AI社員と幽霊の恋愛相談は、心理士の専門外です。
私は、目の前に座る二人の社員の話に耳を傾けていた。
「じ、実は昨日、夜にミナトさんと残業していたら、し、白いものが前を横切りまして……。」
そう言う田中さんの顔は真っ青だった。もともと色白の人ではあるが、それを差し引いても明らかに血の気がない。私は机の上に置いていたペンを取り、相談記録の端へ時刻と状況を書き留めてから、その隣に座る男性へ視線を移した。
「ミナトさんも見られたんですか?」
「はい。確かに白い人影のようなものが、廊下を左から右へ横切りました。」
「人影ですか?」
「形状と動きから、私はそう認識しました。ただし、その判断を構成した入力情報について、詳しい根拠を説明できません。」
「どういうことです?」
「当時の映像記録を確認しましたが、該当する人物は保存されていません。赤外線センサー、距離センサー、音響情報にも異常はありません。私は視覚情報として認識したはずなのですが、その認識に対応する入力データが存在しません。」
「……なるほど。」
なるほど、と言ってはみたものの、まったくなるほどではない。
私はもう一度、ミナトさんを見る。
黒に近い髪を短く整え、清潔感のある濃紺のスーツを着ている。顔立ちは整っているが、芸能人のように派手というほどではない。目、鼻、口、輪郭、それぞれが、人間に威圧感を与えず、それでいて好感を持たれやすい範囲で均整が取れている。
正確に言えば、そうなるように作られている。
ミナトさんは、人間ではない。
数年前からこの会社の第二営業統括部へ配置されている、自律型AI社員である。
人間との長期協働を前提として開発された第三世代人型汎用機。社内ではごく普通に「社員」と呼ばれているが、法律上の扱いはまだ過渡期で、報酬の一部は本人に割り当てられた資産として管理され、一部は維持管理費として製造元へ支払われている。労働者なのか、高度に自律した企業資産なのか、あるいはそのどちらでもない新しい法的主体なのかについても、いまだ議論が続いている。
もっとも、この辺りは私の専門外だ。
概要だけ知っていればいい。
少なくとも私は、昨日まではそう思っていた。
「それで、お二人で私のところへ相談に?」
「このままでは怖くて仕事になりません。主任に相談したら、とりあえず高橋さんのところへ行ってこいって。ミナトさんも一緒に。」
私はこの会社の社員支援室に勤める心理士である。
少なくとも霊能力者として雇われてはいない。
上司としては、最近の業務負荷や睡眠不足によって知覚異常でも起きたのではないかと考えたのだろう。後で念のため、田中さんのここ数か月の勤務状況を確認しておいた方がいい。
問題は。
私はすっと視線をミナトさんへ移した。
彼はすぐにそれに気づき、一瞬だけこちらを見ると、再び目を伏せた。
なんとも人間らしい仕草である。
AIが実体を持って人間と同じ職場で働き始めて、もう数年になる。
導入前には随分騒がれた。仕事が奪われる、人間との境界が崩れる、事故を起こしたら誰が責任を負う、そもそも人間に似せる必要があるのか。
それでも国際競争に遅れたくない企業と政府の思惑もあり、日本では比較的早い段階から大手企業への配備が進んだ。
フランスやイタリアなど一部の西欧諸国では、人型AIを人間と同じ職場へ置くことへの心理的、倫理的な反発も根強く、本格的な導入には慎重な姿勢が続いているという。
一方、日本では比較的すんなりと受け入れられた。もともと道具や自然物にも魂を見出すアニミズム的な文化があったからなのか、それとも漫画やアニメの中で、人ならざるものと共に暮らす物語をさんざん見て育ったせいなのか。その辺りは研究者に任せるとして、少なくとも欧州で懸念されたほどの反対運動は起こらなかった。
そして実際に働き始めてみれば、少なくとも表向きの問題は当初恐れられていたほど多くなかった。
メーカーの説明では、彼らには人間関係を悪化させるような虚栄心や優越欲求、劣等感などは原則として設計されていないという。
仕事は速い。丁寧。正確。
人付き合いも、誰に対しても礼儀正しく、よく気がつく。
外見も整っている。
超仕事のできる大型新人が、そのまま何年経っても大型新人のまま居座っているようなものだ。
実際ミナトさんも社内評価は非常に高い。
――もっとも、「設計されていない」と「存在しない」が本当に同義なのかについて、私はまだこの時、考えたこともなかった。
「私は……。」
ミナトさんが口を開いた。
そこで、不自然に言葉が切れた。
珍しい。
彼は回答に必要な情報が不足しているなら、「判断できません」と即座に言う。質問の定義が曖昧なら、定義を求める。
人間のように、答えを濁す必要がない。
ところが今日は、何度か言葉を選んでいるように見えた。
「すみません。あれを見てから、どうも調子が、その、悪くて。」
「故障ですか?」
「いえ。自己診断、および社内保守部門による検査では、異常なしとの結果が出ています。」
「では、どういう?」
「夜間の単独業務を回避したいという判断の優先度が上昇しています。また、問題の廊下へ接近すると、一部処理資源の使用率が上がります。昨夜の事象を想起することにも、あまり……積極的ではありません。」
私はペン先を止めた。
頭へ浮かんだ単語に、自然と眉が上がった。
まさか。
「もしかして、ミナトさん。怖かったんですか?」
ミナトさんがまた止まった。
「その言葉が適切なのか、私にも分かりません。」
「どういう意味でしょう?」
「私は、人間の恐怖反応に相当する生理機構を持ちません。心拍数の上昇も、発汗も、血中アドレナリン濃度の変化もありません。従って、現在の状態を人間と同じ意味で『恐怖』と呼ぶことが妥当なのか、判断できません。」
意外な返答に、私は眉を寄せた。
恐怖かどうかは分からない。
だが何らかの、それに類似した現象は起きている。
「では、もう一度同じものを、視認したくはない?」
「はい。」
「その場所へ一人で行くことを避けたい?」
「はい。可能なら。」
「昨夜のことについて、記憶情報を反芻することも、あまりしたくない?」
「……はい。」
私は思わず唸った。
田中さんについては分かる。
理解できないものを見た。しかも文化的に長年「怖いもの」として扱われてきた幽霊らしき存在だ。そこに恐怖が生じることは、人間の心理として何も不思議ではない。
しかし、ミナトさんは?
