた黒い道路。分厚い雨雲に遮られた黒い空。店長が貸してくれた黒い傘。きっと俺も黒い。みんな真っ黒だ。
俺は不安だった。
あの時の茜色が嘘だったみたいに……あの時の刹那も嘘だったんじゃないのか……。俺の名前を呼んでくれた海老原さんも……。いつもと違った進藤さんも……。何やら不憫だった渉も……。なんだってお見通しだった親友さえも……。
みんな嘘だったんじゃないのか?
ポケットの中の携帯を無意味に握り締める。力なく握る事しか出来ない左手では俺の不安が届いてくれない気がする。でも縋る、無意識に、湧き上がる衝動に任せるままに、渇望するかの如く縋る。繋がってもいない携帯で届く筈ないのはもちろん知っている。でも今俺が縋る事が出来るのは唯一それだけかのように思う。俺を知ってる人とのたった一つの繋がりのように思う。俺を現実につなぎ止めてくれる唯一の物に思う。
慣れた筈だったのに。
もう諦めた筈なのに……。
黒の先。役立たずの俺の視力でも確認できる。いや、体が覚えた距離感が弾き出した答えだろうか。自宅の門が見えて来ていた。
そこに違和感がある。
明かりが漏れている。門扉の隙間から漏れる明かりは間違いなく居間の明かりだった。消し忘れではないと思う。というより雨戸を開けた覚えが無い。
誰かがいる?
じいちゃん? そんな筈は無い。じいちゃんはもういない。
瞬? それも違う。瞬が何の連絡も無しに家に上がり込む事は無い。鍵だって掛かっている。
不安が加速する。
「…………」
いや、何を考えているんだ。わかってる筈だ。都合のいい考えに逃げても現実は変わらない。妄想を膨らませても余計に苦しくなるだけ。明かりを見た時点で気付いた筈だ。馬鹿か、俺は?
玄関の扉を開ける。
「……失礼致します」
いつもと違う挨拶をしながら。
返事は返って来ない。しかし明かり以外にも玄関に普段とは違う物がある。丁寧に揃えられた女性用の麻裏草履。当然の事ながらこの家に女性はいない。元より俺以外に住人はいない。
黒い廊下を進み、明かりが漏れる居間の前。俺は襖を開けず、その場に腰を下ろす。冷たい廊下に腰を下ろす。堅い廊下に正座で腰を下ろす。
「十八です。ただ今戻りました」
居ずまいを正した俺は襖の向こうに声を掛ける。
「……随分と遅い、ご帰宅ですね……十八さん。また、アルバイト、ですか?」
明るい居間から静かな声が返って来る。声の感じは丁寧で静かなものだが、冷たく苛立っている事を感じ取る。
「はい。いつものレストランのアルバイトです」
暗い廊下から言葉を返す。目の前には襖が見えるだけ。
「昼間も、留守にしていた、ようですが、どちらに、出掛けて、いらしたの、ですか?」
所々言葉を切る独特の喋り方で言葉が続く。どうやら昼間も来たか、昼間から待っていたらしい。
「昼間は……友達と、遊びに行っていました」
鳥肌が立った。廊下の冷たい空気のせいではない。雨に濡れたせいではない。
「……友達? それは、それは。大層な、ご身分ですね、十八さん。学校以外で……アルバイトも、まぁ、いいでしょう。それら以外で、なるべく家を、空けないように。そう言い伝えた、筈ですが……?」
「申し訳ありません……」
寒い。全身の血が冷めていくようだ。心が寒い……。
「あなたが、ここに、住む以上、管理は、任せていた、筈です」
そう。俺がここに住んでもいい条件。じいちゃんの遺言のお陰もあるが遺言にも限界があった。
後見人。
俺が社会的に自立していない以上、どうしてもその存在が不可欠になる。そしてその後見人は俺との同居を拒み、遺言通りに俺が遺産として受け継いだ屋敷に住むように言われた。この屋敷の管理を怠らないという条件と共に後見人を引き受けてくれた。
「掃除の方は土曜日の内に済ませておきました」
