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第一話

どんどんと遠くでノッカーの音がしていた。その音はかなり乱暴で、よほど急ぎの用事なのか、それとも長い間鳴らしていたのだろうか。イヌイは首を軽く鳴らすと、同居人の名前を呼んだ。


「モモー、出てくれ。僕は今忙しいんだ。モモー?」


しかし、その返答はしばらく待っても帰ってこなかった。どうやら、彼は留守にしているらしい。どんどんとまた激しい音がした。窓の外を見ると、日が大分傾いている。長く研究に没頭していたらしい。これも息抜きかと軽くため息を吐き、立ち上がって玄関へ向かう。

村の婆さんの依頼は、昨日受けたばかりだし、街の薬屋は、定期の仕事しか頼まない。急ぎなら、街を護衛する魔導騎士に頼んだ方が早い。専門家でなくとも、応急魔法薬くらいは作れるだろう。

同居人なら、こんな乱暴な真似をする必要はない。しないと言い切れないのが残念だが。あらゆる可能性を考えても、音の主を特定する材料がなかった。


しかし、彼は忘れていた。いや、気がゆるんでいたというべきだろう。


「はいはい、どなたさんですか?」

「てめえ、俺様を待たすとはいい度胸だな」


そこには、悪鬼羅刹すら脱兎の勢いで逃げ出すであろう大柄な男が一人。


「し、師匠・・・」


イヌイはそこで思考停止し、情けない声を出す他なかった。そして、そのままずかずかと踏み込まれ、第一防衛線を突破されたイヌイはこれ以上の狼藉を許すまじと気を入れ替えた。どっかと応接間の椅子に腰掛けた師匠ことアズマは端的に告げた。


「茶」

「師匠、用件を言ってください」

「茶」

「師匠、用件は何ですか?!」

「茶」

「はい、用意します・・・」


イヌイがアズマの元を離れて一年。免許皆伝という名の蹴り出しをくらい、途方に暮れながらも、故郷のティム・ダ・エルダと隣国フラン帝国の国境近くの山に自らの工房兼自室を持ち、何とか周囲の人間と折り合いをつけ、魔法薬の販売で得た収益で細々と研究を続けていた。

師匠は思いついたら即実行の単細胞であるとイヌイは修行時代から思っていた。しかも、その思いつきは、他人、主にイヌイを巻き込み、迷惑をかけるという代物だ。どんな厄介事になるのか戦々恐々する他ない。

キッチンで薬草茶を蒸らしながら、イヌイはこれから起こる事を考える。面倒な材料採取、どこかの怪物の退治、はたまた師匠の家のおさんどんさんか。

いずれにせよ、自分は受けるしかないのだ。出来上がる茶を見つめながら、雑巾の絞り汁を入れてやろうかとも思った、が、そんなことをすれば、自分の命が危ないだけだと考え直し、やめた。

曲がりなりにも、相手は大魔導士の一人であり、第六次独立戦争における祖国の英雄だ。一線を退き、後進に任せたと言っても、元軍人とただの魔導士では天地ほどの差があった。


「粗茶ですが・・・」

「ほんとにな」


そう言いながらも、アズマはたんぽぽ茶を手にとり、口に含んだ。それを見届け、イヌイも腰を下ろす。


「食い物も出ねえのか、気がきかねえ」


腰を下ろした瞬間に言う辺り、本当にいい性格をしてるとイヌイはため息をついた。


「茶請けなんてないですよ。今ウチにあるのは、自生してる山菜の漬け物とかの保存食ばかりです。もう少しで街の薬屋が依頼料代わりに、街の食べ物を持ってきてくれると思いますが」

「そうか、不便だな」



アズマは、そう言ってぐるりと工房を見渡す。急ごしらえで作られた工房は、冬の雪や寒さにも耐えられるだけの造りをしていた。平屋建ての玄関から一番手前左の扉が、今居る応接間になっている。


「トイレ借りるぞー」

「あ、はあ。部屋出て、廊下左手奥ですので、どうぞ」


廊下をまっすぐ進んだところにあるのは、イヌイが茶器を持ってきた台所兼食堂か。廊下途中に用意されていた他の三つの扉は、それぞれの自室と研究室だろうか。キッチンの手前左の扉は、トイレと風呂場が用意されていて、狭いながらもこじんまりと整っているというのが、アズマの所感だった。

