010 プロローグ10 偶像
また、悪夢を見た。
上体を跳ね起こしてアラームを止める。途端に俺を激しい動悸が襲う。呼吸を繰り返して息を整えようとするが、まだ現実に戻った事に頭がついて来ない。起き掛けの頭でもはっきりと悪夢の内容が浮かび上がる。頭の中に鮮明に残るその内容がフラッシュバックする。うなされたせいだろう、全身汗だくだった。部屋の冷気を受けて体の体温が奪われていくのがわかる。その冷たい空気のお陰で少しずつ落ち着きを取り戻し、安堵のため息を吐く。
いつも見る夢だった……この時ばかりは煩わしい携帯のアラームに感謝したくなる。
もう一度ため息を吐くと立ち上がる、同時に自嘲気味に笑ってしまう。起きる度にため息を吐いている事に気が付いたからだ。しかし、その自嘲自体も俺が繰り返している習慣だと自覚してしまう。馬鹿げた常習であると自覚してしまう。……でも、それでいいとも思ってしまう。
着替えを済ますと足早に玄関に向かう、今日も新聞配達のバイトに出掛ける為だ。寒い、もう秋も終わりに近いのだろう。刺すような冷たい空気に嫌でも体が震えてしまう。
玄関の引き戸を開け、振り返る。暗くて冷たい廊下の向こうには何も見えない。ただの『黒』があるだけだった。
「……行ってきます……」
黒に吸い込まれた俺の声は独り言に過ぎない。これも馬鹿げた習慣の一つなのだろうか?
定められた作業のように始まる日常。
苦痛ではない。
怠惰なだけだった……。
「おーすっ! シオっ!」
バイトを終え、いつも通りに登校すると校門をくぐったところで渉に出会す。
「おはよう……」
朝という事もあり、どうしても疲れた挨拶を返してしまう。渉のテンションが高すぎるというのもある。
「あり? どうしたの? 元気ないねっ!」
いや、けっこう普通だと思う。渉が元気過ぎるだけ。
「珍しいね、部活?」
遅刻常習犯の渉。朝としては希少な袴にスニーカー姿の渉を見て尋ねてみる。
「まーねっ! 一年生達を連れて青春のジョギング中だよっ!」
よく見ると渉の後ろには袴スニーカーの大群がスタンバイしていた。みんなぶっちゃけ勘弁してくれ的な顔をしている。
「ふぅん、頑張ってね」
邪魔しちゃ悪いし、ちょっとめんどくさいので退散する事にする。
「あ、ちょっとっ! シオっ!ねぇねぇねぇねぇっ! 一緒に青春しないっ? 今日だけでもさぁっ!」
ウザさMAXでウザイ事を言ってくる渉。一緒に走ろうと言う事なのだろうか? 誘ってくれるのは嬉しいが、正直、勘弁してほしい。
「いいよ。俺、制服だし、鞄も持ってるし、迷惑掛けるだろうし、剣道部じゃないし、っていうか帰宅部だし」
あくまで淡白に言ってやる。俺には向いてない事をわかってほしい。
「うぅむ。ま、いっか。わかったよっ! 後でねっ!」
一年生達を引き連れ、ぶんぶん両手を振りながら行ってしまう渉。
「はあ……」
それを見送ると、再びため息を吐いてしまう。元気な渉に疲れてのため息ではない。しつこいようだが自嘲のため息である。
「部活、か……」
無意識に呟いてしまった戯事。バイトがあるし、俺には向いていない事は分かっている。運動音痴な俺が運動部なんておこがましいし、文化部だって誰かに迷惑を掛けるに決まってる。俺には過ぎた事だ。
……と、その時目の前が真っ暗になった。両目に暖かな感触。
「だぁ〜れだ?」
「…………」
古典的すぎるとか、こんな往来だとか、そんなのはどうでもいい。もう分かっている人もいると思うが、問題は一つ。
「何をやってやがる。キモいわ! たわけが!」
とりあえずブチキレておく。
「うわぁ! ひ、酷いわ!」
驚いたような声と共に視界が回復する。振り向くと悲しそうな瞬がきぃ〜って感じでハンカチを噛んでいた。
「おはよ」
「うん。おはよ」
挨拶を交すと、何事も無かったように校舎に向かう。こんなやりとりはけっこう日常茶飯事だったりする。
「十八。今日からやるぞ」
歩きながら瞬が言う。
「何が?」
「決まってんだろ? 刹那だよ刹那!」
少し呆れたように言う瞬、わかってんだろ?とでも言いたそうだ。俺もわかっていて訊いたんだが。
「……ああ、その事、ね」
気のない返事を返しておく。というより俺は本当に気乗りしない。
「なんだよ。やっぱり有り得ない、とか思ってるのか?」
片眉をつり上げて困ったように言う。
「そりゃあ、ね。釣り合わないと思うし、彼女とか付き合うとか、俺にはなんだかよく分かんないよ」
思う事を素直に言う。俺の知る限り完璧、非の打ち所のないせっちゃん。何の取り柄も無い、むしろ誰よりも劣る俺がせっちゃん、いや、誰かと付き合うなんて馬鹿馬鹿しい。
「お前……やっぱり俺と?」
一瞬だけ悲しそうに表情を歪めたようにも見えたが、驚いたように、いや、嬉しそうに言う瞬(♂)。背中の辺りがぞくりとした。
「……はあ、お前もそれさえなければ完璧なんだけどなぁ……」
もはや慣れっこな俺だった。
昼休み。
昼休み開始からしばらく経ってしまった頃、俺と瞬は二人で時計棟に来ていた。教室を出る時に渉を撒くのに時間が掛かり、少し時間を無駄にしてしまったからだった。なんでも瞬の権限でも時計棟に招待出来る生徒は一人だけなのだそうだ。
「刹那、入るぞ?」
ノックの後、そう言いながら生徒会長室の扉を開ける瞬。俺は借りてきた猫みたいにおとなしくしておく。
「はあ……遅かったのね」
俺達、いや、俺を見たせっちゃんはわざとらしくため息を吐くと、そう言う。せっちゃんも瞬に何か言われて仕方なく俺と会っているのだと思う。
「今日は天気いいし、屋上行くか?」
瞬がせっちゃんに言う。屋上?