実際その通りなのだが、言ってから後悔した。そう思っていると目の前の襖がゆっくりと開く。同時に居間の照明の光が俺を包み込む。長い間暗い風景を辿っていた俺の視界が真っ白になる。
「そういう事を、言っているのでは、ありません。十八さん、あなたには、『この屋敷の、管理を、怠らない様に』、と、言い伝えた、筈です」
白くなった俺の視界の中心には『後見人』さんの足元。顔を上げて目を合わせる事は無い。許されていない。
「申し訳ありません……。今井さん」
足元に視線を固定したまま、正座の姿勢を保ったまま言う。
今井しえさん。俺の後見人で、いつも和服姿の老齢の女性。じいちゃんの奥さんの妹さん。つまり俺のばあちゃんの妹さん。俺の唯一の親類関係に当たる。
「まぁ、いいでしょう……今日の、所は、『屋敷』の、様子を、見に来た、だけです。私は、帰ります」
そう言いながら襖を閉める今井さん。黒くなった廊下を玄関へと歩いて行く。
「…………」
俺は何も言わない。視線で追う事も無い。送り出す事は許されていない。
玄関の扉を閉める音が聞こえても俺は動かない。いや、動けない。暗くて寒い廊下で正座を続ける。
ほら。言わんこっちゃ無い。
現実なんてこんなもんだ。思い通りになんかいかない。お前の『居場所』なんてどこにも無いじゃないか。
這いつくばっていればよかったんだ。今まで通りに一人で這いつくばっていればよかったんだ。
落ちた時に苦しいだけじゃないか……。
早く眠りたかった。
悪夢でも何でもいい。早く現実から逃げ出したかった。
最低限の就寝準備を済ませた俺は自分の部屋に逃げ込む。押し入れから布団を引っ張り出して中央に乱暴に敷く。慌てたように布団に潜り込む。
――ふと気付く。
俺の部屋。
俺の部屋?
六畳間の和室。たった今敷いた布団。隅に掛かった学生服。部屋の隅に置かれた旅行鞄に易々と詰め込む事が出来る程度の私物。
この部屋にはそれだけ。それだけしか無い。
自分の部屋? 笑わせる。
俺はこんな所にいても安心しない。
安心出来る筈が無い。
「……くくっ……! ……ははは!」
込み上げる。
「くははははははははっ!!」
止まらない。
「くあぁーっはっは! はははははははははっ!!」
俺の残りカスの感情が溢れ出していた。
惨めな自分を隠して、誤魔化して、逃げて。
「……俺は……俺は! 何を期待しているんだ!!」
ピリリリリ
「――!」
携帯が鳴る。俺の最後の現実が呼び声を上げる。
枕元のそれを慌てて取る。左手で取る。俺は無意識に利き腕を使っていた。当然のように取り落とす、何度も、何度も、何度も。でも俺は左手で拾い続ける。
着信 橘巴
「……お前、かよ……掛けないとか言っておいて……」
開いた携帯のディスプレイには意外な人物の名前が映し出されていた。脱力しながらも思わず馬鹿なツッコミを入れてしまう。
鳴り続ける携帯。溢れ出そうになった感情に蓋をしているのは間違いなくこの音。
「……もしもし」
震え出す左手で通話ボタンを押す。
『――出んのおっせぇー!!』
「うわぁっ! なんだ!?」
思わず放り投げそうになる。
『うわぁ、じゃないよ先輩! 寝てたのか?』
「い、いや。起きてたよ。どうしたの? こんな夜更けに……急用?」
あまりに唐突な橘の声。いつも通りの橘の声。咄嗟に返した自分の声は他人の声のように上擦っていた。
『別に急用って程の事じゃねぇけどさ、円に今日の事聞いてたからさ、一応先輩にも言っておこうと思ってさ、いや明日の朝とかでもよかったんだけどさ、えーと、えーと』
「なんだよ? 橘?」
今日の事。遊園地の事で間違いないだろう。進藤さんから聞いたのはわかるが、なんだって橘から? 中々言い出さないし。
『いや! あれだ! 明日の昼休み空けとけって事だ! わかったか?』
何やらやたらと声を張り上げる橘。昼休み空けとけ?
