017 第一章刹那05 桎梏
カチカチと響く音。
暗い静寂の中で定期的に響く時計の音。耳障りではないが、単調なリズムの渇いた音は嫌でも耳につく。この音が気になりだして何分、いや、何時間が経っただろうか……。
学校を終え、バイトを終え、いつものように布団に入って眠るだけの筈だった。
……目を閉じてから、ずいぶん時間が経ってしまった気がする。
これは『いつもの』事だった。
正直言って眠い。気を抜いたらいつでも眠れそうだ。それに数時間後には新聞配達のバイトもある、眠らなくてはいけない。
しかし気を抜く事が出来ない。
怖い……眠るのが怖い……。
明日に備えて自分の部屋で眠る。人間としての当たり前の毎日の習慣。俺にとってこの瞬間は苦痛でしかない。瞬が泊まりに来ていない日はいつもこの有り様だった。
怖い。また悪夢を見てしまう。
駄目だ。毎日の事だが、今日は特に酷い。
今日は遥の事を思い出す事が多かったからだろう……。
時計棟で任命式を終えた俺。瞬の優しさを貰えた。刹那の優しさも貰えた。懐かしい幼馴染み達との触れ合いに心から喜びを感じている。
しかし同時に遥への罪悪感が浮かび上がった。
経過する時間の中に隠し、誤魔化してきた俺の『罪』。
約束したのに……。
信じてくれたのに……。
大好きだったのに……。
遥……。
凍える体を丸めながら走る。宵闇に包まれた町の中に俺の踏み鳴らす足音だけが響く。
結局一睡も出来なかった俺はふらつく足取りでバイトに励んでいた。突き刺すような寒さの中であっても朦朧としてしまう。曖昧な意識を総動員してもつれる足を必死に前に出す。弱々しく照らす街灯の明かりと体が覚えた感覚だけが頼りだった。
住宅街を配達しながら思う。ここに住んでる人達の中にも俺と同世代の高校生がいる。彼、彼女達は恐らくまだ寝ているだろう。あとしばらくしたら目を覚まし、母親が作ってくれた朝食を食べる、そして学校へ行く。
違うところもあるかもしれないが、多くの人が『同じような』日常を送っていると思う。
ごく当たり前の幸せがあるだろう。
早朝から新聞を担いで走り回っている高校生なんてこの町では俺だけかもしれない。
俺の配った新聞を取りに出てくるのは誰なのだろうか?
母親? 父親? 俺と同じ高校生の子供だろうか? あるいはその兄弟? 姉妹?
「…………」
立ち止まり、振り返る。さっきまで配って来た家々を視線で追う。
幸せな家族。立ち並ぶ家々に生活する人達。
ほんの少しでも俺という歯車は絡んでくれているだろうか? ……俺は役に立てているだろうか?
今まではこんな事は考えもしなかった。俺にとっての当たり前はずっと昔から変わらない筈だ。
でも、どうしても思ってしまう。
ただ怠惰なだけの俺の日常に疑念を抱きつつある。
俺の中で何かが変わっていっている気がする。
生徒会がある為、いつもより早くに辿り着いた学校。教室には行かず、時計棟に直行する。
いつもの事だが……いや、いつも以上に安心した。
俺の好きな場所である学校、その学校の中でも今までは教室が一番好きな場所だった。瞬がいる、渉がいる、気のいいクラスメイト達がいる教室。
時計棟、生徒会執行部のみんながいる、刹那がいる。俺の中で早くもかけがえのない場所に成りつつある。
「あら、早いのね?」
思考を廻らしながら時計棟昇降口に入ると声が掛かる。
声を聞いた瞬間、思考が止まる。頭の中を駆け巡っていた疑念をおいてけぼりにして新しい思考に支配される。いや、何も考えられないのかもしれない。
「おはよう、刹那」
声を掛けてきたのは刹那だった。彼女を前にすると考えていた事がとても馬鹿らしく思える。
「おはよう。……ねぇ、あなた顔色悪くない?」
俺と顔を合わせた途端に眉をたわめた彼女は言う。俺の顔色、一睡もしていないのだから当然だろう。
「いや、早朝のバイトがあるからね、少し寝不足かもね」
取り繕った言葉を返す。嘘を吐いた訳ではないが、少し自分が嫌になる。しかし、下らない愚痴を溢す訳にもいかないし、自分の情けない生活を晒すのも嫌だった。
「そう……まぁ生活の為だし仕方のない事だけど、自己管理は怠らないようにしなさい」
目を細めながら呆れたように言う刹那。俺は合わせていた視線を外してしまう、見透かされてしまったようで後ろめたい。
「ああ、気を付ける……」
正論を突き付けられたようで否応なしで気分が落ちてしまう。自覚はしているが彼女に言われてしまった事が些かショックだった。
「もう、馬鹿ね、別に怒ってないわよ。生徒会の仕事をする以上よろしくって事を言いたかっただけよ。朝から暗くならないのっ」
