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心の距離と現実の距離は一致しない

作者: 恭弥
掲載日:2026/05/17

会社のエレベーターは、いつも少しだけ息苦しい。


理由は空調じゃない。たぶん、目の前にいる人のせいだ。


「……遅い」


低くて、よく通る声。

視線を上げると、そこには腕を組んだままこちらを見下ろす女性がいた。


たちばな 玲奈れいな

営業部の課長。

そして、俺の直属の上司。


黒髪は肩で切り揃えられていて、仕事中は一切崩れない。

整った顔立ちは綺麗というより“鋭い”。

社内では「氷の女王」なんて陰で呼ばれている。


ただ――その評価は、半分しか当たっていない。


「すみません、資料の印刷に手間取って……」


「言い訳はいい。時間は守って」


ピシャリと切られる声。

だけど、その直後にほんの一瞬だけ、視線が横に逸れた。


それを俺は見逃さない。


(まただ)


怒っているようで、ほんの少しだけ困っている顔。

この人は、感情を隠すのが下手だ。


エレベーターが上階に向かって動き出す。

沈黙が降りる。


「……昨日の件」


不意に、彼女が口を開いた。


「クライアントへのメール、修正したのはお前か」


「はい。課長の案、少しだけ言い回しを柔らかくしました」


「勝手なことをするなと言ったはずだが」


怒っているはずの声。

でも、なぜか少しだけトーンが軽い。


「結果的に通ったんで問題ないかと」


「……たまたまだ」


即答だった。


エレベーターが止まり、扉が開く。


彼女は先に出て、数歩進んでから振り返らずに言った。


「次からは、報告してからやれ」


それだけ言って歩いていく。


だが、その背中がほんの少しだけ速いのを、俺は知っている。


(機嫌、悪くないな)


そう思った瞬間、少しだけ笑ってしまった。



営業部の朝は早い。


電話、メール、会議資料。

誰かが常に走っているような空気。


その中心に、彼女はいる。


「午前の会議、資料は全部揃えたか」


「はい。チェック済みです」


「……一応な」


一応、という言葉が余計だ。

ただ、その言い方には妙な“信頼の裏返し”が混ざっている。


しばらくして、同僚が小声で耳打ちしてくる。


「お前、課長に目つけられてるのか愛されてるのかどっちだよ」


「どっちだと思う?」


「怖くて聞けるか」


確かに、普通なら怖い上司だろう。

感情をほとんど表に出さないし、ミスには厳しい。


でも。


(たぶん、この人は不器用なだけだ)


ふと視線を上げると、玲奈課長と目が合う。


一瞬、固まる。


次の瞬間。


「……何をぼーっとしてる」


冷たい声。


なのに――ほんのわずか、耳が赤い気がした。


(気のせいじゃないよな、今の)


視線をそらす彼女の動きが、いつもより速い。


そしてそのまま、資料を強く机に置いた。


「午後の準備、遅れるな」


「はい」


短いやり取り。


なのに、なぜか胸の奥が少しだけ落ち着かない。



昼休み。


社内の休憩スペースでコーヒーを飲んでいると、背後から声がした。


「そこ、空いてるか」


振り返ると、彼女だった。


思わず少し固まる。


「どうぞ」


「……別に、隣じゃなくてもいいが」


そう言いながら、普通に隣に座る。


(じゃあ聞くなよ)


心の中で突っ込む。


カップを持つ指先は細くて、でも少しだけ力が入っている。


沈黙。


だが、彼女は珍しくすぐに口を開いた。


「昨日のメール、クライアントの反応は」


「かなり良かったです。柔らかくした部分、特に」


「……そうか」


それだけ。


それだけなのに、少しだけ空気が軽くなる。


しばらくして、彼女がぼそっと言った。


「お前は……余計なことをする割に、結果は出すな」


褒めているのか、貶しているのか分からない。


「それ、褒めてます?」


「違う」


即答。


でも、そのあと少し間があって。


「……評価しているだけだ」


視線はカップの中に落ちたまま。


耳だけ、ほんのり赤い。


(この人、絶対わかりやすいんだよな)


そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなった。



その日から、少しだけ何かが変わり始める。


言葉は相変わらず冷たい。

態度もぶっきらぼう。


でも。


距離だけが、ほんの少しだけ近くなる。


そしてその“ほんの少し”が、妙にやっかいだった。

残業室は、夜になると別の顔を見せる。


昼間の騒がしさが嘘みたいに消えて、

キーボードの音だけがやけに響く。


「まだ残ってるのか」


その声に、少しだけ肩が跳ねた。


振り向くと、そこにいたのはやっぱりこの人だった。


橘 玲奈。


ジャケットを腕にかけたまま、資料を片手に立っている。

いつものきっちりした姿勢なのに、少しだけ疲れているように見えた。


「課長こそ、まだ帰ってなかったんですね」


「私は責任者だ。最後まで確認するのは当然だろ」


いつも通りの冷たい声。


でも、今日は少しだけ違った。


(……声、少し掠れてる)


