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心の距離と現実の距離は一致しない

作者: 恭弥
掲載日:2026/05/17

会社のエレベーターは、いつも少しだけ息苦しい。


理由は空調じゃない。たぶん、目の前にいる人のせいだ。


「……遅い」


低くて、よく通る声。

視線を上げると、そこには腕を組んだままこちらを見下ろす女性がいた。


橘(たちばな) 玲奈(れいな)。

営業部の課長。

そして、俺の直属の上司。


黒髪は肩で切り揃えられていて、仕事中は一切崩れない。

整った顔立ちは綺麗というより“鋭い”。

社内では「氷の女王」なんて陰で呼ばれている。


ただ――その評価は、半分しか当たっていない。


「すみません、資料の印刷に手間取って……」


「言い訳はいい。時間は守って」


ピシャリと切られる声。

だけど、その直後にほんの一瞬だけ、視線が横に逸れた。


それを俺は見逃さない。


(まただ)


怒っているようで、ほんの少しだけ困っている顔。

この人は、感情を隠すのが下手だ。


エレベーターが上階に向かって動き出す。

沈黙が降りる。


「……昨日の件」


不意に、彼女が口を開いた。


「クライアントへのメール、修正したのはお前か」


「はい。課長の案、少しだけ言い回しを柔らかくしました」


「勝手なことをするなと言ったはずだが」


怒っているはずの声。

でも、なぜか少しだけトーンが軽い。


「結果的に通ったんで問題ないかと」


「……たまたまだ」


即答だった。


エレベーターが止まり、扉が開く。


彼女は先に出て、数歩進んでから振り返らずに言った。


「次からは、報告してからやれ」


それだけ言って歩いていく。


だが、その背中がほんの少しだけ速いのを、俺は知っている。


(機嫌、悪くないな)


そう思った瞬間、少しだけ笑ってしまった。


⸻


営業部の朝は早い。


電話、メール、会議資料。

誰かが常に走っているような空気。


その中心に、彼女はいる。


「午前の会議、資料は全部揃えたか」


「はい。チェック済みです」


「……一応な」


一応、という言葉が余計だ。

ただ、その言い方には妙な“信頼の裏返し”が混ざっている。


しばらくして、同僚が小声で耳打ちしてくる。


「お前、課長に目つけられてるのか愛されてるのかどっちだよ」


「どっちだと思う?」


「怖くて聞けるか」


確かに、普通なら怖い上司だろう。

感情をほとんど表に出さないし、ミスには厳しい。


でも。


(たぶん、この人は不器用なだけだ)


ふと視線を上げると、玲奈課長と目が合う。


一瞬、固まる。


次の瞬間。


「……何をぼーっとしてる」


冷たい声。


なのに――ほんのわずか、耳が赤い気がした。


(気のせいじゃないよな、今の)


視線をそらす彼女の動きが、いつもより速い。


そしてそのまま、資料を強く机に置いた。


「午後の準備、遅れるな」


「はい」


短いやり取り。


なのに、なぜか胸の奥が少しだけ落ち着かない。


⸻


昼休み。


社内の休憩スペースでコーヒーを飲んでいると、背後から声がした。


「そこ、空いてるか」


振り返ると、彼女だった。


思わず少し固まる。


「どうぞ」


「……別に、隣じゃなくてもいいが」


そう言いながら、普通に隣に座る。


(じゃあ聞くなよ)


心の中で突っ込む。


カップを持つ指先は細くて、でも少しだけ力が入っている。


沈黙。


だが、彼女は珍しくすぐに口を開いた。


「昨日のメール、クライアントの反応は」


「かなり良かったです。柔らかくした部分、特に」


「……そうか」


それだけ。


それだけなのに、少しだけ空気が軽くなる。


しばらくして、彼女がぼそっと言った。


「お前は……余計なことをする割に、結果は出すな」


褒めているのか、貶しているのか分からない。


「それ、褒めてます?」


「違う」


即答。


でも、そのあと少し間があって。


「……評価しているだけだ」


視線はカップの中に落ちたまま。


耳だけ、ほんのり赤い。


(この人、絶対わかりやすいんだよな)


そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなった。


⸻


その日から、少しだけ何かが変わり始める。


言葉は相変わらず冷たい。

態度もぶっきらぼう。


でも。


距離だけが、ほんの少しだけ近くなる。


そしてその“ほんの少し”が、妙にやっかいだった。

残業室は、夜になると別の顔を見せる。


昼間の騒がしさが嘘みたいに消えて、

キーボードの音だけがやけに響く。


「まだ残ってるのか」


その声に、少しだけ肩が跳ねた。


振り向くと、そこにいたのはやっぱりこの人だった。


橘 玲奈。


ジャケットを腕にかけたまま、資料を片手に立っている。

いつものきっちりした姿勢なのに、少しだけ疲れているように見えた。


「課長こそ、まだ帰ってなかったんですね」


「私は責任者だ。最後まで確認するのは当然だろ」


いつも通りの冷たい声。


でも、今日は少しだけ違った。


(……声、少し掠れてる)


「コーヒー、いれますか?」


「いらない。そんなもの飲まなくても――」


そこまで言って、彼女は言葉を止めた。


そして小さくため息をつく。


「……もらう」


(今の“間”なんだよな)


思わず苦笑しながら席を立つ。


⸻


給湯室でインスタントコーヒーを作る。

こういう雑務はいつの間にか自分の役目になっていた。


戻ると、彼女はデスクに肘をついて目を閉じていた。


珍しい光景だった。


「課長」


「……起きてる」


即答だった。寝てないアピールが速い。


カップを置くと、彼女は一瞬だけ視線を落とす。


「砂糖は」


「入れてます」


「勝手なことを」


そう言いながら、普通に飲む。


(もう何も言う気ないだろこの人)


一口飲んだあと、彼女は少しだけ黙る。


そして、ぼそっと。


「……悪くない」


聞き取れないくらいの小ささ。


「今、何か言いました?」


「言ってない」


即答。


絶対言った。


⸻


しばらくして、資料整理をしていると彼女が立ち上がる。


「お前、明日のプレゼン資料」


「はい」


「もう一度チェックしろ。数字が一箇所甘い」


「了解です」


そう言うと、彼女は出口に向かう。


でもドアの前で止まった。


振り返らないまま、少しだけ間を置いて。


「……あまり遅くなるな」


それだけ言って出ていく。


扉が閉まる。


静けさが戻る。


(今の、命令じゃないよな)


明らかに違うニュアンス。


“帰れ”じゃなくて、“心配”のほう。


⸻


翌日。


プレゼンは成功した。


クライアントの反応も良く、上司たちも納得していた。


会議室を出ると、廊下の端に彼女がいた。


腕を組んで壁にもたれている。


「……悪くなかったな」


それだけ。


でも、その言葉の後に少しだけ視線が逸れる。


「課長のおかげです」


「当然だ」


即答。


なのに、ほんのわずかに口元が緩んだ気がした。


(今、絶対ちょっと嬉しかっただろ)


そう思った瞬間、彼女は咳払いをする。


「次も同じクオリティを出せ」


「はい」


「調子に乗るなよ」


「乗ってません」


「ならいい」


会話が終わる。


なのに、なぜかその場を離れない。


沈黙が少し続いたあと。


彼女が、ぼそっと言った。


「……今日は、早く帰れ」


「え?」


「仕事は終わっただろ」


「課長は?」


「私はまだある」


当然のように言う。


でも、その目は少しだけ柔らかい。


「じゃあ、俺も残りますよ」


「必要ない」


即答。


ただ、その声はさっきより弱い。


「手伝います」


「いらないと言っている」


「でも一人より早いです」


「……」


沈黙。


そして彼女は、少しだけ視線をそらして言った。


「勝手にしろ」


(勝ちだな、これ)