『……先輩か? 私だ。進藤だ』
急に声が変わった。どうやら一緒にいたらしい進藤さんと代わったみたいだ。
『いや、巴が言いたいのは、明日の昼休みに一緒にご飯を食べよう、という事だ』
『――円! 言葉が足りねぇだろっ! ルナと円とあたしと先輩! 四人でって言えよ!』
ぎゃあぎゃあとうるさい電話の向こう。っていうかそうだろうなぁってわかってたよ。
『そういう事だ、先輩。いいな?』
「あ、ああ……」
そういうっていうかどういう訳か明日昼飯を一緒に食べる事になったらしい。
俺はそれが約束である事にも気付かない。
『先輩? どうした?』
「えっ?」
『元気が無いな? 疲れてしまったか?』
「あっ、いや、うん。そうだね。疲れたのかもしれないかな」
自分でもわかる気の抜けた声からか、気遣われてしまった。続いた言葉も気の抜けた強がりに過ぎない。
『…………』
???
「あれっ? 進藤さん?」
『先輩。私はな……』
声のトーンが著しく変わった。
『最初はな、今日の遊園地は行くのが少し嫌だったんだ。でも、『絶対』に行けないルナの代わりに仕方なく行ったんだ。遊園地なんて行ったこと無かったからな、不安だったんだ』
語り出す進藤さん。俺は呆気に取られながらも聞き入ってしまう。
『始めはただの暇つぶしだった。……けど先輩、なんというか、えー……楽しかったぞ? そう、私の想像以上に楽しかった。たぶん先輩のお陰だろうと思う。ついさっきまでだって巴に自慢していたところなんだ』
嘘じゃなかった。
『だから先輩……今日はありがとう……。本当は夕方に言おうと思っていたんだがな』
「…………」
いつもと違う進藤さん。
『……話はそれだけ。おやすみだ。先輩』
「……うん……おやすみ」
ツーツー
嘘じゃなかった。信じられない進藤さんは本当だった。
電気を点けていない黒い部屋で膝の上の携帯を見つめる。
外の雨音が激しくなった事に気付いた。バタバタと雨戸を揺らす風が外の風雨の激しさを物語っている。
ピピッピピッ
膝の上の携帯が再び俺を呼び始める。測ったように。
新着メールあり 3件
「…………」
瞬と渉と海老原さんだった。
他愛の無い内容。おやすみ。お疲れ様。渉に限っては文句だった。
もう夜も更けるすっかり遅い時間。きっと寝る前に送ってくれたメールだろう。
嬉しさで、いや、最早そういうものを超越した優しさで包まれながら思う。
自然と思い浮かべる。
「……刹那」
ピピッピピッ
無意識に呼んでしまった俺の呼び掛けに応えるように俺を呼ぶ携帯。
左手でメールを開く。
from佐山刹那
sub――
おやすみ
「……はは……素っ気ないなぁ……」
黒い部屋に吸い込まれる俺の独り言。すぐに雨音にかき消されてしまう。
左手に治まる小さな携帯電話。
黒い部屋にぼんやり映し出された他愛の無い文章。
いつかの大至急メールに続く2回目のメール。改行の必要すらない短文メール。
「……くくくっ」
込み上げる。
「くくっ……くははっ!」
止まらない。
「くあぁーーっはっはっ! はははっ…………」
感情が溢れ出る。
黒い部屋に俺の馬鹿な咆哮が木霊する。
俺の弱さが露呈する。
「……くく……うぅ……」
込み上げる。
「……ううぅ……! くうっ! ふっ……うぅ……!」
止まらない。
「……ふっうぅ……うぅ…………うああああああああぁぁぁぁっ!!」
感情が溢れ出る。
何も無い部屋のど真ん中で蹲る俺が叫ぶ。
自分で課せた戒めも。自分の信じた信念も。忘れられない約束も。失った大切な人達も。
みんな真っ白だった。
「……遥……遥ぁ! 俺……! 俺は……! もう限界なんだよぉぉっ!!」
雨音にかき消された俺の叫びは黒に吸い込まれていった。
最高の日曜日が明けた夜。
鳴り続く雨音は朝方まで続いていた。