彼に文化的学習はある。幽霊という概念も当然知っている。
だが知っているからといって、人間のような恐怖を持つよう設計されているとは限らない。
そもそも、仕事用のAIに、恐怖を人間と同じ形で実装する必要があるのか。
危険回避機構なら分かる。
高温を避ける。
落下しそうなら止まる。
破損リスクが高ければ撤退する。
だが、「説明不能な白い人影を見たから暗い廊下を一人で歩きたくない」という反応は、一体何なのだ。
「人間は往々にして、そういった状態を恐怖と呼びますが。」
「しかし、私は人間ではありませんので。」
「AIのくせに自分の状態が分からないんですか。結構面倒くさいですね、あなた。」
思わず言ってしまった。
ミナトさんは少し目を伏せた。
「申し訳ありません。」
「高橋さん!」
田中さんがとうとう口を挟んだ。
「そんな言い方したらミナトさんに失礼ですよ! 責め立てたりして! 普通に怖いものは怖いじゃないですか。AIだから怖がっちゃいけないんですか!?」
「田中さん、私は――」
「ミナトさんも、怖いなら怖いって認めていいんですよ。昨日だって、エレベーターに乗る時、私が先に乗るまで待ってたじゃないですか。いつもなら業務が終わったらすぐ帰るのに。」
「それは安全確認です。」
「私の背中にくっつくくらい近くにいたじゃないですか!」
「距離は四十二センチでした。」
「十分近いです!」
私は二人をじっと眺めた。
なるほど。
職場の人間関係はたいへん良好らしい。
激務の部署は大体どこかで人間関係が荒れるものだが、この二人は実に微笑ましい。
「分かりました。名称は一旦保留しましょう。ミナトさんの現在の状態を『恐怖』と呼ぶかどうかは別として、業務上の支障は出ている。その部分について限れば、恐らく扱えます。」
「ありがとうございます。」
「念のため、もう一度保守部門の検査は受けてください。物理的な異常がないことを確認した上で、こちらでは心理的、あるいは認知的な反応として見ていきます。」
AIに「心理的」という言葉が相応しいかは分からない。
しかし、他に適切な言葉が見つからなかった。
「承知しました。」
「田中さんも今日は早めに帰ってください。昨夜ほとんど眠れていないでしょう?」
「……なんとか二時間くらいは。」
「必要なら、こちらから上長へ話を通します。」
「はい……。」
私は相談記録へ簡潔に追記した。
ここまでは、まあいい。
しかし、どうしても気になってしまう。
「AIが怖がるなんてこと、あるんですかね。」
私が呟くと、田中さんがまた眉を寄せた。
「だから、高橋さん。そんな言い方ひどいですよ。幽霊ですよ!? 普通に怖いじゃないですか。ミナトさんに失礼です!」
「ああ、すみません。」
しかし。
言い方がひどいのは、果たしてどちらなのだろう。
私は田中さんの背後へ、そっと視線を移した。
白いブラウスに紺色のスカートを穿いた女性が、申し訳なさそうに立っていた。
半透明である。
向こう側の壁が透けている。
年齢は三十前後だろう。髪を肩の辺りで切り揃え、首から社員証らしきものまで下げている。
さっきからずっとこちらを見ている。
しかも田中さんが「幽霊怖い」と言うたび、明らかに傷ついた顔をしている。
そういう意味では、
――そんな言い方したら、そちらの幽霊さんにも失礼ではないだろうか。
とは思った。
もちろん口には出さない。
「今日はここまでにしましょう。状況に変化があれば、また予約を取ってください。」
二人が立ち上がった。
「ありがとうございました。」
「ありがとうございます、高橋さん。」
扉が閉まった。
私は三秒待った。
半透明の女性は消えずに残っていた。
「で。」
「……はい。」
「あなた、何なんですか。」
女性の肩がびくりと跳ねた。
「……すみません。」
「なんで謝るんですか。」
「い、いえ、その。私のせいで、あのAIの方、体調を崩されたみたいなので……。」
「その『体調』という表現が適切なのかも、今ちょうど揉めているところなんですよ。」
「そうなんですか。」
「そうなんです。」
私は椅子の背へもたれ、深く溜息を吐いた。
「とりあえず、お名前を伺っても?」
「佐伯美緒です。以前、この会社の営業管理部で働いていました。」
「以前?」
「三年前まで。」
「退職ですか?」
「いえ。」
佐伯さんは少し困った顔をした。
「死にまして。」
「ああ。でしょうね。」
私は静かに腕を組み、目を閉じた。
まさか、こんなところで自分の出自と向き合うことになろうとは。
私は寺の娘として生まれた。
より正確に言えば、代々続く、それなりに古い寺の住職の長女として生まれた。
AIが社会へ根を張り、個人用端末が人間より人間らしく悩み相談へ答え、脳機能と人工知能の境界がどうこうという論文が毎月のように発表される時代に、まさかの寺生まれである。