内心でそう思う。


⸻


夜。


二人で並んで作業する時間は、不思議な静けさだった。


たまに指示が飛ぶ。

たまに修正が入る。

それだけ。


でも、距離はさっきより近い。


キーボードの音が重なるたびに、妙な安心感があった。


ふと、彼女が小さく呟く。


「……お前は」


「はい」


「疲れないのか」


一瞬、手が止まる。


「別に。これくらい普通です」


「そういう話じゃない」


視線は画面のまま。


でも、声は少しだけ柔らかい。


「人に合わせてばかりだと、潰れるぞ」


その言葉が、少しだけ胸に刺さる。


「課長もですか?」


「私は違う」


即答。


でもそのあと、小さく。


「……私は慣れている」


その“慣れている”が、なぜか重かった。


⸻


時計が21時を過ぎた頃。


彼女が立ち上がる。


「今日はここまでだ」


「了解です」


荷物をまとめながら、彼女は一瞬だけこちらを見る。


そしてすぐに視線を外す。


「……送らせる必要はない」


「言ってないですよ」


「ならいい」


即答。


でも、少しだけ間がある。


そして最後に。


「……気をつけて帰れ」


それだけ言って、先に歩いていく。


その背中を見ながら思う。


(この人、たぶん不器用すぎるだけだ)


そして、その不器用さに気づいてしまった時点で――


もう、戻れない気がした。

社内の飲み会は、いつも少しだけ面倒だ。


気を使う人間、気を使われる空気。

仕事とは別の疲れ方をする場所。


それでも今日は、参加しない理由がなかった。


「お前、今日の飲み会来るのか」


同僚に聞かれて、軽くうなずく。


「ああ、一応」


「珍しいな。いつも断るのに」


「たまにはね」


そう言いながら視線を上げると、少し離れたところにその人がいた。


橘 玲奈。


営業部の課長。

そして、相変わらず社内で一番近寄りがたい存在。


黒いスーツのまま、グラスだけ持って立っている。

笑顔はない。

でも、誰よりも場の中心に“なってしまう”人。


(あの人、こういう場ほんと似合わないのに)


そう思った瞬間、彼女と目が合った。


一瞬、止まる。


次の瞬間――


「……何を見ている」


いつもの冷たい声。


「いえ、課長も来るんだなって思って」


「仕事だ」


即答。


絶対違う。


⸻


乾杯が始まり、席がバラける。


気づけば、なぜか彼女の近くの席になっていた。


(これ、偶然か?)


隣の同僚がニヤニヤしているのが見える。


「お前、そこ座るんだな」


「たまたまだよ」


「へえ」


絶対信じてない顔だった。


⸻


乾杯のあと、しばらくは仕事の話。


その後、徐々に雑談に変わる。


そんな中、彼女はほとんど喋らない。


ただ、たまに必要なことだけ言う。


それが逆に目立つ。


「課長、意外とお酒いけるんですね」


誰かがそう言った瞬間。


彼女は一瞬だけ間を置いて。


「普通だ」


即答。


でもグラスはすでに三杯目。


(絶対普通じゃない)


⸻


その時だった。


同僚の一人が、冗談っぽく言った。


「課長ってさ、結構面倒見いいよな。○○くんとか特に」


その“○○くん”が俺だと気づくまで、時間はかからなかった。


「え、あいつ?」


「なんか課長、あいつには甘くない?」


空気が一瞬だけ変わる。


そして――


「……は?」


低い声。


一気に温度が下がる。


「別に甘くしてないが」


即答。


だが、その声はいつもより明らかに強い。


「いやいや、残業付き合ったりとか」


「業務だ」


「飲み会でも隣だし」


「偶然だ」


「それに――」


言いかけた同僚が、途中で止まる。


なぜなら、彼女の視線が一瞬だけ鋭くなったからだ。


(やばい)


空気が固まる。


⸻


沈黙。


そして彼女は、ゆっくりとグラスを置いた。


「……くだらない話をするな」


それだけ言って立ち上がる。


「課長?」


呼び止める声も無視して、少し離れた場所へ行く。


(……やりすぎたか)


そう思って席を立とうとした瞬間。


「おい」


後ろから声。


振り向くと、彼女がいた。


「少し来い」


短い命令。


拒否権はない。


⸻


店の外。


夜風が少し冷たい。


彼女は腕を組んだまま、しばらく黙っていた。


「……お前」


「はい」


「余計な誤解をされる行動をするな」


「誤解って、さっきの話ですか?」


「そうだ」


即答。


だが、その後が少し変だった。


「私は……そういうつもりではない」


(何の“そういう”だよ)


心の中で突っ込む。


「じゃあどういうつもりですか?」


「仕事だ」


「それだけ?」


「それ以外に何がある」


即答。


でも、その声は少しだけ弱い。


⸻


沈黙。


夜の街の音だけが流れる。


彼女は視線をそらしたまま、ぽつりと言った。


「……お前は、変に誤解されやすい」


「それ、俺のせいですか?」


「そうは言ってない」


即答。


でも間がある。


そして、さらに小さく。


「……そういう意味ではない」


(今の、絶対言い直したな)


⸻


少しの沈黙のあと、彼女が歩き出す。


「戻るぞ」


「はい」


並んで歩く。


少しだけ距離が近い。


いつもよりも。


「課長」


「なんだ」


「さっき、怒ってました?」


「怒ってない」


即答。


速すぎる。


「じゃあ、なんで外に?」


「……空気が悪かっただけだ」


(それ、嫉妬って言うんじゃないのか)


そう思ったけど、口には出さない。


⸻


店に戻る前。


彼女は少しだけ立ち止まった。


そして、視線をそらしたまま。


「……変な噂は、嫌いだ」


それだけ言って、先に歩く。


その背中を見ながら思う。


(この人、たぶん自覚ないだけだ)


そしてその“自覚のなさ”が、一番厄介だった。

雨は、タイミングを選ばない。


会社を出た瞬間に降り始めるのは、たいてい最悪のやつだ。


「……傘、ないのか」


背後から声がした。


振り向くと、そこにいたのはやっぱりこの人だった。


橘 玲奈。


いつものきっちりしたスーツ姿のまま、ビルの入口に立っている。

片手には折りたたみ傘。


「持ってないです。天気予報見てなかったので」


「社会人としてどうなんだ」


即答の小言。


でもその割に、彼女はすぐに動かなかった。


⸻


「……入れ」


そう言って、傘を少しだけこちらに傾ける。


「いいんですか?」


「濡れたいなら別だが」


いつも通りの冷たい言い方。


でも、距離は明らかに近い。


肩が少し触れそうで触れない、その絶妙な間。


(この人、こういうときだけ判断早いんだよな)


⸻


歩き出すと、雨音が一気に現実になる。


傘の内側は静かで、外とは別世界みたいだった。


「課長もこっち方面なんですか?」


「同じ方向だ」


即答。


(ほんとか?)


そう思ったが、わざわざ突っ込まない。


沈黙が続く。


けれど、不思議と気まずくはない。


⸻


「さっきの飲み会」


彼女が急に口を開いた。


「はい」


「……ああいう場で余計なことを言うな」


「俺は何も」


「周りが勝手に言う」


即答。


その言い方は、少しだけ尖っていた。


(まだ気にしてるのか)


そう思ったが、やっぱり口には出さない。


⸻


雨が少し強くなる。


傘がわずかに揺れる。


その瞬間、彼女の肩がほんの少しだけ近づいた。


「……すまない」


小さな声だった。


「え?」


「さっきの話だ」


即答のようで、即答じゃない。


(謝った?この人が?)


