033 第一章刹那21 知得
変わらないもの。
変わっていくもの。
知ってるもの。
知らないもの。
俺が受け止めるもの。
球技大会翌日。
今朝行われた執行部や実行委員による片付けで球技大会の余韻は無い。授業も通常通り、学校はすっかり普段の姿を取り戻していた。
今は現国の授業中。
俺は現国教師が語る少々脱線気味の説明を聞きながら黒板をノートに書き写している。
前の席の渉はいない。恐らくいつものようにサボりであろう。隣の隣の瞬は机に突っ伏して爆睡している。これもいつもの光景。
いつも通りの教室。
俺もいつも通り、『必死』に黒板を写す。
球技大会、晒した俺の醜態。俺を蝕む傷痕。
何も訊かないみんな。あれだけ迷惑を掛けたのに誰一人俺を責めない。
周りから見ればただの馬鹿げた独り善がりにしか見えないだろう。それでも俺を気遣い、優しいみんな。『あれ』を知っている人も知らない人も。
……しかし思う。
ノートに自分で書いた字。大分慣れたとはいえ、利き腕ではない右手で書いた字は笑ってしまいそうな位に下手くそ、まるで他人が書いたノートを見ているよう。
懸命に睨み付ける黒板。窓際最後尾の俺の席、右目だけで捉える先生の小さな字は霞んで見える。
俺の体の事は学校では誰も知らない。瞬や刹那のように昔の俺や『あれ』を知っている人は俺がおかしいのはとっくに気付いているだろう。しかし具体的には知らない筈、教師達も知らない筈。
体育だけに限らず、俺が学校に来ているだけで誰かに迷惑を掛けているのは分かっている。誰かに足枷になってはいけないのも分かっている。
俺が馬鹿な道化を演じなくてはいけないのも分かっている。
「…………」
ペンを止めて息を吐く。
視線をノートから外に向ける。
生憎の曇り空の下で体育に励む何処かのクラス。球技大会の翌日だというのに楽しそうな声が三階であるこの教室にも届いて来る。
その校庭の向こう。
無駄に存在感のある建物……時計棟。
それを見ただけで自分の心が揺れる。忘れてしまったと思っていた暖かい感覚に心が揺れる。自分に課した戒めを否定している大きな存在に心が揺れる。
思考が終着してもいつもの嘆息が出ない……。
昼休み。
俺は昼食を摂る為に時計棟の屋上に来ていた。隣には瞬。正面には刹那と海老原さんがいる。四人で常設されているテーブルを囲んでいた。
昼休み開始後。うっかり俺が、時計棟の屋上で食べたい、なんて口を滑らせた瞬間、
『おお! いいぞいいぞぉ! こりゃ大変だ、刹那と……海老ちゃんも呼んじゃお呼んじゃお!』
とか言いながら高速で携帯をいじり出した瞬。そして、瞬の為すがままに購買でパンを購入し、屋上に辿り着いたら刹那と海老原さんが待っていたという訳だ。
この屋上、いつぞやの一件以来、来るのは二回目。
正面の刹那、その時のような仏頂面ではない。何処か呆れたような表情をしている気はするが、怒っている雰囲気は全く無く、ぱくぱく弁当を食べている。隣の海老原さんものんびりした動きで弁当をつついている。隣に座る瞬は何が楽しいのかわからないが、ニッコニコしながら焼きそばパンを食べている。
もちろん俺は落ち着かない。
前回同様に誰も喋らない屋上での昼食。前回はいなかった海老原さんの存在があるとはいえ、落ち着かないし居た堪れない。自分で買って来た昼食もまだ一口か二口位しか食べていない。
非常に落ち着かないがチラチラと彷徨う視線が……というより落ち着かないから彷徨い続ける視線が刹那が飲んでいるカップを捉える。最早定番となった俺が淹れて来た紅茶のカップである。
「せ、せ、刹那? 紅茶が切れているじゃが……お代わり淹れて来るがや?」
ここであった前回の一件からか、相当緊張しているらしい俺。
「えっ? ああ、いいわよ、別に……。あなたが食べ終わってからでいいわ」
空っぽのカップを見るがやんわりお断りを、というか挙動不信気味な俺に軽く引き気味の刹那。
「え、海老原さんは?」
どうやら俺はこの状況から脱出したいらしい。
「……いい……まだ、あるし……悪いし……」
俺の方をチラ見すると自分のカップを引き寄せてしまう。
「…………」
お茶を淹れに行く気満々で立ち上がっていた腰を渋々下ろす俺。
「……変なヤツね、アンタ。早く食べないとお昼休み終わっちゃうわよ?」
俺からなんとなく一歩引いたまま、怪訝そうな刹那が訊いて来る。
「あっ、いや……。せ、刹那はさ、いつも弁当なの?」
居た堪れない雰囲気が強化しそうだったので、話題を振ってみる。テンパった自分を隠すような少し強引な振りだった。
「ああ……。ふふっ、そうよ。私はいつもお弁当なの」
何故だか自慢気に言う刹那。
???