呆れを通り超して困ったような様子の刹那、出来の悪い子供を叱る母親を連想してしまった。
「ほら、行くわよ?」
「えっ?」
「中に入るわよ?」
既に上履きに履き替えた刹那が俺を促す、待ってくれている。
既視感、だろうか……遠い昔にも似たような事があったのかもしれない。いつだったかは思い出せないが懐かしい嬉しさを感じた。
「ああ」
嬉しくなりながら後に続く。自分の単純な思考に感謝した。
「あっ、そうそう。今日の放課後から少し忙しくなるから」
冷えきった廊下を先に歩く刹那が振り返らずに言う。
「球技大会?」
ごく最近に生徒会執行部に入部した俺だが、執行部在籍前から多くの委員会に所属している。その中の一つである体育委員会。その委員会の影響と俺自身が正直嫌なイベントとして認識している学校行事。
球技大会。
三つある運動系行事の中でも運動音痴な俺には特に嫌なイベントだった。
「そうよ、よく覚えていたわね。今日から体育委員会や協賛してくれる運動部と一緒に準備に入るわ」
歩く足は止めないが振り返って少し感心してくれる刹那。
球技大会の準備、か。生徒会執行部に入部した俺にとって最初の仕事になりそうだ。
「でも刹那、俺って体育委員会にも所属してるんだけど、どうしよう?」
俺の体は一つ。執行部であろうが委員会だろうが、学校の為にはどんな事でもやるつもりだが、流石に二つの事を同時にはできない。
「ああ、それね。あなたの委員会は全て退会処理をしておいたわ。安心して執行部の仕事に専念しなさい」
は?
「えっ? って、ちょっと」
「何よ。文句あるわけ?」
会長室の扉に手を掛けながら不機嫌そうな視線を寄越す。
「だってさ、俺がやってた委員会は誰がやるのさ?」
俺がやっていた委員会は五つ。体育委員会、保健委員会、美化委員会、緑化委員会、整備委員会。どれも面倒な委員会ばかりだが、一応無くてはならない委員会である。
「F組のヒマそうな生徒を推薦しておいたわ」
「そんな……」
みんなに迷惑を掛けてしまう。
「意味不明ね、どうしてあなたがショックを受けるのよ?」
右手を会長室の扉に掛けたままで、言葉の通りに疑問符を浮かべたような表情をする刹那。
「い、いや、みんなやりたくないんじゃないかな?」
「…………」
一転して酷く不機嫌そうな表情で俺を値踏みするように見る。嫌な物でも見たみたいに険しい感情を露にしている。
「十八、あなた…………馬鹿じゃないのっ!!!」
怒鳴られてしまった。時計棟の廊下に刹那の怒声が響き渡る。
「い、いや……」
心底怒っている様子の刹那。扉に掛けていた手を離して俺に向き合う。
「やりたくないから何? 学校に来ている生徒が学校の委員会をどれだけ拒否する権利があるワケ? 理由は? 面倒だから? 遊べないから? 十八がいくつもの委員会を掛け持ちしてあなたのクラスメイト達がどれだけあなたに感謝をするの?」
「…………」
完璧な滑舌で捲し立てられた刹那の啖呵が俺を穿つ。正に俺の深いところを穿った啖呵だった。
「あなたがクラスメイト達にどういう扱いを受けているのかわからないけど、少し調べれば簡単にわかる事なのよ? いい? 十八。あなたはもう生徒会執行部の生徒会長補佐なのよ? 生徒会長である私の補佐役職に就いたのよ? あなたのやるべき事はここにあるのよ? 理解できるかしら?」
言葉の勢いはそのままだが何処となく表情を歪める刹那……まるで懇願してくるように言う。
「うん……」
刹那の勢いに呑まれた訳ではない。
刹那の言った一言一言を理解したつもりだ。
「そう……ならいいわ。では仕事を言い渡すわ。十八、お茶よ」
ふうと力を抜いたように肩を下げると穏やかに言う。少し呆れた様子は拭えないが表情も穏やかに戻っている気がする。
「わかった」
刹那は俺の了承を確認すると、さっさと会長室に入ってしまった。
「ありがとう……」
既に廊下には俺一人。大切な言葉は届かなかった。でも、別に良かった……。
給湯室にて、少し慣れてきた紅茶を淹れながら思う。
刹那が怒ったのは俺の為だろう。
刹那の言葉は理解したつもりである。
嬉しく思う。
しかし、俺の感情は冷めていた。
頭の中で酷く冷静に刹那の言葉を反芻する。
そして思い出す。
――幸せになるのは自分以外の人。誰かの笑顔っていいだろ? そう思わないか十八――
「…………」
自然と口元が緩んでしまう。
今の俺を形作る言葉。
刹那の言葉は理解する。
でも、俺の信念は変えない。
約束だからだ。