驚きすぎて言葉が出ない。


彼女は視線を前に向けたまま続ける。


「お前に非はない。だが、ああいう噂は面倒だ」


「別に気にしてないですけど」


「気にしろ」


即答。


理不尽だった。


⸻


少し歩くと、信号で止まる。


車の音と雨の音だけが混ざる。


そのとき、彼女が小さく息をついた。


「……お前は」


「はい」


「もう少し、自分の立ち位置を考えろ」


「どういう意味ですか」


「誤解される距離にいる」


(それ、今まさにじゃないか)


そう思う。


でも、彼女は続ける。


「周りは勝手に見る。だから面倒だ」


言い方は冷たい。


なのに、なぜか“守っている”ようにも聞こえた。


⸻


信号が青になる。


歩き出すと、傘の中の距離がほんの少しだけ縮む。


彼女は何も言わない。


でも、さっきより傘をこちら側に寄せている。


(これ、気づいてやってるのか?)


いや、たぶん違う。


無意識だ。


そのほうが、この人らしい。


⸻


「課長」


「なんだ」


「こういうの、慣れてるんですか?」


「何がだ」


「人と一緒に傘入るとか」


一瞬、返事が止まる。


「……必要がなかっただけだ」


即答。


でも、少しだけ間があった。


(それ、答えになってない)


⸻


マンションの近くまで来る。


彼女は立ち止まった。


「ここでいい」


「もう少し行きますよ」


「いい」


即答。


でも、傘はまだ閉じない。


少しだけ沈黙。


雨音が強くなる。


⸻


「課長」


「なんだ」


「さっきの謝罪、ちょっと意外でした」


「謝ってない」


即答。


(いや絶対謝っただろ)


「じゃあ今のは?」


「訂正だ」


即答。


無理がある。


⸻


彼女は少しだけ視線をそらす。


そして、ぼそっと言った。


「……お前は、気にしなさすぎる」


「そうですかね」


「そうだ」


即答。


でも、その声は少しだけ柔らかい。


⸻


傘を少し上げて、彼女は一歩下がる。


「風邪をひくな」


「課長も」


「私は平気だ」


即答。


(絶対平気じゃないやつ)


⸻


彼女はそのまま背を向ける。


少し歩いてから、振り返らずに言った。


「……次は傘を持て」


それだけ。


そして去っていく。


⸻


雨の中に残される。


でも、不思議と寒くなかった。


(距離はまだ遠いのに)


(たぶん、少しずつ近づいてる)


そう思った。

休日の街は、会社とは別世界だ。


同じ景色なのに、誰も“仕事用の顔”をしていない。


だからこそ――


「あ……」


思わず声が漏れた。


目の前にいたのは、完全に想定外の人物だった。


橘 玲奈。


ただし、いつもの彼女じゃない。


スーツではなく、淡い色のニットにロングスカート。

髪も少しだけ下ろされていて、仕事の鋭さがどこか薄れている。


(……誰だこれ)


本気で一瞬わからなかった。


⸻


「……何を見ている」


低い声。


その瞬間、確信する。


(あ、課長だ)


「すみません、休日だったので」


「休日でも顔はある」


即答。


相変わらずだ。


⸻


「課長も買い物ですか?」


「……そうだ」


間。


いつもの即答より、0.5秒遅い。


手には紙袋。


中身は見えないが、仕事用ではないのは明らかだった。


(絶対言いたくなさそうだな)


⸻


「珍しいですね、こういう格好」


「……普通だ」


即答。


でも少しだけ視線をそらす。


耳がほんのり赤い。


(分かりやすいんだよな、この人)


⸻


「誰かと一緒ですか?」


「一人だ」


即答。


そして少しだけ間。


「……悪いか」


「いや、意外だなって」


「意外とは何だ」


即答。


⸻


気まずいわけじゃないのに、妙に空気が静かだった。


仕事の話が一切ないせいだろう。


彼女もそれに慣れていないようだった。


⸻


「お前は何をしている」


「買い物です。あと散歩」


「暇なのか」


即答。


「休日ってそういうものでしょ」


「私は違う」


即答。


(絶対今、無理して予定入れてるタイプだろこれ)


⸻


歩き出すと、なぜか並んでしまう形になる。


意図はない。

なのに自然と横にいる。


「……こういう場所で会うとは思わなかった」


彼女がぽつりと言った。


「俺もです」


「嘘をつくな」


即答。


(なんでバレるんだよ)


⸻


しばらく歩く。


店のウィンドウに彼女が少しだけ映る。


いつもの“課長”じゃない姿。


なのに、どこかまだ“課長”のままだ。


⸻


「その服」


急に彼女が言う。


「どうですか?」


「……悪くはない」


即答。


褒めてるのかどうかギリギリのライン。


「ありがとうございます」


「礼を言うな」


即答。


(面倒くさいなこの人)


⸻


信号待ち。


人混みの中で、少しだけ距離が近くなる。


彼女がふと視線を落とした。


「……休日に会う必要はない」


「たまたまですよ」


「そういう偶然は多い」


即答。


(それ、気にしてるってことだよな)


⸻


「課長」


「なんだ」


「休日でも、あんまり変わらないですね」


「何がだ」


「雰囲気とか」


少し沈黙。


そして――


「……変える必要がない」


即答。


でも、その声は少しだけ柔らかかった。


⸻


歩きながら、彼女が小さく言う。


「お前は休日も騒がしいな」


「普通ですよ」


「普通ではない」


即答。


(それ、褒めてるのか?)


⸻


しばらくして、彼女は立ち止まる。


「ここでいい」


「家ですか?」


「そうだ」


即答。


そして少しだけ間。


「……見送らなくていい」


「じゃあここで」


⸻


彼女は少しだけ黙る。


そして、ほんの小さく。


「……変なところで会うな」


「嫌でした?」


「そうは言ってない」


即答。


でも、視線は少しだけ揺れていた。


⸻


「じゃあまた会社で」


「……ああ」


即答。


でも、すぐには歩き出さない。


数秒。


そして彼女は背を向ける。


⸻


歩き出す直前。


「……休日は、無理に予定を詰めるな」


それだけ言って、去っていく。


⸻


残された場所で思う。


(たぶんこの人、休日が一番不器用だ)


(でも、その不器用さは嫌いじゃない)

「……顔色、悪いな」


朝一番、その声で気づいた。


視界の端にいるのはいつもの人。


橘 玲奈。


ただ、今日は少しだけ違った。

声がいつもより低くて、観察する時間が長い。


「大丈夫です。ちょっと寝不足なだけで」


「それが問題だ」


即答。


(朝から飛ばすなこの人)


⸻


午前の会議は、地獄というほどではないが普通に長い。


資料、数字、修正指示。


途中で視界が少し揺れた。


(やばい、これ)


気合で持たせる。


⸻


会議終了後。


席に戻ろうとした瞬間、腕をつかまれた。


「おい」


低い声。


振り向くと、彼女の顔がすぐ近くにあった。


「……お前、顔色が悪い」


「大丈夫ですって」


「大丈夫の顔じゃない」


即答。


⸻


「少し休め」


「仕事残ってますよ」


「私がやる」


即答。


(え?)