しかし、流しには朝と昼の洗い物が放置されているし、廊下にはイヌイのものと思われる書物があたかも塔のようにいくつも積まれていた。自室の様子は推して知るべしといったところだろうか。

まさに、男所帯を体現した工房と言ってもいい。アズマは一人ほくそ笑みながら、応接間に戻ってきた。


「ちょうどいいじゃねえか…」



その笑顔を見たイヌイの顔が自然とひきつる。嫌な予感は当たるものなのだ。


「ちょっと、何考えたんですか。ちょうどいいって何のことですか?!」


イヌイが絶叫するが、アズマは気にした様子もなく、答えた。


「師匠命令だ。おまえ、弟子とれ」




初夏の風が薫る山道を少女は進んでいた。整備された山道ではあるものの、剥き出しの土と岩が所々が存在していた。彼女はそれらを避け、轍に沿っていく。彼女は師に言われたことを反芻していた。



「これから俺はしばらく旅に出る。さしあたって、お前には違う家に行ってもらう。何か質問は?」


決定事項として、語られたそれを彼女は上手く処理できなかった。おずおずとその言葉を受け止めていた。


「そこには、俺の元弟子が住んでいる。そいつに世話をしてもらえ。行き方はその紙に描いておいた。頑張ってな」


そして、師は背を向けて、彼女を置いて出て行った。彼女に残されたのは、元弟子という人の家への行き方の紙と、いくらかの交通費だけだった。

途方に暮れつつも、私物、といっても幾らかの服を纏め、彼女は旅に出ることに決めた。ここに居ても、生活はできる。

しかし、誰もいない伽藍堂の工房で、孤独に苛まれるのは、もうたくさんだった。会ったことのない兄弟子を信頼はできるとは言えないけれど、アズマは嘘を吐かないことを彼女は経験から知っている。生かしてはもらえるのだろうと淡い期待を抱いた。



整備された山道を折れ、石が敷かれた小道へと入る。鬱蒼と生い茂った木々の中にあって、光の計算がされているのか、妙に明るく照らされている。少しずつ進むと、蔦のアーチがあり、白い家が見えた。それは、物語に出てくる郊外の別荘にも見えたし、何か秘密基地めいていて素敵なお家だな、と子どもさながらの発想で微笑んだ。


きっと、素敵な人が住んでいるのだ。何かそんな出会いを夢想して、彼女はノッカーに手を伸ばそうとした。


「はーい、フロイライン。あなたのお名前なあに?」


耳元から急に聞こえた声に、背筋がぞわっとした。甘ったるい香りも鼻をくすぐる。固まってしまった彼女を見て、薄く嗤う声がした。

そして、くるりと、体を反転させられる。そこには、山の中には、そぐわない貴公子が立っていた。オールバックに後頭部で一つに纏めた髪は、太陽にきらきらと反射していた。彫りの深い顔立ちに通った鼻筋。細い眉の下にある優しげな瞳と目元の黒子。薄い唇もまた色気を感じさせる。

胸元を広く開けた白いシャツとスラックスは普通の町人の格好のはずなのに、気品が感じられる。少女は、ぽつりと感想を述べた。


「王子さまだ…」


そして、そこで意識を手放した。長旅の疲れと急な出来事に脳が追いつかなかったのだ。



「イヌイくーん、お客さんだよー」


どたどたと物音を立て、イヌイは玄関へと向かった。髪の毛を乱しながら、同居人を睨む。


「おい、どういうことだ変態」

「ちがうんよ、僕を見たら気絶しはってん」


出鼻からの暴言をモモタはするりと交わす。少女の体を横抱きに変え、家の中へ入っていく。


「で、この子、何?」

「師匠の新しい弟子だ。俺に押し付けやがった。」


くそと、悪態をついた。頭をぐしゃぐしゃと掻き乱した。ずんずんとイヌイが先を行く。


「ここを、彼女の部屋にした。お前の部屋はあっちな」


モモタの私室だった部屋は、ものの見事に作り変えられていた。私物はなくなり、部屋の中は、ベットとタンス、机だけが置かれてるだけだ。しかも、サイズは少し小さめに作られている。