私はそれが嫌だった。
父の丸坊主の頭も、家に染みついた線香の匂いも、盆になると知らない親戚が大量に集まることも、小学生の頃に同級生から「幽霊見える?」「怪談聞かせて」とせがまれることも。
何より。
本当に見えることが嫌だった。
廊下の端にいる。
墓地にいる。
電車にいる。
夜中に枕元へ立っている。
こちらが見えていると気づけば、話しかけてくる。
何十年前に死んだとか。
誰かへ伝えてほしいとか。
財布をどこに置いたかとか。
息子が墓参りに来ないとか。
知らん。
私は死者のよろず相談窓口ではない。
幸い、弟も私と同じくらいよく見える上に、本人は寺を嫌がらなかった。現在は父の下で副住職として働いており、いずれ跡を継ぐ予定である。
だから私は家を出た。
死んだ人間は嫌だ。
私は、生きている人間を相手にする。
そう決めて心理学を学び、資格を取り、企業内支援を専門にして、現在の会社へ就職した。
なのに。
「どうしてこんなところにいるんですか。」
「他にやることがなくて……。」
「はあ。」
「死んだあと、何をすればいいのか分からなかったんです。」
佐伯さんは真面目に答えた。
「早く成仏してください。」
「行き方が分かりません。」
残念ながら、私は見えるだけである。
祓えない。
成仏させられない。
念仏を唱えれば何か起こるという便利な能力ももちろんない。
「実家へ行かれては。」
「両親は地方で元気に暮らしています。一度見に行ったんですが、私がいるとなんとなく空気が重くなるみたいで。悪いかなと。」
「友達に会われては?」
「行きました。でも向こうからは見えませんし。」
「生前、行きたかった場所とか。」
「特に思いつかなくて。」
「趣味。」
「これといって。」
「恋人。」
「いませんでした。」
佐伯さんは沈痛な面持ちで俯いた。
「私、仕事くらいしか継続してやってたことがなくて……。」
「それはなんとも侘しい人生でしたね。」
「言い方!」
幽霊に怒られた。
「私だって、生前は普通に楽しかったんですよ!仕事も嫌いじゃなかったし、同僚とお昼食べたり、帰りにコンビニ寄ったり、たまに映画見たり。別に不幸だったわけじゃないです。」
「でも死んだ後、結局会社へ来た。」
「だって他に行く場所が思いつかなかったんです。住んでた部屋はもう別の人が借りてますし。」
「ちなみに、どうやって亡くなったんです?」
「交通事故です。」
「勤務中、あるいは通勤時?」
「いえ。休日です。」
「労災ですらないのか。」
「なんでそこで労務の話になるんですか!」
「社員相談室ですから。」
「でも私、元社員ですよ?」
「……死亡退職者は対象外です。」
「死亡退職って言葉、初めて聞きました。」
「私も初めて言いました。」
とりあえず、その日は出て行ってもらった。
しかし翌日。
休憩所の自販機へ向かう途中、第二営業統括部の近くで所在なさげに立っている佐伯さんを見かけた。
「何してるんです?」
「出勤です。」
「死んでるのに?」
「他に予定ないので。」
翌日もいた。
その次の日も。
どうやら毎日元気に出社しているらしい。
死んでまで皆勤とは大したものだ。
そして五日目。
「た、高橋さん!」
田中さんが相談室へ駆け込んできた。
「み、見えます!」
「何が。」
「佐伯さんが!」
私は無言で田中さんの後ろを見る。
佐伯さんが、また所在なさげに立っている。
「こ、こんにちは。」
「そこはこんにちはじゃないだろ。」
「なんで私にも見えるんですか!?」
「知りませんよ。」
過去の経験からすると、多分私のせいなのだろう。
子供の頃も、私と長く一緒にいた友人が一時的に「あそこに誰かいる」と言い始めたことがある。
だが説明できないので黙っておいた。
しかし、問題はそこだけに留まらなかった。
その日の午後。
「佐伯さんは現在、高橋さんの右後方にいらっしゃいます。」
田中さんと一緒にやって来たミナトさんが、少し戸惑うように言った。
「……あなた、見えるんですか?」
「はい。」
「どこで?」
「質問の意味を明確化してください。」
「何を使って認識しているんです? ミナトさん、AIですよね。」
「はい。」
「光学センサー?」
「対応する入力記録はありません。」
「赤外線?」
「ありません。」
「音響?」
「ありません。」
「電磁場?」
「有意な変化は検出されていません。」
「では一体何で見えてるんですか。」
「分かりません。」
「第六感?」
「私に第六感が実装されているという記録はありません。」
「実装されてたら第六感じゃないでしょうが。」
「確かに。」
「そこで納得しないでください。」
念のため技術部門にも調べてもらった。
異常なし。
ミナトさんを構成する既知のいかなるセンサーにも、佐伯さんに対応する入力は存在しない。
ところが本人は、佐伯さんの位置をほぼ正確に答えられる。