「コーヒー、いれますか?」


「いらない。そんなもの飲まなくても――」


そこまで言って、彼女は言葉を止めた。


そして小さくため息をつく。


「……もらう」


(今の“間”なんだよな)


思わず苦笑しながら席を立つ。



給湯室でインスタントコーヒーを作る。

こういう雑務はいつの間にか自分の役目になっていた。


戻ると、彼女はデスクに肘をついて目を閉じていた。


珍しい光景だった。


「課長」


「……起きてる」


即答だった。寝てないアピールが速い。


カップを置くと、彼女は一瞬だけ視線を落とす。


「砂糖は」


「入れてます」


「勝手なことを」


そう言いながら、普通に飲む。


(もう何も言う気ないだろこの人)


一口飲んだあと、彼女は少しだけ黙る。


そして、ぼそっと。


「……悪くない」


聞き取れないくらいの小ささ。


「今、何か言いました?」


「言ってない」


即答。


絶対言った。



しばらくして、資料整理をしていると彼女が立ち上がる。


「お前、明日のプレゼン資料」


「はい」


「もう一度チェックしろ。数字が一箇所甘い」


「了解です」


そう言うと、彼女は出口に向かう。


でもドアの前で止まった。


振り返らないまま、少しだけ間を置いて。


「……あまり遅くなるな」


それだけ言って出ていく。


扉が閉まる。


静けさが戻る。


(今の、命令じゃないよな)


明らかに違うニュアンス。


“帰れ”じゃなくて、“心配”のほう。



翌日。


プレゼンは成功した。


クライアントの反応も良く、上司たちも納得していた。


会議室を出ると、廊下の端に彼女がいた。


腕を組んで壁にもたれている。


「……悪くなかったな」


それだけ。


でも、その言葉の後に少しだけ視線が逸れる。


「課長のおかげです」


「当然だ」


即答。


なのに、ほんのわずかに口元が緩んだ気がした。


(今、絶対ちょっと嬉しかっただろ)


そう思った瞬間、彼女は咳払いをする。


「次も同じクオリティを出せ」


「はい」


「調子に乗るなよ」


「乗ってません」


「ならいい」


会話が終わる。


なのに、なぜかその場を離れない。


沈黙が少し続いたあと。


彼女が、ぼそっと言った。


「……今日は、早く帰れ」


「え?」


「仕事は終わっただろ」


「課長は?」


「私はまだある」


当然のように言う。


でも、その目は少しだけ柔らかい。


「じゃあ、俺も残りますよ」


「必要ない」


即答。


ただ、その声はさっきより弱い。


「手伝います」


「いらないと言っている」


「でも一人より早いです」


「……」


沈黙。


そして彼女は、少しだけ視線をそらして言った。


「勝手にしろ」


(勝ちだな、これ)


内心でそう思う。



夜。


二人で並んで作業する時間は、不思議な静けさだった。


たまに指示が飛ぶ。

たまに修正が入る。

それだけ。


でも、距離はさっきより近い。


キーボードの音が重なるたびに、妙な安心感があった。


ふと、彼女が小さく呟く。


「……お前は」


「はい」


「疲れないのか」


一瞬、手が止まる。


「別に。これくらい普通です」


「そういう話じゃない」


視線は画面のまま。


でも、声は少しだけ柔らかい。


「人に合わせてばかりだと、潰れるぞ」


その言葉が、少しだけ胸に刺さる。


「課長もですか?」


「私は違う」


即答。


でもそのあと、小さく。


「……私は慣れている」


その“慣れている”が、なぜか重かった。



時計が21時を過ぎた頃。


彼女が立ち上がる。


「今日はここまでだ」


「了解です」


荷物をまとめながら、彼女は一瞬だけこちらを見る。


そしてすぐに視線を外す。


「……送らせる必要はない」


「言ってないですよ」


「ならいい」


即答。


でも、少しだけ間がある。


そして最後に。


「……気をつけて帰れ」


それだけ言って、先に歩いていく。


その背中を見ながら思う。


(この人、たぶん不器用すぎるだけだ)