⸻


「いや、それはさすがに」


「いいから行け」


強い声。


でも怒っているというより、焦っている。


⸻


気づけば、資料を半ば奪われるように取り上げられていた。


「課長、それは」


「お前は黙れ」


即答。


(久々に理不尽だな)


⸻


結局、休憩室に押し込まれる形になる。


ソファに座らされる。


「5分だけだ」


「短すぎません?」


「長くする必要はない」


即答。


⸻


ドアが閉まる。


静かになる。


数分後。


⸻


ガチャ。


ドアが少しだけ開く。


「……起きてるか」


「起きてます」


彼女は入ってこない。


入口に立ったまま。


⸻


「水」


「え?」


「持ってきた」


即答。


小さなペットボトル。


(持ってきてるのかよ)


⸻


受け取ると、彼女は視線をそらす。


「無理をするな」


「課長がそれ言うんですか」


「私は無理をしていない」


即答。


(説得力ゼロだな)


⸻


沈黙。


しばらくして、彼女が小さく言う。


「……お前は、倒れたら困る」


「業務的に?」


「そうだ」


即答。


でも間があった。


⸻


(絶対それだけじゃないだろ)


そう思うが、言わない。


⸻


「もう少し寝ろ」


「はいはい」


「はいは一回だ」


即答。


(細かい)


⸻


彼女は少しだけドアを閉めかけて、止まる。


そして――


「……勝手に倒れるな」


それだけ言って出ていった。


⸻


午後。


仕事に戻ると、机の上が少しだけ整っていた。


彼女がやったのは明らかだった。


メモまで付いている。


「優先順位:上から処理」


(めちゃくちゃ実務的だな)


⸻


夕方。


帰り際。


彼女が横に立つ。


「今日は帰れ」


「もう大丈夫ですよ」


「大丈夫と言うやつほど信用できない」


即答。


⸻


少し沈黙。


そして彼女は視線をそらしながら言う。


「……次からは、ちゃんと寝ろ」


「命令ですか?」


「命令だ」


即答。


でも声は少しだけ柔らかい。


⸻


エレベーター前。


彼女は先に背を向ける。


「……倒れられると困る」


小さく、それだけ。


そして振り返らずに去っていく。


⸻


残された場所で思う。


(この人、理由を全部“仕事”にするんだよな)


(でも、それが逆にわかりやすい)

夜のオフィスは、昼と同じ場所とは思えないほど静かだった。


蛍光灯の白さだけが変わらず残っていて、

それがかえって現実感を薄くしている。


「まだ残ってるのか」


その声は、静けさの中ではやけに響いた。


振り向くと、そこにいたのはやはりこの人だった。


橘 玲奈。


ジャケットを腕にかけたまま、資料を持って立っている。

表情はいつも通り無表情に近いが、目だけが少しだけ鋭い。


「課長こそ、まだいたんですね」


「確認が残っている」


即答。


(またそれか)


⸻


「お前もだろう」


「まあ、少しだけ」


そう答えると、彼女は当然のように隣の席に資料を置いた。


「見せろ」


「手伝うんですか?」


「違う。確認だ」


即答。


(それ、実質手伝いだろ)


⸻


二人で並んで画面を見る。


キーボードの音が静かに重なる。


いつもより距離が近い。


肩が触れるか触れないかの位置。


それなのに、不思議と緊張感はない。


⸻


「ここ」


彼女が画面を指す。


「数字、桁が違う」


「ほんとだ」


「気づけ」


即答。


(厳しい)


⸻


修正を終えると、彼女は少しだけ背もたれに寄りかかった。


「……遅い」


「手伝ってたじゃないですか」


「私は最初から気づいていた」


即答。


(なら言ってくれ)


⸻


沈黙。


しばらくして、彼女がぽつりと言う。


「お前は、詰めが甘い」


「よく言われます」


「直せ」


即答。


⸻


その言い方はいつも通り冷たい。


でも、今日は少し違った。


どこか“放っておけない”みたいな空気が混じっている。


⸻


「課長って、仕事以外でもそんな感じなんですか?」


「何がだ」


「全部チェックするところとか」


一瞬、止まる。


「……必要なだけだ」


即答。


でも少し間があった。


⸻


(やっぱり、仕事の癖なんだな)


そう思う。


⸻


時計を見ると、もう21時を過ぎていた。


「今日はここまでにしましょうか」


「まだ終わってない」


即答。


(出た)


⸻


「でも明日でも間に合いますよ」


「……」


彼女は黙る。


珍しい沈黙。


⸻


そして、少しだけ視線を外して言った。


「……お前が終わらせるなら、今日でいい」


「え?」


「私は構わない」


即答のようで、少しだけ遅い。


(それ、気遣いじゃないか?)


⸻


結局、作業は続く。


ただ、さっきより空気は少しだけ柔らかい。


⸻


深夜近く。


作業が終わる。


彼女は立ち上がる。


「帰るぞ」


「はい」


⸻


エレベーター。


二人だけの空間。


沈黙。


⸻


「……お前」


「はい」


「倒れるなよ」


即答。


⸻


「またですか」


「まただ」


即答。


(本気で心配してるなこれ)


⸻


エレベーターが止まる。


扉が開く。


彼女は先に出る。


でもすぐに立ち止まる。


⸻


「……今日は、悪くなかった」


小さくそう言う。


「何がですか」


「仕事だ」


即答。


⸻


(それ、たぶん違うやつだろ)


そう思う。


⸻


歩き出そうとしたとき、彼女が少しだけ振り返る。


「勘違いするな」


「何をですか」


「何もない」


即答。


⸻


なのに、その声はいつもより柔らかかった。


⸻


「……お前は、手がかかる」


「それ褒めてます?」


「違う」


即答。


⸻


そして少し間。


「……でも、使える」


(結局それか)


⸻


彼女はそのまま背を向ける。


「先に帰れ」


「課長は?」


「私はまだいい」


即答。


でも、少しだけ間。


⸻


その背中を見ながら思う。


(この人、距離を縮めるのが下手すぎる)


(でも、その分だけわかりやすい)

「その件、彼の判断で問題ない」


会議室に、はっきりとした声が落ちた。


空気が一瞬止まる。


視線の先にいるのは――橘 玲奈。


いつもの無表情。

いつもの冷静な口調。


だが今日は、明らかに違っていた。


「ですが課長、それは責任的に――」


「私が引き受ける」


即答だった。


議論を切るような、強い声。


⸻


会議が終わったあと、廊下は妙に静かだった。


「……課長」


声をかけると、彼女は足を止めた。


「なんだ」


「さっきの、あれ……大丈夫なんですか」


「何がだ」


即答。


(やっぱりそうなるか)


⸻


「俺の判断って言ってましたけど」


「事実だ」


即答。


「でも、リスクは」


「私が負う」


さらに即答。


⸻


少しだけ沈黙。


彼女は視線をそらしたまま言う。


「お前の判断は、間違っていない」


「……珍しいですね、そういう言い方」


「事実だと言っている」


即答。


⸻


その言葉は、いつもより重かった。


守る、というより――信じている側の言い方だった。


⸻


「課長って、たまに無茶しますよね」


「無茶ではない」


即答。


「いや、今のは普通に」


「必要なだけだ」


さらに即答。


⸻


(この人、自分のことになると全部正当化するんだよな)


そう思いながらも、なぜか引っかかる。


⸻


「でも、さっきのは……俺のためですよね」


言った瞬間、空気が止まった。


彼女の足がほんの少しだけ止まる。


⸻


「違う」


即答。


速い。


早すぎる。


⸻


だが、そのあと少し間があった。


「……組織のためだ」


声がわずかに低い。


⸻


(今の間、何だ)