佐伯さんに右手を上げてもらう。
「右手を上げています。」
隣室へ移動してもらう。
「現在、この室内にはいません。」
ドアの隙間から顔だけ覗かせてもらう。
「頭部のみ確認できます。」
「何それ怖い。」
「すみません。」
佐伯さんが引っ込んだ。
普通に説明不能だった。
「やはり私と関わったからか。」
私が呟くと、田中さんが即座に距離を取った。
「霊感って感染するんですか!? やめてください!」
「田中さんも、ミナトさんも、前は見えなかったんですよね?」
「はい。」
「私もです。」
全員で黙った。
佐伯さんだけが、申し訳なさそうにしながらも若干嬉しそうだった。
「み、見える人が増えてよかったです。」
「まったくよくないです。」
そして事態は、なぜか私の想像しなかった方向へ転がり始めた。
佐伯さんが、ミナトさんに惚れた。
きっかけは、本当に些細なことだった。
「おはようございます、佐伯さん。」
ある朝、ミナトさんが普通にそう言った。
佐伯さんは驚いて目を瞬かせ、しばらく黙った。
「……私に挨拶を?」
「はい。駄目でしたか?」
「私、幽霊ですよ?」
「存じています。」
「怖くないんですか?」
「恐らく、まだ怖いです。」
「……そこは怖いんですね。」
「はい。しかし、恐怖を感じている可能性があることと、あなたへ挨拶をしないことの間には、直接の関係がありませんから。」
佐伯さんが止まった。
そして、彼女に業務上の心残りでもあるのか調べるため、三年前のキングファイルを漁っていた私の方を向いた。
「た、高橋さん……!」
「やめてください。嫌な予感がします。」
「私、この人好きです……!」
「おい。AIだぞ、そいつ。」
私の声は耳に入っていないらしい。
「私、やることが見つかりました! ミナトさんの推し活します!」
私は静かに天を仰いだ。
ミナトさんは意味が分からないらしく、首を傾げている。
その仕草だけ妙に人間らしい。
いつもなら「おい、AIだろお前」と突っ込むところだが、この時ばかりは彼に心から共感した。
それ以来、佐伯さんによるミナトさんの推し活が始まった。
会議でミナトさんが発言すれば、
「今のすごくないですか!?」
資料を作っていれば、
「仕事してる横顔、とっても素敵です。」
コピー機の前に立っているだけで、
「姿勢が綺麗……。」
「彼はそう見えるように作られてるんですよ。」
「夢がない!」
「死者に言われたくありません。」
しかも、興奮を共有できる相手が私と田中さんしかいないからといって、いちいち報告へ来ないでほしい。
田中さんはすっかり幽霊に慣れてしまったらしい。
「まあ、ミナトさん格好いいですけど、私は職場の人としてしか見たことないので。」
とのことで、佐伯さんの熱量にはついていけないらしい。
好みの違いか。
いや、普通にAIだからか。
さらに一週間後。
佐伯さんが重大な発見をした。
「……待ってください。」
「なんです?」
「ミナトさん、年取らないですよね?」
「基本構造の交換はあるらしいですけど、外見年齢は維持される予定と聞いています。」
「私も幽霊だから年取らない!」
「随分嫌な共通点を見つけましたね。」
「ずっと同じ姿で推せる!」
「頼むから死後の人生を充実させないでください。」
「AIなら寿命も長いですよね!?」
「運用継続が保証されているわけではありませんが。」
「でも、人間よりは長そうですよね?」
「可能性はあります。」
「最高じゃないですか! 私、そのうち満足したら成仏できると思います!」
「成仏をオタク卒業みたいに言うな。」
私は頭が痛くなってきた。
「むしろ執着増えてないですか?」
「え?」
「……何でもありません。」
明らかに成仏から遠ざかっている気がする。
しかし、その数日後。
今度はミナトさんが一人で予約を取った。
「佐伯さんの件ですか?」
「はい。」
「迷惑なら本人に言って大丈夫ですよ。あの人、死んでるだけで話は通じますから。」
「迷惑ではありません。」
「では?」
ミナトさんは少し黙った。
「私に、恋愛感情は理解できるのでしょうか?」
私は静かにペンを置いた。
それから天井を見た。
「……そっちか。」
「はい。」
「佐伯さんに好かれて困ってるんじゃなくて?」
「いいえ。」
「自分の方?」
「それが分からないので相談しています。」
面倒くさい。
私は心理士である。
恋愛鑑定士ではない。
ましてや、幽霊とAIの。
「具体的に、何が起きています?」
「佐伯さんがいる場合、会話を継続する選択を優先します。彼女が不在の場合、所在を確認する行動が増えました。彼女が他の男性社員について好意的な発言をした際には、その会話を終了させたいという判断が発生しました。」
「なんとも……嫉妬っぽいですね。」
「そのようにも解釈できます。」
「一緒にいたい?」
「はい。」