「そうね」
気のないような返事を返すせっちゃん。明らかに面倒くさそうな様子だ。
「瞬、屋上って?」
せっちゃんに気を遣いながら瞬に尋ねる。
「ああ、ここの屋上の事だよ。二階建ての校舎の屋上だから低いし狭いけど、俺達の専用なんだよ。まあ、とりあえず行ってみような」
にゃははと笑いながら能天気に言う瞬。三人の中で唯一楽しそうである。
「時間、無くなるわよ」
既に会長室を出ようとしているせっちゃん。煩わしそうに俺達を促していた。
せっちゃんの先導で屋上に向かう。
無感情というか、厄介事に巻き込まれたように煩わしそうなせっちゃん。せっちゃんは噛み合ってくれないみたいだが、一人で場を和ませようと明るく振る舞う瞬。場違いな俺……。
昔とは違う。
でも、懐かしい気持ちになってしまう。五年前には当たり前の構図だった。
――待ってっ!――
振り返る。
誰もいなかった。いる筈がない……。
「十八?」
瞬が訝しげな表情で俺を待ってくれていた。
「ああ、悪い」
せっちゃんは俺を振り返る事なく屋上への階段に消えてしまった。胸の奥がチクリとした。
何やら気まずそうな瞬と共に後に続く。瞬は本当にいい奴だと思った。せっちゃんは……いや、やめよう。俺がどう思うとか馬鹿げている。
屋上は意外にも広かった。二階建てという事もあってか、一二年校舎の屋上と比べてフェンスが低いからだろう。面積自体は狭く教室二つ分程度だが、見渡す空の面積が広いせいか広々している。中央にそびえるくそ高い時計塔も何だかいい雰囲気だ。
「十八。こっちこっち」
屋上の片隅で瞬が呼ぶ。瞬のいる所には何故かパラソル付きのテーブルセットが常設されていた。せっちゃんは既にそのテーブルに着いている。どうやら今日はあそこで昼食と洒落こむらしい。
三人、席に着いて弁当を広げる。
「い、いただきま〜す……」
俺。
「いただきます!」
瞬。
「ふ……いただきます」
せっちゃん。
っていうか今、鼻で笑わなかったか?
一人黙々と食べ始めるせっちゃん……流石の瞬も顔を引きつらせている。雰囲気は……なんとも重苦しい。快晴の青空の下で食べる昼食はちっとも爽やかじゃなかった。
「えー、コホン。刹那、何か喋れ」
わざとらしく咳払いをするとせっちゃんにもの申す瞬。
「…………」
ぴたりと箸を止めるせっちゃん。何故か瞬ではなく俺を一瞥してから口を開く。
「いつまでこんな茶番を続ければ気が済むのかしら?」
発した言葉は冷たかった。綺麗な声だから余計に冷たく感じてしまった。瞬に向けられた言葉だが、俺は居た堪れなくて俯いてしまう。
「茶番って……おい、刹那」
意外だったのか、困惑したように言う瞬。
「何をやらせたいのだかわからないけど、あまり下らない事に私を付き合わせないでほしいわ」
淡々とした口調ではっきりと言うせっちゃん。
そりゃそうだ。俺でさえこの状況に疑問を感じているのに、せっちゃんにしたら迷惑極まりない厄介事に過ぎないだろう。
「おい! 刹」
「――瞬!!」
声を荒げようとした瞬を制止する。
「……十、八?」
「いいんだ、瞬。えっと……佐山、さん……ごめんね。俺、もう来ないからさ……」
せっちゃん、とは言えなかった。俺が知ってるのはせっちゃん。今、目の前にいるのは佐山刹那さん。
それでいい。
「おい! 十八っ!」
瞬の怒声。表情は悲しそうだ。
「はは、いいじゃん。元々俺は執行部じゃないし、佐山さんも、迷惑、みたいだし……。明日も弁当作って来るからさ、渉と三人で教室で食べよう? なっ? それでいいじゃん」
御免だった。目の前でせっちゃんと瞬が喧嘩してるのなんか見たくなかった。俺の中の思い出が壊れるのが嫌だった。
「十八……」
悲しそうに唇を噛む瞬。きっと俺の心の内を察してくれているのだろう。
「さっ。とりあえず食べよう? 昼休み終わっちゃうよ」
なるべく明るい声で言う。
「……ごめんな、十八……」
そう言うと瞬は黙って食べ始める。俺が口を挟んだ時から終始無言だったせっちゃんも食べるのを再開したみたいだ。
そうだ、これでいいんだ……。
三人で座っているテーブル。四人掛けだった。
空いている席を見て思う。
これで……よかったんだよな……?