「海老原さんは?」
「……私も……おべんと……」
何故だか恥ずかしそうな海老原さん。
???
「ふふふっ。曜子のお弁当はもちろん、私のお弁当も曜子の特製なのよ!」
どう?って感じで嬉しそうで自慢気に言う。
「へぇ〜〜」
適当に振った話題だったが、とても興味深い事実が発覚したぞ。
何故だか自慢気な刹那の言葉に隣の海老原さんは顔を真っ赤にして照れている。自分の弁当を隠すように引き寄せてしまう。
全然隠れてない海老原さんが作ったらしいお弁当。女の子らしい小さな弁当箱には狭いおかずゾーンを目一杯に使った色とりどりのおかず達。綺麗な色に焼き上がった卵焼きに絶妙なきつね色の一口フライ、食べやすそうな一口唐揚げときっちり区分けされたミニサラダ。ご飯ゾーンも三色のふりかけで綺麗に彩られている。めちゃめちゃ美味そうである。
「いいなぁ〜。海老原さん料理が上手なんだねぇ〜。凄い美味しそうだよぅ」
本当に美味しそうな弁当への自然な賛美だった。
それを聞いた海老原さんは、
「……あっ……あっ……」
紅い顔を更に紅くしながら俯いてしまう。湯気でも出そうな位にぽっぽしている。なんだかすんごいかわいかった。
「――お、俺は十八の弁当が好きだ!!」
海老原さんのかわいい反応にほんわかしていると、やたらと慌てたような瞬が叫ぶ。とりあえず変な瞬にはお礼を言っておくが、俺は海老原さんに興味津々である。
「俺のはともかく、海老原さんのお弁当は凄いなぁ。丁寧に作ってあるし、見ていても楽しいし、何よりとても美味しそうだよぅ」
どうでもいい俺の話題をスルーしつつ、俺の大絶賛は続く。
「〜〜〜〜」
真っ赤っかの顔を両手で隠す海老原さん。
やば、本心を言ったつもりだが持ち上げ過ぎたか?
「十八! 美味しいのは本当だけどやめなさい!」
流石に誇らしげにふん反り返っていた刹那も俺にツッこむ。
「ご、ごめん……」
やり過ぎた感が否めない俺は海老原さんに、じゃなくて刹那に謝ってしまった。
「……作る……明日……作って来る……塩田と……瞬のも……」
顔を隠したままで言う海老原さん。
「えっ?」
作る? 弁当?
「あっ、あの……?」
「……嫌いな物……ある……?」
じぃ〜
隠した両手の隙間越しに見つめられる。
「い、いや……」
「……わかった……頑張る……」
頑張ってくれるらしい。
どういう訳か、明日は海老原さんのお弁当をいただける事になってしまった。
放課後。昼休みのかわいい海老原さんを想像して、明日の海老原さんのお弁当を想像して、綻びっ放しの顔もそのままに再び時計棟に来ていた。もちろん生徒会の活動をする為である。
とりあえず会長室に向かおうと廊下を歩いていると、橘に出会した。
「よう」
綻んだまま声を掛けてみる。
「えっ? ああ、先輩か」
気のない反応に声を掛けたのが俺で落胆された? とも思ったが違う。これは橘の性格、言い方なんだろう。球技大会の一件で気付いたが、橘は短気で突っ走り気味の性格さえ長い目で見てやれば素直で絡みやすいヤツなんだと思う。
「一人? ルナちゃんと進藤さんは?」
「ルナと円は中央委員会に行ってるよ。ルナはクラス委員長だし、円は副委員長だからね」
中央委員会とは各クラス委員や主だった委員会の代表がが集まる定例会議の事である。
同じクラスでいつも一緒にいる三人、今日に限って橘が一人なのはそういう事らしい。何気に瞬もF組の副委員長なのでそっちに行っている為、ここにいなかったりする。
「そっか。じゃ、橘はこれから?」
「えっ? ああ……いや、あたしは今済ませて来たところだよ」
???
済ませて来た? 放課後はまだ始まったばかりだぞ?