⸻


「そういうことにしておきます」


軽く返す。


「そうしろ」


即答。


⸻


でも、彼女はそれ以上歩き出さない。


⸻


「課長」


「なんだ」


「怒ってます?」


「怒っていない」


即答。


⸻


さらに沈黙。


そして彼女は少しだけ視線を落としたまま言う。


「……お前は、余計なことを考えるな」


「考えますよ、普通に」


「考えるな」


即答。


⸻


(それは無理だろ)


⸻


その夜。


トラブル対応で残業が続く。


気づけば、また二人だけのオフィスだった。


⸻


「ここ」


彼女が資料を指す。


「判断は間違っていない。だが詰めが甘い」


「またそれですか」


「まただ」


即答。


⸻


でもその言い方は、どこか柔らかい。


⸻


時計は22時を過ぎる。


「今日は終わりにしましょう」


「まだだ」


即答。


(出た)


⸻


「課長」


「なんだ」


「無理してません?」


一瞬、止まる。


⸻


「していない」


即答。


でも、声が少しだけ遅れた。


⸻


沈黙。


そして彼女は小さく息を吐く。


「……お前は本当に面倒だな」


「それ、褒めてます?」


「違う」


即答。


⸻


それでも、彼女は席を立たない。


⸻


しばらくして、ぽつりと言う。


「……お前がいないと、進まない」


「え?」


「仕事だ」


即答。


⸻


(絶対それだけじゃないやつだろ)


⸻


帰り道。


エレベーターの中。


彼女は少しだけ壁にもたれる。


「今日は終わりだ」


「珍しいですね」


「効率の問題だ」


即答。


⸻


でもその声は、いつもより静かだった。


⸻


扉が開く直前。


彼女が小さく言う。


「……お前は、変に真面目だ」


「課長ほどじゃないですよ」


「私は違う」


即答。


⸻


そして一拍。


「……違わない」


小さくそう言って、先に出ていく。


⸻


残された空間で思う。


(今のは、絶対“自覚してない本音”だ)

朝から嫌な予感はしていた。


頭が重い。

喉が少し痛い。

でも仕事は止まらない。


(まあ、気のせいだろ)


そう思って会社に来たのが間違いだった。


⸻


午前の会議中。


視界が一瞬だけ揺れた。


次の瞬間――


「おい」


低い声が飛んだ。


はっと顔を上げると、目の前にいるのは橘 玲奈。


いつもより近い距離。


「顔色が悪い」


「大丈夫です」


即答する。


「大丈夫の顔じゃない」


即答で返される。


⸻


「ちょっと休め」


「いや、これくらい」


「これくらいじゃない」


即答。


⸻


彼女は一歩近づく。


その瞬間、空気が変わった。


「立てるか」


「立てますよ」


「嘘をつくな」


即答。


⸻


(なんでバレるんだこの人)


⸻


結局、腕をつかまれる。


強い力じゃない。

でも拒否できない強さ。


「休憩室だ」


「課長、まだ会議中――」


「黙れ」


即答。


⸻


休憩室。


ソファに座らされる。


「水」


「持ってきますよ」


「いいから座れ」


即答。


⸻


しばらくして、ドアが開く。


彼女が入ってくる。


手にはペットボトルとタオル。


(……いや、準備しすぎじゃないか)


⸻


「飲め」


「ありがとうございます」


彼女は隣には座らない。


少し距離を取ったまま立っている。


⸻


「熱は」


「多分ないです」


「測れ」


即答。


体温計を渡される。


⸻


ピッ。


「……あるな」


「何度です?」


「黙ってろ」


即答。


⸻


(なんで怒られるんだ)


⸻


「今日は帰れ」


「でも仕事が」


「私がやる」


即答。


⸻


「それはさすがに」


「お前は邪魔だ」


即答。


(言い方)


⸻


でも、その声はいつもより少しだけ焦っている。


⸻


「課長」


「なんだ」


「そんなに怒ることじゃ――」


「怒ってない」


即答。


⸻


沈黙。


そして少しだけ視線をそらして。


「……倒れられると困る」


小さく言った。


⸻


(またそれか)


⸻


「仕事的にですか?」


「そうだ」


即答。


でも間があった。


⸻


午後。


気づくとデスクは片付いていた。


代わりにメモ。


『今日は帰れ』


短い命令。


⸻


(この人、全部仕事にするんだよな)


⸻


夕方。


帰ろうとすると、背後から声。


「待て」


振り返ると彼女。


⸻


「送る」


「え?」


「勘違いするな。状態確認だ」


即答。


⸻


(いやそれもう完全に――)


⸻


帰り道。


彼女は傘を持っていないのに隣を歩く。


少しだけ距離が近い。


⸻


「熱は?」


「もう大丈夫です」


「嘘だな」


即答。


⸻


「なんでそう思うんですか」


「顔」


即答。


⸻


(便利すぎるだろその判断)


⸻


信号で止まる。


彼女が少しだけ言う。


「……無理をするな」


「課長もですよ」


「私は無理をしていない」


即答。


⸻


(絶対してる)


⸻


マンション前。


「ここでいい」


「ありがとうございました」


彼女はすぐに背を向けない。


⸻


少しだけ沈黙。


そして――


「……次は、最初に報告しろ」


「何をですか」


「体調」


即答。


⸻


(それ、ただの心配だろ)


⸻


彼女は歩き出す。


でも数歩後、少しだけ止まる。


振り返らずに言う。


「……倒れたら許さない」


⸻


そして去る。


⸻


残された場所で思う。


(この人、もう完全に“関係者”になってるのに気づいてない)

夜の会議室は、昼間よりずっと静かだ。


空調の音だけが淡く響いて、

人の気配はもうほとんどない。


「まだいたのか」


その声に振り向くと、そこにいた。


橘 玲奈。


いつも通りの姿。

いつも通りの冷たい視線。


……のはずなのに、今日は少し違う。


息がわずかに乱れている。


⸻


「課長こそ」


「私は残務処理だ」


即答。


(またそれか)


⸻


「お前もだろう」


「まあ、少しだけ」


そう言って画面に向き直る。


しばらく、キーボードの音だけが続く。


⸻


数分後。


「……おい」


「はい」


「まだ終わらないのか」


「もう少しです」


「遅い」


即答。


⸻


(いつも通りだな)


そう思った、そのときだった。


⸻


「……今日」


彼女がぽつりと言う。


「はい」


「昼の件」


一瞬、止まる。


⸻


昼の件。


それは――体調不良で倒れかけた日のこと。


⸻


「もう大丈夫ですよ」


「そういう話じゃない」


即答。


⸻


沈黙。


彼女は視線を落としたまま言う。


「……無理をするなと言った」


「してません」


「していた」


即答。


⸻


(この人、こういう時だけ記憶力いいな)


⸻


しばらく黙ったあと、彼女は小さく息を吐く。


「……お前は」


「はい」


「自分のことを軽く扱いすぎる」


⸻


声が、少しだけ低い。


いつもの“命令口調”じゃない。


⸻


「課長もですよ」


「私は違う」


即答。


(出た)


⸻


だが今回は、すぐに続かなかった。


彼女は少しだけ視線を逸らす。


⸻


「……違わない」


小さく、そう言った。


⸻


(今の、何だ)


⸻


空気が変わる。


いつもの“上司と部下”の距離じゃない。


⸻


「課長」


「なんだ」


「今日、怒ってます?」


「怒っていない」


即答。


でも、間がある。


⸻


「じゃあ、なんでそんな顔してるんですか」


⸻


一瞬、止まる。


彼女の指がわずかに止まる。


⸻


「……関係ない」


即答。


⸻


(いや、関係あるやつだろ)


