追想録
「平和になったもんだな……」
銀糸の鬣はなびくこともなく、横を切る風を受けながらひたと身体に沿って流れていた。
森を抜けて、首都の街を獣形で駆けていても、石を投げつけられることも、罵声を浴びせられることもなくなってすでに久しい。
もし一昔前、今のようにこの姿で気を失っている少女を背に乗せていようものなら、一切の事情も斟酌されずに礫の的にされ捕らえられていた。
―― まったく、あんなお子様がいつの間にか一国の王だってんだから世も末だよな
……なぁんて言いつつも、今や陰であいつを支えている俺も俺だろうか?
俺がその少年と初めて出会ったのは、もう7年も前の出来事だった……。
その日、俺は地下にまで轟いてきた騒がしさに眠りを妨げられて、ゆるりと瞼を開いた。
「おっ、お待ちください。太子っ!」
「若君!太子御自らがこのような場所にいらせられるなど、もし陛下に知られれば厳しいお叱りを受けますよっ!」
「五月蝿いっ!!自分の住処を自由に歩いて何が悪い、オレの勝手だ」
「ですが、太子が獄舎にお出ましになるなど……」
荒々しく、しかし軽やかな足音が階下に響いて、徐々に近付いてくる。
「へぇ~……」
見上げると、鉄格子をはさんだ向こう側に、逆光で翳った顔が角度を変えてあらわになった。
太子と呼ばれた少年は、子供らしいとても闊達そうな面差しをしているのに、それを台無しにするひどく人の悪い笑みを浮かべながら俺を見ていた。
幼い風体にあまりにも似つかわしくない、酷薄な表情。
「紅い瞳、白銀の髪の人間なんてはじめて見た……」
冷やかな瞳。
薄暗い地下の獄舎の中、柵の前に現れた子供は、俺より5つほども年下らしいくせをしてよっぽど世の中の汚れに慣れた眼をしていた。
「あの王の息子が……こんなとこまで来るなんて、どういうつもりだ?」
漏れ聞こえていた会話からはっきりその少年がどんな存在かを理解していた俺は、一気に憎しみが胸を突いて目の前の子供を睨みつけた。
父親が捕えた獲物を見物にでも来たのかと思ったが、そいつは意外にも苦々しげな表情で吐き捨てた。
「あんな莫迦親父と一緒にするな!オレは、獣魔族の排除なんていう無駄なものには興味ない。
お前をこの場で意味なく食わせていることすら勿体無いんだ」
紛れもないこの国の貴人のくせに、軟禁されている者の微々たる食事代まで惜しむその口ぶりに、思わず唖然としてしまった。
俺は、こいつの父親について憎しみをぶちまける気が削げてしまって、盛大な脱力とともにへたり込む。
不意に少年が訊ねてきた。
「お前、名前は?」
「朱……尭」
「……そうか。朱尭、お前外に出たいか?」
今まで会った大人の誰にも感じたことのない強い光を放つ瞳を向けて、低く静かに十になるかならないかの子供は俺を見据えた。
「…………、出た……い」
絞り出すように、よみがえった言葉が口をついて生まれる。
突然隙間から光が差し込む扉の前に立たされたようで、頭が働かない。
感情のままに言葉がこぼれ落ちていた。
「このままここで、死ぬのは嫌だ。出して……ほしい」
ずっと押し殺していた本音に顔を歪ませた俺を、そいつは最初のような嘲る様子もなく静かに見ていた。
「条件が一つある。ここを出たらオレに仕える、これで是か非か」
甘い罠に誘われてはいけない……、と頭の中で警鐘が鳴り響く。
こいつは、まだこんなに幼いのにかなり酷薄な面を含んでいる。
大体こいつはあの王の息子だ。なんで俺がこいつに使えなければならない……?
色々な考えが……不満が頭をよぎる。
拒絶感が生まれる。
……だが、
ガチャリという音を石造りの穴蔵中に轟かせて、扉は開かれた。
首は……、縦に動いていた。
睨もうとした瞬間、目にした深淵に新たに捉えられてしまっていた。
……俺の負けだった。
今から考えれば、その時すでに俺はこいつに仕えるのも悪くないと思っていたのだろう。
「そうだな、本当は軽々しく口に出すなって言われてるけど……」
たった今できたばかりの俺の幼い主は何かを考え込むように呟き、そうしてひとつ頷いた。
「よし、お前に俺の名前を呼ぶ許しをやる。
……オレの名前は、尚俊だ」
そう言って、えっへんといった仕草で向けられた顔。
やっと垣間見た、年相応の無邪気な笑顔だった……。
それから七年……。
先王が病によってあっけなく亡くなり、その当時は十一歳だった少年も今年で十八になった。
まあ……随分と、貫禄がついてきたような気がしないでもない。
で、俺はというと……。
コンコンッ。
「あの……、すいません。少し水を頂けないでしょうか?」
「まあっ、朱尭さま!どうぞお上がりください」
叩いた民家の木戸から現れた穏やかそうな女性の先導に甘え、少し頭を掻いた。
「その、さま付けはよしてください。……俺は、ただの人と狼の間の子なんですから」
「いいえ!その様におっしゃらないで下さい。
獣魔のことについては、今は多くの者が理解しております。
朱尭さまが王をお助けし、国を見て回ること尽力されていることは多くの民が存じ上げているのですから。
……それに」
「それに、何です?」
女性は急に困ったように口ごもったが、俺の後ろに背負われた少女に目をやって訊ねた。
「その……、少女は?不思議なお召し物を着ておいでですね」
「ああ、そうだった。この娘を少し横に寝かせてやってもよいでしょうか?
気を失ったのをよいことに獣形で走ってきたのだが、じきに起きてもらわなくては……」
「はい!ではこちらへ」
ーー 遠くない未来に……ひとりの、この国を動かす妃となる娘が現れる。
この国を占じる唯一の巫女の予言から三ヶ月……。
さらりとした襞が特徴的な衣服に身を包んだ少女は、今もまだ眠り続けている。
連れて帰ったら、あいつはどんな顔をするだろうか。
苦々しいあの顔を思うと、それだけでにやりと口の端が上がるのを、朱尭は止められなかった。
「この少女は、もしかしたらあの王を……支えることになるかもしれない娘」