「先輩も早い内に済ませておいた方がいいぞ? 仕事が始まってからだと能率が悪いからね」
そう言うと少し自分の位置をずらして通路を空けてくれた。橘の後ろにはトイレがあった。
どうやら橘が済ませて来たのはこれらしい。
俺は『これから』生徒会の仕事?って意味で訊いたんだが……要は用足しをして来た筈の女の子に堂々と言われるとなんだか冷静になった。
橘が少しだけわかってきたぞ。そして、やっぱりコイツがおもろいヤツである事が判明した。
生徒会の活動が始まる迄はまだ時間がある。いい機会だし、興味深い事実が発覚しそうなので、ちょっと橘と絡んでおこう。……というより俺のちょっとした悪戯心が発動した。
「……いや、俺もさっき済ませて来たんだ。それよりさ、実は……橘に教えてほしい事があるんだ……」
真摯を心掛けつつ、なるべく真剣な表情で言ってみる。
「――は? な、なんだよ……?」
豹変した俺の態度に驚きながらも素直に聞き返す橘。
……反応が予想通り過ぎる。
「今さ……して来たろ? ……そこで」
わざとらしく橘から顔を逸らしながら言う。促した所はトイレである。
「は、はあっ!! ば、ば、馬鹿野郎! そこでするっつったら一つしかねえだろが!!」
顔を真っ赤にしながら激昂する橘。
予想通り過ぎますよ、はい。
「違うよ、橘。もちろんそうだけど、他にも……あるだろ?」
真っ赤っかで激昂する橘に対して冷静に、できる限りド真面目に言う。
「えっ? えっ? 他に?」
俺の冷静過ぎる態度にまんまと呑まれる橘。
うぅ……早くもかわいそうになって来た……。
「なんだ、知らないのか? というかやってないのか? 誰だってやる常識だぞ? 子供じゃないんだからやるだろ? 普通」
ド真面目に、真摯に、真〜っ直ぐ橘の目を見て言う。
「そそそそそそそうなの? みんなやってるの? 先輩も? ルナや円も?」
不憫に思ってしまう位に素直過ぎて純粋過ぎる橘。真っ赤な顔をそのままに訊いて来る。
「当たり前だろ? もう高校生なんだからそれ位しないとおかしいだろ?」
笑いを堪えるのに必死だが、俺の冷静な言葉は続く。
「えっ! えっ! マジ……かよ……」
もはや泣きそうな橘。
うーむ……流石にかわいそ過ぎる。ネタバレしてやるか。
「なんだよ……仕方ないな。教えてもらおうとしたのに俺の方が詳しそうじゃん」
さてネタバレを、
「あれっ? 十八と橘じゃん。何やってんだ?」
と、橘に本当の事を言ってやろうと思っていると声が掛かる。瞬である。脇にはルナちゃんと進藤さんもいる。
「い、いや。普通に話してただけだけど、瞬達は? 中央委員会だったんだろ? 早くないか?」
いつもなら放課後を目一杯に長々と続く筈の中央委員会。いくらなんでも早過ぎる。
「いや、参加率が悪過ぎたらしくてさ、延期になったんだわ」
しししって笑いながら言う瞬。面倒な委員会が流れて嬉しいんだろう。
「トモちゃん? 顔が真っ赤だよ? どうしたの?」
瞬と絡んでいると、放置してしまっていた橘の異常にルナちゃんが気付く。
「い、い、い、いや!! ル、ルナ……。〜〜〜〜」
気遣うルナちゃんに反応しようとする橘。しかし余程恥ずかしいらしく、紅い顔を更に紅くして顔を背けてしまう。
キュピーンと来た。
ネタバレ、してやろうじゃないかい。
「全く……しょうがないな。よし、俺が教えてやる。ちょっと来い」
わざと呆れたように言って橘の手を引く。
「ちちちょっと先輩!! あたしはいいって!!」
泣きそうな顔で俺とみんなに視線を行ったり来たりさせる橘。反抗しないのが意外だったが、ぐいぐい連れて行く。みんなも首を傾げながらついて来る。
連れて来たのはすぐ側の給湯室。最近では俺専用になりつつある所である。流石にどっちのトイレの中にも連れては行けないのでここにした。
「先輩! あたしはいいってば!! それにみんなの見てる前でなんて……」
もごもごと口籠ってしまう。本当に素直なヤツ。
「ほら、そこに立って」
シンクの前に立たせると体を強張らせて目を瞑る橘。カタカタ震えてこぶしを握り締めている。
「…………」
ちょっとやり過ぎたかな、と思いつつ橘の手を取る。ちなみに後ろからはみんなの疑問符がぽんぽん放射中である。
水道の栓を捻って水を出すと橘の手を洗ってあげる。
「――えっ!?」
手に掛かる水に驚いた様子で目を開ける橘。きょとんとした顔で俺を見やる。
「……何やってんだ? 十八……」
いい加減傍観するのに疲れたらしい瞬が訊いて来る。
「いや、橘に手を洗う事について訊いたりしてたんだけどさ、橘があんまり知らないって言うから教えてやってたんだよ」
自分で言ってみると、相当無理がある話だ。騙された橘が不憫すぎる。
「えっ? えっ?」
その橘、理解したのかしてないのか、かなり狼狽えている。
「せんぱい。トモちゃんは綺麗好きですよ? 手洗いなんていつもゴシゴシでピカピカです」
笑顔で言うルナちゃん。
そりゃそうだろう。
「なんだ橘? 違ったのか? もしかして別の」
「い、いや! これだよ! これ!! いやぁ先輩! ありがとう! はははははは!!」
俺が言い終わる前に無理矢理お礼を被せて来る橘。かなり笑って誤魔化している。
「変なトモちゃんです」
「くくく……なんとなく私は先輩のやった事がわかるがな……」
「俺もだよ、十八。はは」
ルナちゃんは分からないみたいだが、瞬と進藤さんは俺の悪戯に気付いたらしい。
その後。
天罰が下ったのか、刹那に『あなた非常に遅いわ!』を皮切りに散々怒られた。