⸻


沈黙。


そして彼女は、少しだけ声を落とす。


「……お前が倒れるのは、困る」


⸻


またその言葉。


でも今日は違う。


“仕事だから”が付いていない。


⸻


「課長」


「なんだ」


「それ、仕事ですか?」


⸻


一瞬、空気が止まる。


⸻


「……違う」


即答じゃなかった。


⸻


沈黙が落ちる。


彼女は視線をそらしたまま続ける。


「だが、業務に支障が出る」


⸻


(まだそこに戻すのか)


⸻


「じゃあ聞きますけど」


「なんだ」


「俺がいなくなったら困ります?」


⸻


言った瞬間、空気が完全に止まった。


⸻


彼女の視線が、初めてこちらに向く。


鋭い。


でも、どこか揺れている。


⸻


「……困る」


⸻


即答じゃなかった。


⸻


その一言のあと、少し沈黙。


そして彼女は、いつもの声に戻そうとする。


「業務が回らない」


⸻


でも、遅い。


⸻


(今のは、もう誤魔化せてない)


⸻


「課長」


「なんだ」


「それだけですか」


⸻


彼女は立ち上がる。


一歩近づく。


⸻


「それ以上の意味を求めるな」


即答。


でも、声が少しだけ震えている。


⸻


(否定になってない)


⸻


沈黙。


近い距離。


息が聞こえるほどの距離。


⸻


「……お前は」


彼女が言う。


「余計なことを考えすぎる」


⸻


「それ、課長のせいですよ」


⸻


一瞬、止まる。


⸻


「……違う」


即答。


でも、もう弱い。


⸻


彼女は視線をそらす。


そして小さく。


「……今日は帰れ」


⸻


「一緒に帰りましょうか」


⸻


その瞬間。


彼女の目が揺れる。


⸻


「……命令だ」


即答。


⸻


でも、もう逃げの言葉だ。


⸻


沈黙。


そして彼女は背を向ける。


⸻


「……次は」


小さく。


「無理をするな」


⸻


そして出ていく。


⸻


残された部屋で思う。


(もうこの人、“仕事”じゃごまかせてない)

翌朝のオフィスは、いつもより少しだけ騒がしかった。


理由は単純だ。

“昨日の夜の残業組”が話題になっている。


「なあ、お前さ」


同僚がひそひそ声で寄ってくる。


「昨日、課長とまた残ってたろ」


「まあ……たまたまな」


「たまたまにしては多くない?」


(来たな)


⸻


視線の先には、変わらずいつもの席。


橘 玲奈。


何も知らない顔で資料を見ている。

いつも通りの冷静な表情。


ただ、空気は少し違う。


彼女の周囲だけ、微妙にピリついている。


⸻


「課長、昨日さ」


別の同僚が軽く声をかける。


「遅くまで大変でしたね」


「業務だ」


即答。


(出た)


⸻


だが、そのあとが妙だった。


一瞬、視線がこちらに流れる。


ほんの一瞬だけ。


⸻


「……それだけだ」


彼女はそう付け足す。


でも、その“間”を見逃すほど周りは鈍くない。


⸻


昼休み。


「なあ」


同僚が笑いながら言う。


「お前、課長に気に入られてるよな」


「そんなわけないだろ」


「いや、だってさ」


「残業、毎回一緒じゃん」


「それ仕事」


「休日会ってたって聞いたぞ」


(誰だそれ言ったやつ)


⸻


胸の奥が少しだけ重くなる。


誤解。

いや、半分は事実。


でも“そういう意味”じゃない。


⸻


午後。


コピー機前。


「おい」


背後から声。


振り向くと彼女。


⸻


「これ」


資料を渡される。


「修正」


「はい」


⸻


彼女は一歩だけ近づく。


そして低い声。


「……余計な話をするな」


「何の話ですか」


「分かっているだろう」


即答。


⸻


(全部見えてるんだな、この人)


⸻


「別に、気にしてないです」


「嘘だ」


即答。


⸻


少し沈黙。


彼女は視線をそらしたまま続ける。


「……周りの言葉に流されるな」


⸻


それは命令というより、少しだけ違う響きだった。


⸻


「課長はどうなんですか」


「何がだ」


「気にしてます?」


一瞬止まる。


⸻


「気にしていない」


即答。


⸻


でも、そのあと。


ほんの少しだけ間が空いた。


⸻


「……業務以外は」


⸻


(それ、答えになってない)


⸻


夕方。


また残業が始まる。


周囲はほとんど帰っている。


二人だけが残る。


⸻


「またか」


彼女が言う。


「またですね」


「無駄だ」


即答。


⸻


「課長こそ帰ればいいのに」


「終わっていない」


即答。


⸻


沈黙。


キーボード音だけが響く。


⸻


ふと、彼女がぽつりと言う。


「……お前は、目立ちすぎる」


「俺がですか?」


「そうだ」


即答。


⸻


「課長の方じゃなくて?」


⸻


一瞬、止まる。


彼女は視線を画面に戻す。


⸻


「……私は関係ない」


即答。


⸻


(いや一番関係ある人だろ)


⸻


しばらくして。


彼女が小さく言う。


「……誤解は、面倒だ」


「俺もです」


「なら距離を取れ」


即答。


⸻


その言葉は、いつも通り冷たい。


なのに。


なぜか少しだけ“迷い”が混じっていた。


⸻


(本当はそれ、できないって分かってるくせに)


⸻


夜。


帰り際。


エレベーター前。


彼女は背を向けたまま言う。


「……明日は早く来い」


「命令ですか?」


「命令だ」


即答。


⸻


でも一拍置いて。


「……遅れるな」


⸻


それだけ言って歩き出す。


⸻


残された場所で思う。


(もうこの関係、“ただの仕事”じゃないのは誰が見ても分かる段階だな)


(あとは本人だけだ)

その日は、最初から少しだけおかしかった。


午後の急なトラブル対応。

資料の不備。

会議の延長。


気づけば、夜だった。


そして――


停電。


⸻


「……最悪だな」


暗くなったオフィスで、誰かが呟く。


非常灯だけがぼんやり光る。


その中心にいるのは、いつも通り冷静な人。


橘 玲奈。


「落ち着け。非常電源はすぐ戻る」


即答。


(こういう時だけ声が安定してるのはさすがだな)


⸻


だが、通信トラブルで帰宅指示も出せないまま、社員は散り散りになる。


気づけば、オフィスに残ったのは数人。


そして――


なぜか二人だけになっていた。


⸻


「お前も残ってたのか」


「たまたまです」


「嘘だな」


即答。


⸻


彼女は非常灯の下で資料をまとめている。


いつもより影が濃い。


距離も、いつもより近い。


⸻


「電車、止まってるらしい」


同僚からの連絡。


「……帰れないな」


誰かが言う。


⸻


沈黙。


そして、自然と解散。


残されたのは――またしても二人。


⸻


「最悪ですね」


「想定内だ」


即答。


(想定してたなら先に帰れよ)


⸻


外に出ると、雨が降っていた。


さっきまで降っていなかったはずなのに。


⸻


「傘は」


「ないです」


「またか」


即答。


⸻


彼女はため息をつき、ビルの入口で立ち止まる。


そして――


無言で傘を開いた。


⸻


「入れ」


「いいんですか?」


「濡れる方が非効率だ」


即答。


(もう理由が雑だな)


⸻


傘の中。


距離が近い。


いや、近すぎる。


肩が完全に触れている。


⸻


歩き出すと、雨音がやけに大きい。


沈黙が長い。


⸻


「……お前」


彼女が言う。


「はい」


「今日は、やけに騒がしいな」


「俺ですか?」


「そうだ」


即答。


⸻


「停電のせいですよ」


「違う」


即答。


⸻


少し間。


そして彼女は続ける。


「……周りが」


⸻


その言葉は途中で止まる。


⸻


(周り?)