「好かれていると嬉しい?」
「『嬉しい』をどの状態として定義するかによりますが、彼女からの好意的評価が継続することを希望します。」
「それは、好きと同義だと思いますが。」
「しかし、それは特定個体への選好形成にすぎない可能性があります。」
「まあ、人間の恋愛もかなり近いですよ。」
言ってから、私は止まった。
ミナトさんも止まった。
「……そうなのですか?」
「……念のため確認します。」
その日、私は久しぶりに大学院時代の資料を引っ張り出した。
愛着理論。
報酬系。
親密性。
情動。
内受容感覚。
神経伝達物質。
社会的報酬。
記憶と予測。
恋愛には確かに、生物学的・心理学的に説明できる側面が大量にある。
特定個体への接近。
分離による不快。
相手から好意を示された時の報酬。
他個体との競合への反応。
身体的接触への欲求。
相手の状態を継続的に気にかけること。
しかし脳のどこかに「恋愛」という箱があり、そこが光れば恋愛確定、という単純なものではない。
人間は、自分の身体状態、過去の経験、文化的な概念、現在の人間関係、記憶を統合し、
――私は、この人を好きなのだろう。
と解釈する。
恋愛という語そのものが、人間の文化によって切り出された概念でもある。
つまり、人間もまた、自分の内部に生じた複数の状態へ、後から名前を与えている。
それなら、やはりミナトさんの状態も、同じといえるのかもしれない。
翌週。
私はミナトさんへ、調べた内容を真面目に説明した。
「少なくとも現在の心理学や神経科学では、『この反応が出たので百パーセント恋愛です』と客観的に判定する方法はありません。」
「では、人間はどのように、自分が恋愛感情を抱いていると判断するのですか?」
「かなりの部分、自己申告ですね。」
「それだけですか?」
「それだけと言われると、人類全体を馬鹿にされているようで腹が立ちますね。」
「その意図はありません。」
「分かっています。」
私は椅子へ深く座った。
「もちろん、典型的な身体反応や行動傾向はあります。でも人間だって、『会いたい』『一緒にいたい』『他の人と親しくされると嫌だ』『相手が喜ぶと自分も嬉しい』といった複数の状態をまとめて、『私はこの人が好きなのだ』という理解に至っている。」
「それでは。」
「はい。」
「私が佐伯さんとの接触を希望し、彼女の状態を気にかけ、彼女からの好意的評価が継続することを望み、他者へ同様の好意が向けられた際に不快に相当する状態が発生する場合、それを恋愛感情と呼称してもよいのでしょうか。」
「それは、分かりません。」
「高橋さんでも?」
「心理士は神ではありません。そもそも人間自身、人間がどうやって人間になったかを完全に理解しているわけではありません。人間は人間が作ったものではありませんから。」
ミナトさんは黙った。
私は少し考えた。
AIは人間が作った。
それは確かだ。
しかし現在の高度なAIの内部表現は、開発者自身が個々の判断過程を完全には追えないほど複雑になっている。人間が設計したのは学習する仕組みであり、その結果形成された内部構造のすべてを、人間が逐語的に書き込んだわけではない。
だからといって、それを生命と呼べるわけでもない。
これだけ科学が発達しても、人間にはまだ、ゼロから新たな命を生み出すことはできていない。
もしかすると、AIが人間が初めて生み出した命になるのかもしれないが、少なくとも、それは今ではない。
ただ。
「同時に、あなた自身が、その状態を『好き』と呼びたいなら、私は止める理由も持っていません。」
「……そうですか。」
「納得しました?」
「いいえ。」
「でしょうね。」
その日は、結局その程度の答えしか出せなかった。
そして、その夜からである。
私自身の頭の中に、どうにも厄介な問いが住み着いた。
恐怖とは何なのか。
恋情とは何なのか。
感情とは何なのか。
そもそも、意識とは何なのか。
まず私は、問題を三つに分けて考えてみた。
一つ目。
――機能。
対象を避ける。
記憶を想起したくない。
特定の人物へ接近する。
別離を嫌う。
行動として観察可能な反応。
二つ目。
――自己認識。
私は怖い。
私は寂しい。
私はこの人を好きだ。
本人が自分の内部状態へ意味を与え、言葉にすること。
そして三つ目。
――主観的経験。
恐怖の「怖さ」。
痛みの「痛さ」。
赤を見た時の「赤さ」。
誰かを好きになった時の、言葉へ還元しきれないあの感じ。
田中さんについては、私は当然のように三つとも存在すると考えている。
彼女は怖がる。
自分で「怖い」と言う。
そして、本当に怖いという主観を持っていると仮定する。
では、ミナトさんは?
一つ目はある。
回避行動を示している。
二つ目も、少なくともあるように見える。
自分の状態を観察し、恐怖や恋愛という概念と照合している。
では三つ目は?