「律儀だし、まめだよねー」


すべて、彼女のために用意されたのだろう。モモタの身体では、この家具たちを使えない。お人好しの彼に、少し笑みがこぼれた。少女の体をベットに横たえ、布団を被せる。


「うるさい、さがってろ」


イヌイが彼女の容態をしらべる。呼吸、頭の触診、目の様子、体のあちこち。無機質に、そして素早く調べてあげる。


「特に問題はなさそうだな」

「寝てる女の子を無理やり触るなんて、さいてー」

「黙れ、小児愛者」


ケラケラを笑うモモタを、イヌイはするどい目で睨む。ああ、また愉快な日々が始まるのだとモモタは歓喜した。



赤ぎれの指、かさついた唇。はりのように固くなった髪。素足の裏からは血が出ていた。凍傷から足の薄皮が剥がれたのだ。

寒さに震える気力すらなく、少女は地に横たえていた。呼吸をすることすら苦痛だった。

彼女は生まれた時から疎まれていた。母は夫とは違う男と通じ、彼女を産んだ。そして、赤子だった少女を捨て、遠くへ旅立ったと聞かされている。

少女は父とは呼べない男に育てられていたが、結局彼の愛情は育たず、屋敷の馬小屋で、餌だけを与えられる生活が続いた。それでも、彼女は生きたいと願った。


目を覚ますと、知らない部屋にいた。暖かな布団にくるまれ、大きく作られた窓から日の光がこぼれる。部屋を見渡し、最初に思ったことは優しいだった。コンコンと小さなノックの音がした。


「あ、目が覚めてんな。おはよう」

「おはよう…ございます」


先ほどの白馬の王子様みたいな男が水差しを片手に入ってきた。


「俺の名前は、モモタ。みんなはモモって呼ぶねん」


モモタと名乗った青年は、そう言ってにこやかな笑みを浮かべた。見れば見るほど、惚れ惚れする美を極めたような顔だった。日の光が全て彼に差しているような気がした。彼の瞳がまっすぐに彼女を射抜く。


「ねえ、フロイライン。お名前教えて」

「トモっていいます」


トモは自分が恥ずかしかった。今すぐに布団にくるまり、体を隠したかった。しかし、モモタの目がそれを許さない。


「そっかー。トモちゃんって言うねんな。よろしく」


ずいと無遠慮にモモタが手を伸ばす。びくりと彼女の体が震えた。モモタは目を丸くする。


「あ、ごめん。いきなり触られるんは嫌よなあ。」

「いえ、違うんです!  そんなんじゃ…」


何が違うのか、彼女自身にもさっぱりだった。


「何してやがる! へんたい!」


ガツンと彼の麗しい頭に本が降ってきた。モモタはそのまま頭をおさえてうずくまると、その執行者に抗議を始めた。トモは驚きのあまり、声も出なかった。


「痛いやんか、イヌイくん」

「うるさい、犯罪行為を止めただけだ」


その青年は、モモタに比べるといかにも凡庸な顔立ちだった。いや、モモタが異常なのだと考えるべきだろう。背も彼より少し低そうだ。垂れ目の上の眉はひどく寄り、眉間にしわを作っている。口元は真ん中を頂点に三角を形成していた。くしゃくしゃになった前髪をかきあげ、ため息をついた。いかにも不機嫌であると顔で現していた。ぽんぽんと本のモモタに当たった部分を手で払い、そして、トモに視線を向けた。


「ああ、すまない。僕はイヌイ。君のことは師匠から聞いている。よろしく」


そうして、先ほどの彼と同じように腕を伸ばす。それは幾分か細い腕だと感じた。師匠とは似ても似つかない細い腕。しかし、その手は研究生活の結果か少し黒ずんでいた。おずおずとトモはその手をとって眺めた。


「きれいな手…」


呟いたあとで、頬を赤くしたイヌイと、にやにやと笑みを浮かべるモモタを見て、失敗したことに気づいた。持っていた手を放り出し、あたふたと手で顔を隠す。モモタがその手を掴み、イヌイの手と握手させる。


「これから、みんなで頑張ろうな」


手のひらから伝わるイヌイの熱も、手の甲を支えるモモタの熱もどちらも暖かかった。


「よろしくお願い…します」

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