違和感の多様性を素直に表現しなけりゃ。
好きなのに付きあうと嫌いになり
好きなのに抱きしめると不自由になる。
相手の顔も名前も忘れて好きでなくなってしまえば、また元通り好きになれる。
自然体に生きられれば美しくいられるが良く生きる事は選べなくなる。
それは階段のよう。
高さがなければ床のまま。
上がるためには縦に伸びないと。
法律やルールが人の自由を奪う、まともな国語の授業を受けた中学生なら誰だって知っている。
ただ、ルールのない生き方は分からないまま、時間が来て高校へ進学していく。
時間や数字という概念の誕生が現代の悪循環、自虐と焦りの閉塞感の原因だなんて誰が思うだろうか?
あたかも当たり前であるように時間や数の概念が受け入れられているのだから。
数、名前、時間、その全ては人が造った人為的なルールであるのに、人はルールを設定した歴史を忘れてしまい、いつの間にかルールに絡み取られ身動きの自由が制限されている。
ゴキブリホイホイのように可視化されいたのなら不満も出ようはず。
しかし絡み取られたことに気が付かず、その多くは絡み取られている事に心地よさを感じ、短い生涯だと考え、長くは続かない居心地の良さに頼って、生きて(死んで)ゆくことを選んでいる。
しかし次世代は選択する余地なく、がちがちに絡まった人為的なルールに従わざるを得ない。
若人はルール設定をした歴史を教えられることもなく、その忘れ失われた歴史による知識の空白が、次世代の若人をさらに酷く絡め取り、思考の余地を失わせていく。
若人は社会がルールの集合体のように映り、自身の感覚の所存無さに絶望する。
趣味がないこと
好きという感情がないこと
人前が不安で恥ずかしくなること
自信が持てず自慢話が一つもないこと
それが本来の人間であり自然体であるのに不安を感じる。
あたかも自分に悪く、自分を責め立てたくなる。
若人は生まれたときから社会はルールなのだと様々な経験を通じて説得されてきたのだから仕方ない。
そもそも社会にルールがなかった時を知らないのだから仕方あるまい。
人が本来的に曖昧な感覚の中で絶えずブレながら生きている事を若人以外は知っている。
しかし、社会とルールがなければ生きていけないのは皆目皆様ご存じのこと。。
問題の所存はルール設定の歴史が伝承されなかったこと、その失われた歴史を生んでしまったこと。
今すべきはルール設定をする以前を想像するイマジネーションの開放。
人がいて、ひとをスキになり、気になる人を目で追い、目が合うと恥ずかしく、見てない素振りをし、告白も出来ない、声もかけれない、何を伝えていいのかもわからない、なぜ気になるのかも分からない、その言葉にならないスキという違和感の最果て生まれる【「好き」という言葉の誕生】、それがルール設定の初期衝動。
あなたはイマジネーションの追憶で、ずーっと昔の(好きという言葉が生まれる前の)人の感情を理解しただろうか?
ルールの前には人の煩悶とした悩みが、たぎっていたことを理解しただろうか?
そして言葉が必要に求められて誕生し、ようやく「恋愛・結婚」というルールが造られることとなったこと、お分かりいただけただろうか。煩悶なくして好きは存在しない。空虚で世間的を意識した好きはルール設定の後に生まれた。それは好きだから好きなのではなく、世間体を意識し羞恥心を紛らわすために生まれた、紛らわすための好きなのである。
煩悶とした意識を「好き」という言葉によって定義してしまったことが現代の「人を好きになるってどういうことか分からず、自身を失い不安になる自虐のストレス」を生んでいる。
いま我々はその様なルール設定の経緯をイメージし、自分の言葉で煩悶とした異性に対する違和感を描写しなければならない。
「好き」というほどの感情は存在しないと自覚しなければならない。
抱きしめることが、キスをすることが「好き」という状況ではないと自覚しなければならない。
個人個人の違和感が正しく全て。
ルールや既存の言葉がただのルール設定でしかないと自覚し、羞恥心と自虐の不必要さに気付き、
素直に違和感を味わい、濃縮して煮詰めて必要とあれば言葉を探して自分なりに表現したらいい。
人はルールに縛られ、一時は縛られることに居心地の良さを感じて停滞した。
しかし我々現代人は先人のつけを払わないと息苦しくて生きていくことも困難で窒息死してしまう。
ルール設定以前の人間の感情の起伏に立ち返り、ルールに歪められることのない素直のままに考えを伝えなければならない。場合によっては既存のルールを選択して使う。
つまりルール設定の歴史を自覚し、違和感の多様性を素直に表現しなけりゃ。