⸻


「課長」


「なんだ」


「気にしてます?」


⸻


一瞬、止まる。


雨の音だけが強くなる。


⸻


「気にしていない」


即答。


だが、いつもより遅い。


⸻


(またそれか)


⸻


「じゃあなんで、さっきから黙ってるんですか」


⸻


彼女は少しだけ視線を落とす。


⸻


「……関係ない」


即答。


⸻


でも、声が揺れている。


⸻


歩く速度が少しだけ遅くなる。


傘の中の距離がさらに近づく。


⸻


「課長」


「なんだ」


「俺のこと、どう思ってるんですか」


⸻


空気が止まった。


⸻


彼女の足が完全に止まる。


⸻


「……質問の意味が分からない」


即答。


⸻


(いや、分かってる顔だろそれ)


⸻


沈黙。


雨が強くなる。


⸻


彼女は視線をそらしたまま言う。


「……部下だ」


⸻


即答。


でも、そのあと続かなかった。


⸻


数秒。


そして、小さく。


「……厄介な部下だ」


⸻


(それ、もうほぼ感情じゃないか)


⸻


「じゃあ」


「なんだ」


⸻


「厄介なのに、なんで助けるんですか」


⸻


一瞬、息が止まる。


⸻


彼女は視線を上げる。


雨の中で、目だけがやけに真っすぐだった。


⸻


「……仕事だからだ」


即答。


⸻


でも、その声は震えていた。


⸻


(もう無理がある)


⸻


マンション前。


傘が止まる。


⸻


「ここでいい」


「はい」


⸻


彼女はすぐに離れない。


少しだけ沈黙。


⸻


そして――


「……倒れるな」


小さく言う。


⸻


「倒れませんよ」


⸻


彼女は一瞬だけこちらを見る。


そして視線をそらす。


⸻


「……ならいい」


即答。


⸻


でも、動かない。


⸻


数秒後。


彼女は小さく息を吐く。


⸻


「……お前は」


「はい」


⸻


「距離感がおかしい」


⸻


「それ、課長の方ですよ」


⸻


一瞬止まる。


⸻


「違う」


即答。


⸻


でも、もう説得力はなかった。


⸻


彼女は背を向ける。


⸻


「……次は傘を忘れるな」


それだけ言って歩き出す。


⸻


でも数歩後。


ほんの小さく。


⸻


「……風邪をひくな」


⸻


そして消えていく。


⸻


残された場所で思う。


(この人、もう完全に“気持ち”で動いてるのに、それを“仕事”に変換してるだけだ)

翌朝のオフィスは、妙に静かだった。


というより――静かすぎる。


視線が刺さる。

会話が一瞬止まる。

そしてすぐ再開する。


(ああ、これだな)


昨日の停電と雨の帰宅が、もう噂になっている。


⸻


「おい」


同僚が小声で寄ってくる。


「お前さ……昨日も課長と一緒だったってマジ?」


「仕事だよ」


「いやそれ毎回言うじゃん」


(言うしかないだろ)


⸻


視線の先にいるのは、いつもの席。


橘 玲奈。


ただ、今日は明らかに違う。


周囲が“距離”を測っている。


⸻


「課長、昨日の件ですが」


誰かが話しかける。


「問題ない」


即答。


いつも通りの冷たい声。


でも――


そのあと、ほんの一瞬だけこちらを見る。


⸻


(やっぱり、意識してる)


⸻


午前の会議。


空気はさらに重い。


議題はトラブル対応の責任分担。


その中で一人が言う。


「今回の件、彼の判断に依存しすぎでは?」


空気が止まる。


⸻


その瞬間だった。


「異論があるなら私が聞く」


彼女の声。


低く、はっきりしている。


⸻


全員が黙る。


⸻


「責任は私が取る」


即答。


⸻


(まただ)


⸻


会議終了後。


廊下。


彼女が歩いているのを見つける。


「課長」


「なんだ」


⸻


「さっきの、やりすぎじゃないですか」


「どこがだ」


即答。


⸻


「全部ですよ」


「事実を言っただけだ」


即答。


⸻


少し沈黙。


彼女は視線をそらす。


⸻


「……問題はない」


小さく言う。


⸻


(いや、問題しかないだろ)


⸻


昼休み。


食堂。


また視線が集まる。


理由は単純だ。


“距離が近い”


⸻


彼女はいつもの席に座る。


そして当然のように言う。


「座れ」


「命令ですか?」


「そうだ」


即答。


⸻


(もはや隠す気ないな)


⸻


食事中。


誰かが遠くで言う。


「やっぱあの二人さ……」


その瞬間。


彼女の箸が止まる。


⸻


空気が一瞬だけ変わる。


⸻


「何か言ったか」


低い声。


⸻


沈黙。


⸻


誰も返せない。


⸻


(あ、完全に守りに入ってる)


⸻


午後。


コピー機前。


「……お前」


彼女が言う。


「はい」


⸻


「余計なことをするな」


「何のことですか」


⸻


「分かっているだろう」


即答。


⸻


(もう全部バレてる前提だな)


⸻


夕方。


ついに決定的な一言が落ちる。


会議後、役員の一人が軽く言う。


「橘課長、随分信頼している部下がいるようで」


一瞬の間。


⸻


そして彼女は答える。


「信頼している」


即答。


⸻


(え)


⸻


その場が固まる。


⸻


役員が続ける。


「それは業務上の話ですか?」


⸻


彼女は一度だけ間を置く。


そして――


「業務上の話だ」


即答。


⸻


でも、そのあと。


ほんの少しだけ視線が揺れた。


⸻


(今の間、絶対“それ以上”だった)


⸻


会議終了後。


廊下。


「課長」


「なんだ」


⸻


「さっきの、言い切りましたね」


「事実だ」


即答。


⸻


「でも周り、誤解してますよ」


⸻


彼女は立ち止まる。


そして一言。


「……構わない」


⸻


(え?)


⸻


彼女は歩き出す。


⸻


「誤解されるなら、それでもいい」


小さくそう言う。


⸻


その背中を見ながら思う。


(この人、もう“隠す側”をやめてる)


⸻


夜。


オフィスはほぼ無人。


二人だけ。


⸻


「課長」


「なんだ」


⸻


「もう、バレてますよ」


⸻


彼女は少しだけ黙る。


そして――


「……そうだな」


即答じゃない。


⸻


(認めた)


⸻


沈黙。


⸻


彼女は視線をそらしたまま言う。


「……だが、仕事に支障はない」


⸻


「それ本音ですか?」


⸻


一瞬止まる。


⸻


「……本音だ」


即答。


でも遅い。


⸻


(いや、絶対違う)


⸻


エレベーター前。


彼女は背を向ける。


そして小さく。


「……お前は、お前のままでいろ」


⸻


「それ、どういう意味ですか」


⸻


「そのままだ」


即答。


⸻


そして去っていく。


⸻


残された場所で思う。


(この人、もう“関係”を否定してない)


(ただ言葉にできてないだけだ)

夜のオフィスは、もうほとんど息をしていなかった。


電気は落ち、非常灯だけが淡く壁を照らしている。

キーボードの音も止まっている。


残っているのは、たった二人だけ。


橘 玲奈。


そして――俺。


⸻


「まだいたのか」


その声は、いつも通り冷たいはずだった。


でも、今日は違った。


少しだけ、掠れている。


⸻


「課長こそ」


「私は確認だ」


即答。


(もうその言い訳も聞き慣れたな)