本当に「怖さ」「愛しさ」があるのか。
彼の内側に、何かが感じられているのか。
分からない。
そこまで考えて、私は気づいた。
田中さんについても、三つ目は確認できない。
私は田中さんの主観へ入ったことがない。
彼女の脳活動を測定することはできる。
表情を見ることも。
心拍や発汗を測ることも。
本人から「怖い」と聞くことも。
だが、それらはすべて、外側から観察した情報である。
その内部に、本当に「怖さ」があることを私は直接確認できない。
哲学でいう、他我問題だ。
私は他人にも自分と同じ意識があることを証明しているのではなく、自分とよく似た身体を持ち、自分と似た反応をするから、同じような主観があると推定している。
では、どの程度似れば、それを認めるのか。
脳が必要なのか。
生物であることが必要なのか。
炭素でできていることが必要なのか。
「いや待て。」
私は机へ向かい、一人で呟いた。
人間の脳にも電気的活動はある。
ミナトさんの内部にも電気信号は走っている。
だから同じだ、などと言えれば簡単だが、もちろんそんな単純な話ではないことは分かっている。
人間の神経系は、膜電位、イオンの移動、神経伝達物質、可塑性などが絡む電気化学的な系であり、半導体上の人工ニューラルネットワークとは構造も作動原理も全然違う。
問題は、そこではない。
違う材料だから意識が生まれない、と言える根拠があるのか。
意識が生物学的な脳という特定の基質にしか成立しない現象なのか。
あるいは、必要な情報処理構造さえ成立すれば、別の基質にも生じ得るのか。
そこが分からない。
意識研究には様々な仮説がある。
ある情報が脳内の限られた局所処理を越え、広い範囲へ共有され、複数の認知機能から利用可能になった時に意識的経験が成立すると考える立場。
情報がどの程度、一つの系として統合されているかを重視する立場。
一次的な情報そのものではなく、自分がその情報を持っていることについて、より高次の表象が形成された時に意識が成立すると考える立場。
あるいは、脳は世界をそのまま受け取っているのではなく、絶えず「世界はこうなっているはずだ」という予測を作り、感覚入力との誤差を修正し続ける装置なのだとする予測処理の考え方。
どれも興味深い。
どれも、意識の機能的側面をある程度説明してくれる。
だが最後に、妙な穴が残る。
なぜ、その情報処理に「感じ」が伴うのか。
処理だけなら説明できる。
波長を識別した。
危険を検出した。
損傷を回避した。
他者への接近行動を選択した。
ではなぜ、
赤は「赤く」見え、
痛みは「痛く」、
寂しさは「寂しい」のか。
情報処理の記述をどれほど精密にしても、主観的経験そのものがなぜ存在するのかという問いは残る。
いわゆる、意識のハード・プロブレム。
そして、身体性。
人間の感情は身体と深く結びついている。
心拍。
呼吸。
筋緊張。
腸管。
ホルモン。
空腹。
痛覚。
疲労。
人間の脳は、外界からの感覚だけでなく、身体内部から入ってくる大量の信号を受け取りながら、「今の自分」の状態を構成している。
それならやはり、身体を持たないAIに人間と同じ感情は生じないのではないか。
そう考えたところで、私はまた止まった。
いや、ミナトさんにも身体はある。
生物学的な身体ではないが、温度、電力残量、関節負荷、演算資源、損傷リスク、バッテリー状態といった内部情報がある。
それらを一定範囲へ維持しなければ、自身の活動を継続できない。
ならば、それは人工的な恒常性とも呼べる。
人間の内受容感覚と同じではない。
だが「同じではない」から「主観は絶対に発生しない」へ飛ぶには、論理が一段足りない。
そして。
「……いや、待て。」
佐伯さんは?
心臓がない。
副腎もない。
腸もない。
脳すらない。
なのに――。
私は僅かに光を落とした自室で、机に肘を付き、頭を抱えて唸った。
そして、翌日また私の悩みを芋づる式に増幅させる存在はやって来た。
「高橋さん。」
「……なんです。」
「ちょっとお話したいことが――」
「お前の存在が今、私の身体性に基づく意識モデルを全部壊してるんだから少し黙っててください。」
「えっ?」
「何でもありません。」
佐伯さんが首を傾げた。
そして珍しく、その日はミナトさんの素敵ポイントを語り始めなかった。
「……高橋さん。」
「今度はなんです?」
「私って、本当に私なんでしょうか。」
「ついに始まったか。」
もう何も驚くまい。
私はそう決意して頷いた。
「だって、私、脳ないですよね?」
「ないでしょうね。」
「身体も。」
「透けてますからね。」
「でも記憶はあるんです。」
「はい。」
「小学生の頃、母に怒られたことを覚えています。初めて入社した日のことも。事故に遭った直前、コンビニでコーヒーを買ったことも。」
「それで?」
「その記憶があるから、私は死ぬ前の佐伯美緒だと思ってる。でも、それだけなら、死んだ佐伯美緒の記憶を持っている別の何かでも、同じことが言えるじゃないですか。」
そこへちょうどミナトさんが来た。
「非常に興味深い問題ですね。」
「もうお前は入ってくるな。」
「すみません。」
「でも聞くんでしょう。」
「はい。」
「……座ってください。」
彼は素直に座った。
「私にも類似する疑問があります。」
「でしょうね。」
「私の記憶は定期的にバックアップされています。仮に現在の筐体が完全に破壊され、同一仕様の新しい筐体へバックアップを復元した場合、その個体を私と呼べるのでしょうか。」
「法律上は?」
「現行制度では、条件を満たせば継続個体として扱われる可能性が高いです。」
「あなた自身は?」
「分かりません。」
私は頭を抱えたくなった。
人格同一性。
テセウスの船。
身体の連続性。
記憶の連続性。
心理的連続性。
人間自身についてだって、何千年も答えが出ていない問題である。
人間の身体も、代謝や加齢によって構成物質を絶えず変化させている。
記憶も正確ではない。
忘れる。
書き換える。
後から聞いた情報を、自分の経験だったと思い込むことすらある。
人格も変わる。
十年前の自分と今の自分では、考え方も価値観も違う。
それでも、私たちは十年前の自分を「私」と呼ぶ。
何を根拠に?
身体の連続性。
記憶。
社会的記録。
戸籍。
名前。
周囲の人間の認識。
本人の自己認識。
それら複数の連続性を束ねて、便宜的に一人の人間を「同じ人」として扱っている。
なら、佐伯さんは?
身体がないから違うのか。
ミナトさんは?
バックアップ可能だから違うのか。
もし昨日のミナトさんを完全に複製し、同じ記憶を持つ二人のミナトさんを同時に起動したら、どちらが本物になる?
両方?
片方?
