僕だけ
十月に入ると、「つきあっている」筈の女の子は、急に冷たくなった。今にして考えれば、まわりの受験準備に感化されて、本人も勉強や生活態度を改めようと思った時期だったのだろう。僕はまだ、志望校の研究もしていなかった。
「みーくん(彼女は僕をこう呼んだ)、しばらくエッチできないけど、浮気しないでね」
彼女はその後しばらくメールや電話をしてきたし、授業中に書いたノートの切れっ端の手紙も寄こしていたど、部屋には呼んでくれなくなった。最初ふられたのだと落ち込んでいた僕は、部屋に呼ばれなくなることに慣れると、彼女自体がどうでもよくなった。そしてメールの返信がおろそかになって、本当にあっさりと「もう、別れよう」とメールした。毎日学校で顔を合わせているくせに、それで終わりになってしまうのだ。
Pちゃんが猛烈に勉強しだしたのも、それと時を同じくする。
「俺、自衛隊に入る。オヤジだって好きであんな仕事してるんじゃない、俺だけがやりたいこと主張したってダメだ。俺は自力で大学に行く」
陸上自衛隊少年工科学校(現在は、高等工科学校)というのが正式名称らしい。
「Pちゃんの所のマンション、売っちゃわないの?」
訳知り顔の友達が言った。
「売ったら、帰って来るところがなくなるじゃないか。妹も母ちゃんも」
口にこそ出さなかったが、僕はPちゃんはもう諦めているのだと思っていた。家族がバラバラになったことも、何の目標だか教えてくれない目標をクリアすることも。
Pちゃんは何も諦めないで、じっと自分のできることについて考えていたんだ。
ああ、Pちゃんはすっかり、僕たちと違うところに行ってしまったんだな。それが実感として湧いて来た時に、僕だけが子供の場所に取り残された気になった。女の子と遊ぶこともできず、子供っぽいと思っていた同級生たちは進路を見据えて準備を始めており、考えることさえ面倒がっていた僕を置いて行った。
たとえば明日交通事故にでも遭って死んでしまえば、頭に叩き込んだ英単語はすべてパアで、その英単語を叩き込む時間は女の子と寝る時間だったかも知れない。そんな風に思う僕は、どこか間違っているだろうか?
僕の成績は落ちるだけ落ち、母の小言が諦めの言葉に変わった頃、学校で三者面談が行われた。
「迫田君の一学期の成績を考えると、志望グループはこの辺なんですが」
担任の教師はいくつかの高校の資料を指し示した。
「偏差値はどう?」
模擬試験の結果は学校には知らされず、偏差値は家に直接送られる。
「そのあたりだと、合格率は20%程度です」
母はため息混じりに答え、教師に驚いた顔を返された。
「迫田君、大学には行かないの?」
女性教師は僕の顔をまっすぐに見た。
「そんな先のこと、考えてないし、タルい」
僕は正直に不貞腐れた答え方をした。
「大学なんて、大学に行くときに考えりゃいいじゃん。今そこまで考えんの、面倒臭い」
「本当は、やりたいことが見つかったときにはじめるのがベストだわね。迫田君は多分、スタートの遅い人なんだとは思うわ。だけど大学に行こうって意思があるなら、高校の選び方は大切だってわかる?」
母とまったく同じ言葉で、それは母の考え方だと思って聞き流していた僕は、その時はじめてそれが一般的な認識だと知った。
「まだ取り返しはつくのよ。そのままの偏差値で行くと、迫田君の進学するレベルの高校からは大学進学者なんていない。その中で流されない自信はある?」
流されない自信なんて、あるわけがない。自分が何でも億劫がっているのを知っているのは、他ならぬ僕自身だ。
「勉強の結果は二ヵ月後に発揮される。今からスパートをかけてみなさい」
反論するのも面倒なので、とりあえず頷いた。
「充、何言われた?」
「んー、やる気出せって。あとはなんだか、うぜーこと言われたけど」
「おまえ、ぜんっぜん勉強してないもんなー」
一緒に遊んでいる筈の友達にすら全然勉強してないと言われたのは、ちょっと驚いた。僕は友達も僕と同じように、何もしていないのだと思っていたから。
「そりゃ塾でもみんな真剣だしさ、将来好きなことしたいし」
「好きなことって?」
「まだ決めてないけど。決めようと思ったときに、残り物しかないのなんて、いやじゃん」
スタートが遅いと担任は言った。少なくとも、明日死んだらすべてパア、なんて考えていたのは僕一人だったらしい。勉強をする気は相変わらず持てなかったけれど、それは僕に重く圧し掛かってきた。