⸻


しばらく沈黙。


画面の光だけが二人の間を照らしている。


⸻


「……お前」


彼女が言う。


「はい」


⸻


「今日の件」


一瞬、止まる。


⸻


「もう、周りは知っている」


⸻


その言葉は、やけに静かだった。


⸻


「知ってるって、何をですか」


「私とお前のことだ」


即答。


⸻


(とうとうそこまで言ったか)


⸻


「それ、どういう意味で?」


⸻


彼女はキーボードから手を離す。


ゆっくりと、こちらを見る。


⸻


「誤解されているという意味だ」


即答。


⸻


でも、その目は揺れている。


⸻


「課長は、その誤解、どう思ってるんですか」


⸻


沈黙。


長い。


⸻


彼女は一度視線を落とし、そして――


「……否定するべきだろうな」


即答。


⸻


(“べき”か)


⸻


「じゃあ、なんで否定しないんですか」


⸻


その瞬間。


空気が変わる。


⸻


彼女の指が止まる。


呼吸が少しだけ乱れる。


⸻


「……それは」


⸻


初めて、即答じゃない。


⸻


「……仕事に関係ない」


小さく言う。


⸻


(逃げた)


⸻


「課長」


「なんだ」


⸻


「もう仕事じゃないですよね」


⸻


沈黙。


⸻


彼女は立ち上がる。


そして、一歩だけ近づく。


⸻


距離が、もう逃げられないほど近い。


⸻


「……お前は」


彼女が言う。


「分かっていて聞いているだろう」


⸻


「はい」


⸻


その瞬間、彼女の呼吸が止まる。


⸻


「……性格が悪いな」


即答。


でも、弱い。


⸻


(もう限界だな、この人)


⸻


「課長」


「なんだ」


⸻


「俺のこと、どう思ってますか」


⸻


完全に静止。


⸻


時間が止まったような沈黙。


⸻


彼女は一度目を閉じる。


そして――


開く。


⸻


「……厄介だ」


即答。


⸻


「それ、前にも聞きました」


⸻


「変わらない」


即答。


⸻


でも、そのあと。


⸻


「……でも」


⸻


初めて言葉が続かない。


⸻


彼女は視線をそらす。


そして、小さく。


⸻


「……いないと困る」


⸻


(今のはもう、仕事じゃない)


⸻


「課長」


⸻


「なんだ」


⸻


「それ、俺に言ってます?」


⸻


彼女はすぐに否定しない。


⸻


数秒。


そして――


「……そうだ」


⸻


即答じゃなかった。


⸻


沈黙。


⸻


彼女はゆっくりと息を吐く。


⸻


「……お前は」


「はい」


⸻


「距離感がおかしい」


⸻


「それはもういいです」


⸻


少しだけ、空気が緩む。


⸻


彼女は視線を落としたまま言う。


「……ずっとだ」


⸻


(ずっと、か)


⸻


「課長」


「なんだ」


⸻


「それ、もう仕事の話じゃないですよね」


⸻


沈黙。


⸻


そして彼女は――


ほんの少しだけ笑った。


⸻


「……ようやく気づいたか」


⸻


その瞬間。


全ての“仕事”が剥がれる。


⸻


静かな夜。


二人だけの空間。


⸻


彼女はゆっくりと視線を上げる。


⸻


「……お前は、どう思っている」


⸻


返す番。


⸻


でも――もう迷いはなかった。


⸻


「好きですよ」


⸻


一瞬。


空気が完全に止まる。


⸻


彼女の目が揺れる。


呼吸が止まる。


⸻


そして――


「……そうか」


小さく。


⸻


即答じゃない。


⸻


彼女は視線をそらしながら、ぽつりと。


⸻


「……遅い」


⸻


(それ、肯定だろ)


⸻


沈黙。


⸻


彼女は少しだけ近づく。


でも触れない距離で止まる。


⸻


「……仕事は終わったな」


小さく言う。


⸻


「そうですね」


⸻


そして、少しだけ間。


⸻


「……明日から」


彼女が言う。


「誤解は、誤解ではなくなる」


⸻


(それ、もう宣言だろ)


⸻


夜のオフィスで。


二人の距離だけが、やっと“名前を持つ”ものになった。


あれから、世界は少しだけ変わった。


いや、変わったのは世界じゃない。


彼女だ。


橘 玲奈。


⸻


朝のオフィス。


「おはようございます」


「……ああ」


それだけのやり取り。


なのに、もう以前のような“距離”はない。


⸻


「課長、これ確認お願いします」


「呼び方」


即答。


「え?」


彼女は少しだけ視線を逸らして言う。


「……その呼び方は、やめろ」


⸻


(まだ慣れてないんだな)


⸻


「じゃあ、どう呼べばいいですか」


「……名前でいい」


即答。


でも、そのあと少し間があった。


⸻


「玲奈さん」


一瞬、止まる。


⸻


「……仕事中だ」


即答。


(絶対今照れた)


⸻


昼休み。


社員食堂。


視線はまだ少し集まる。


でも、もう以前のような“誤解”ではない。


半分は確信だ。


⸻


「おい」


同僚が小声で言う。


「もう隠してないよな、あれ」


「まあな」


「すげえな、課長相手とか」


(いや“課長”じゃないけどな)


⸻


視線の先では。


彼女が普通に隣に座っている。


当然のように。


⸻


「これ」


「はい?」


「食べろ」


即答。


サラダを差し出してくる。


⸻


「課長、それ俺の皿ですけど」


「関係ない」


即答。


(もう理屈すら捨てたな)


⸻


午後。


会議室。


「橘さん」


役員が言う。


「最近、雰囲気が柔らかくなりましたね」


一瞬の沈黙。


⸻


「……業務には関係ありません」


即答。


でも、そのあと視線がほんの少しこちらに動く。


⸻


(バレてるバレてる)


⸻


夕方。


帰り際。


「今日も残業ですか?」


「必要ならな」


即答。


⸻


「じゃあ手伝います」


「勝手にしろ」


即答。


(もう完全に“いつものやつ”だな)


⸻


夜。


オフィス。


静か。


二人だけ。


⸻


「お前」


「はい」


⸻


「無理をするな」


即答。


⸻


「それ、毎回言いますね」


「毎回だ」


即答。


⸻


沈黙。


⸻


そして彼女は少しだけ視線をそらす。


⸻


「……いないと困る」


⸻


今度はもう、迷いがない。


⸻


「玲奈さん」


「なんだ」


⸻


「それ、仕事ですか?」


⸻


一瞬だけ止まる。


そして――


⸻


「……違う」


即答。


⸻


(やっと言ったな)


⸻


彼女は少しだけ息を吐く。


そして、ほんの小さく。


⸻


「……お前は、本当に面倒だ」


⸻


「今さらですね」


⸻


「ずっとだ」


即答。


⸻


でもその声は、もう冷たくない。


⸻


夜の帰り道。


並んで歩く。


距離はもう、空いていない。


⸻


「寒くないですか?」


「平気だ」


即答。


でも、少しだけこちらに寄る。


⸻


(いや寄ってるだろそれ)


⸻


「玲奈さん」


「……なんだ」


⸻


「名前、呼ぶの慣れてきました?」


⸻


沈黙。


⸻


そして、視線をそらして。


⸻


「……まだだ」


即答。


⸻


(絶対嘘だ)


⸻


少し歩いてから、彼女が小さく言う。


⸻


「……でも、悪くない」


⸻


夜風の中。


その一言だけで、十分だった。

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