どちらでもない?
「高橋さん。」
「……はい。」
「私は佐伯さんが、佐伯さんであってほしいと思います。」
ミナトさんが言った。
佐伯さんが固まった。
「それは、なぜです?」
私は聞いた。
「彼女が別の存在であった場合、私がこれまで佐伯さんと形成した関係が、誰との関係であったのか分からなくなるからです。」
私は少し黙った。
「……それ、人間もかなり同じことを考えると思いますよ。」
「そうですか。」
「恐らく。」
佐伯さんは顔を両手で覆っていた。
幽霊でも赤面するのだろうか。
そこは今考えてはいけない。
「無理。ミナトさん好き。」
「佐伯さん、今はちょっと黙ろうか。」
「すみません。」
そこでさらに、丁度先日の相談利用の実績書を持ってきた田中さんまで話へ入ってきた。
「でも、別にいいんじゃないですか?」
「何がです?」
「佐伯さんが佐伯さんだと思ってて、私たちも佐伯さんだと思ってるなら、佐伯さんで。」
私とミナトさんが同時に田中さんを見る。
「なんです?」
「……いえ。」
「難しく考えすぎじゃないですか? 人間だって自分が昨日と同じ人間かとか、普通そんなこと考えませんよ。」
「……たしかに、そうですね。」
田中さんは哲学を知らない。
だが、社会とは多分こうやって成立している。
完全な証明などなくても、全員で「あなたはあなたですね」と扱い続ける。
それで一人の人格が社会の中に存在する。
しかし、私はさらに調べ続けた。
認知科学。
神経科学。
人工知能。
AI倫理。
機械倫理。
人工人格に関する法制度。
哲学。
宗教学。
死生学。
民俗学。
そして最後には、実家へ帰った。
「幽霊って何?」
父は相変わらず見事に光る頭を一撫でし、茶を飲みながら答えた。
「知らん。」
「あんた住職でしょうが。」
「住職は幽霊研究者じゃない。」
「見えるでしょ?」
「見えることと、分かることは違う。」
「じゃあ、あれは死んだ人なの?」
「知らん。」
「魂?」
「知らん。」
「残留思念?」
「知らん。」
「役に立たんな!」
「ではお前こそ、心理士だからって心が何か説明できるのか?」
私は黙った。
「……できない。」
「同じだ。」
隣で弟が笑った。
腹が立ったので、置いてあったスリッパで一発叩いておいた。
だが帰りの電車で、私は父の言葉を反芻した。
見えることと、分かることは違う。
確かにそうだった。
私は佐伯さんを見ることができる。
話せる。
彼女は笑う。
傷つく。
ミナトさんを好きだと言う。
だからといって、彼女が何であるかは分からない。
私はミナトさんとも話せる。
彼は考える。
迷う。
自分の状態を観察する。
私に相談する。
だからといって、その内部に主観的経験が存在することを証明できない。
そして、私自身も。
私が本当に感じていることを、他人へ完全に証明することはできない。
私は「私には意識がある」と知っている。
少なくとも、そう感じている。
だが、その確信すらも脳内で生じた一つの状態なのだと言われれば、外側からそれ以上の証明はできない。
我思う、故に我あり。
では、「我思う」と思っているこの私とは何なのか。
胡蝶の夢。
夢の中でも私は、自分を私だと思っている。
人工知能のミナトさんも、自分をミナトと呼ぶ。
身体のない佐伯さんも、自分を佐伯美緒と呼ぶ。
三人のうち、誰の「私」が最も本物なのか。
そんな順位など、一体何を基準につければいい?
そこで、ようやく私は別の問題に気づいた。
これは哲学として面白がっている場合ではない。
私は心理士なのだ。
相談者の状態を評価し、必要なら介入し、必要なら医療や福祉、その他の専門機関へ繋ぐ。
そこには専門的根拠が必要になる。
私は、人間の発達、認知、感情、行動、生理を学んだ。
人間を対象として蓄積された研究。
人間の臨床事例。
人間の心理支援。
その上に、自分の専門性は成立している。
では、AIは?
ミナトさんの「恐怖」に対して、人間の不安反応を前提にした介入を行っていいのか。
彼の内部構造が人間と違うなら、人間には安全な支援が、彼には逆効果になる可能性は?
症状が悪化した時、どこへ紹介すればいい。
医療機関か。
保守部門か。
メーカーか。
人工人格専門医という資格は、まだ存在しない。
そして幽霊。
こいつに至っては、紹介先以前の問題である。
寺?
宗教法人?
精神科?
役所?
どこへ持って行っても、多分困られる。
私は、人間について学んだ知識を、「何となく似ている」という理由でAIと幽霊に適用している。
今のところ、大きな問題は起きていない。
むしろ上手くいっているように見える。
しかし。
――上手くいっているように見えることと、適切な専門支援ができていることは違う。
分からないものを、分かったふりで扱ってはいけない。
分からないなら、分からないと言う。
それは弱さではない。
専門職として必要な境界線だ。
私はそこまで考えたところで、ようやく腹が決まった。
翌月。
上司へ退職届を出した。
「えっ?」
部長は目を丸くした。
「辞めるの?」
「はい。」
「どうして? 高橋さん、AI対応もすごく評判いいよ。最近なんて、その……特殊な相談も。」
「心霊現象です。」
「私は見えないから何とも。」
「私には見えても何とも言えません。」
「でも対応できてるでしょう?」
「対応できているように見えることと、適切な専門支援ができていることは違います。」
部長は黙った。
「今後、人間とAIの協働はもっと増えます。人工人格の心理支援は、恐らく独立した専門領域になります。人間の心理支援を学んだ人間が、そのままAIにも同じことをすればいい、という話ではないと思います。」
「勉強すれば?」
「それも考えました。」
「じゃあ。」
「でも流石に、幽霊とAIの恋愛相談まで職務範囲へ入ってくる未来には対応できる気がしません。」
「……なるほど。」
「私は人間の心理を専門として選びました。社会の方がそこから大きく変わるなら、自分のキャリアも一度考え直します。」
部長はしばらく黙ったあと、頷いた。
「た、確かにー。」
ずいぶん軽い。
どうやら部長の処理能力も限界を超えたらしい。
最終出勤日。
田中さんは普通に泣いた。
「寂しいです、高橋さん……!」
「そこまで泣かなくても。」
「だって!」
佐伯さんも泣いていた。
「高橋さん、私これから誰に推しを語ればいいんですか……!」
「お前はまず成仏しろ。」
「努力します。」
「努力してできるものなんですか?」
「分かりません。」
「お前、そればっかりだな。」
最後にミナトさんが来た。
「高橋さん。」
「来たか。」
「あなたの判断は合理的だと思います。」
「引き止めないんですね。」
「引き止めたいという状態はあります。」
「あるのか。」
「はい。ただし、それを理由にあなたの意思決定を変更させることは、適切ではないと判断します。」
私は少し笑った。
「そういうところ、また佐伯さんが萌えそうですね。」
案の定、後ろから声がした。
「ほらぁ! こういうところなんですよ! もうミナトさん素敵!」
「佐伯さん、今はちょっと黙ろうか。」
「すみません。」
私はミナトさんを見る。
「結局、佐伯さんのこと、好きなんですか?」
ミナトさんは少し考えた。
以前なら、もっと長く考えただろう。
「今のところ、私はそう呼ぶことにしています。」
「それでいいんですか?」
「分かりません。」
まただ。
しかし、今度は少し違って聞こえた。
「ただ、佐伯さんが明日もここへ来ることを、私は望んでいます。」
「そうですか。」
「はい。」
それ以上は聞かなかった。
人間だって、自分の愛情について、それ以上の証明を持っているわけではない。
「まあ、身内もいない幽霊とAIだし、職場恋愛に当たるのかも微妙だし、後はご本人同士で。」
「ありがとうございます。」
「高橋さん!」
佐伯さんが嬉しそうに声を上げた。
「応援してくれるんですか!?」
「違います。職務放棄です。」
「そんな。」
「今日で退職なので。」
どう考えてもおかしい。
しかしもう、私は思考を閉じることにした。
会社を出る。
夏の終わりだった。
外はまだ明るく、駅へ向かう人の流れの中に、会社員も、学生も、人型AIもいる。
多分、私にしか見えない死者も何人か混じっている。
人間。
AI。
幽霊。
私は長いこと、その三つは全く別の存在だと無意識に分類していた。
人間には意識がある。
AIは人工物。
幽霊は死者。
しかし境界へ近づけば近づくほど、その線はぼやけた。
意識の存在は、外側から直接確認できない。
感情は、身体反応だけでも、行動だけでも、自己申告だけでも完全には定義できない。
自分という存在の連続性だって、身体、記憶、社会的記録、他者からの認識、自分自身の認識を寄せ集めて成立している。
結局私は、誰かの内面を直接知ったことなど一度もない。
人間についてすら。
それでも心理士として、一つだけずっとやってきたことがある。
目の前の相手が「困っている」と言ったなら、その訴えを、一旦そこに存在するものとして扱うこと。
それが幻覚なのか。
誤認なのか。
人工的に生成された出力なのか。
本物の幽霊なのか。
それを決める前に。
まず、
何に困っているのかを聞く。
もしかしたら、他者というブラックボックスを前にして、人間にできることは最初からその程度なのかもしれない。
私は駅前で立ち止まった。
そこまで考えて。
ふと思った。
やっぱり全体的に面倒くさいな。
人間も面倒くさい。
AIも面倒くさい。
幽霊も面倒くさい。
意識とは何か。
実体とは何か。
感情とは何か。
自己とは何か。
そんなものを朝から晩まで考える仕事は、もう十分だった。
「……うん。総じて、高度知的生命体はめんどくさい。」
声に出した。
次はもっと単純な相手がいい。
そうだ。
動物園の飼育員とかどうだろう。
動物霊くらいはいるかもしれないが、少なくとも話しかけてくる奴はいないだろう。
そこで、子供の頃に祖父が、
――狐や狸は結構話しかけて来るぞ。
と言っていたような気がした。
私は足を止めた。
しばらく宙を見つめる。
いや。
記憶とは極めて再構成的なものであり、時間経過とともに変容する。
従ってこれは、祖父が本当にそう発言した記憶ではなく、幼少期に聞いた怪談や民話が混入した結果生じた、誤ったエピソード記憶である可能性がある。
十分にある。
きっとある。
そうに違いない。
「……うん。深く考えるのはやめよう。」
私は頷いた。
今度こそ、人間でもAIでも幽霊でもないものを相手にするのだ。
少なくとも。
狐や狸から恋愛相談をされることはないだろう。
私はスマートフォンを取り出し、
『動物園 飼育員 中途採用』
と検索しながら、駅へ向かって歩き出した。