そして、その不器用さに気づいてしまった時点で――


もう、戻れない気がした。

社内の飲み会は、いつも少しだけ面倒だ。


気を使う人間、気を使われる空気。

仕事とは別の疲れ方をする場所。


それでも今日は、参加しない理由がなかった。


「お前、今日の飲み会来るのか」


同僚に聞かれて、軽くうなずく。


「ああ、一応」


「珍しいな。いつも断るのに」


「たまにはね」


そう言いながら視線を上げると、少し離れたところにその人がいた。


橘 玲奈。


営業部の課長。

そして、相変わらず社内で一番近寄りがたい存在。


黒いスーツのまま、グラスだけ持って立っている。

笑顔はない。

でも、誰よりも場の中心に“なってしまう”人。


(あの人、こういう場ほんと似合わないのに)


そう思った瞬間、彼女と目が合った。


一瞬、止まる。


次の瞬間――


「……何を見ている」


いつもの冷たい声。


「いえ、課長も来るんだなって思って」


「仕事だ」


即答。


絶対違う。



乾杯が始まり、席がバラける。


気づけば、なぜか彼女の近くの席になっていた。


(これ、偶然か?)


隣の同僚がニヤニヤしているのが見える。


「お前、そこ座るんだな」


「たまたまだよ」


「へえ」


絶対信じてない顔だった。



乾杯のあと、しばらくは仕事の話。


その後、徐々に雑談に変わる。


そんな中、彼女はほとんど喋らない。


ただ、たまに必要なことだけ言う。


それが逆に目立つ。


「課長、意外とお酒いけるんですね」


誰かがそう言った瞬間。


彼女は一瞬だけ間を置いて。


「普通だ」


即答。


でもグラスはすでに三杯目。


(絶対普通じゃない)



その時だった。


同僚の一人が、冗談っぽく言った。


「課長ってさ、結構面倒見いいよな。○○くんとか特に」


その“○○くん”が俺だと気づくまで、時間はかからなかった。


「え、あいつ?」


「なんか課長、あいつには甘くない?」


空気が一瞬だけ変わる。


そして――


「……は?」


低い声。


一気に温度が下がる。


「別に甘くしてないが」


即答。


だが、その声はいつもより明らかに強い。


「いやいや、残業付き合ったりとか」


「業務だ」


「飲み会でも隣だし」


「偶然だ」


「それに――」


言いかけた同僚が、途中で止まる。


なぜなら、彼女の視線が一瞬だけ鋭くなったからだ。


(やばい)


空気が固まる。



沈黙。


そして彼女は、ゆっくりとグラスを置いた。


「……くだらない話をするな」


それだけ言って立ち上がる。


「課長?」


呼び止める声も無視して、少し離れた場所へ行く。


(……やりすぎたか)


そう思って席を立とうとした瞬間。


「おい」


後ろから声。


振り向くと、彼女がいた。


「少し来い」


短い命令。


拒否権はない。



店の外。


夜風が少し冷たい。


彼女は腕を組んだまま、しばらく黙っていた。


「……お前」


「はい」


「余計な誤解をされる行動をするな」


「誤解って、さっきの話ですか?」


「そうだ」


即答。


だが、その後が少し変だった。


「私は……そういうつもりではない」


(何の“そういう”だよ)


心の中で突っ込む。


「じゃあどういうつもりですか?」


「仕事だ」


「それだけ?」


「それ以外に何がある」


即答。


でも、その声は少しだけ弱い。



沈黙。


夜の街の音だけが流れる。


彼女は視線をそらしたまま、ぽつりと言った。


「……お前は、変に誤解されやすい」


「それ、俺のせいですか?」


「そうは言ってない」


即答。


でも間がある。


そして、さらに小さく。


「……そういう意味ではない」


(今の、絶対言い直したな)



少しの沈黙のあと、彼女が歩き出す。


「戻るぞ」


「はい」


並んで歩く。


少しだけ距離が近い。


いつもよりも。


「課長」


「なんだ」


「さっき、怒ってました?」


「怒ってない」


即答。


速すぎる。


「じゃあ、なんで外に?」


「……空気が悪かっただけだ」


(それ、嫉妬って言うんじゃないのか)


そう思ったけど、口には出さない。



店に戻る前。


彼女は少しだけ立ち止まった。


そして、視線をそらしたまま。


「……変な噂は、嫌いだ」


それだけ言って、先に歩く。


その背中を見ながら思う。


(この人、たぶん自覚ないだけだ)


そしてその“自覚のなさ”が、一番厄介だった。

雨は、タイミングを選ばない。


会社を出た瞬間に降り始めるのは、たいてい最悪のやつだ。


「……傘、ないのか」


背後から声がした。


振り向くと、そこにいたのはやっぱりこの人だった。


橘 玲奈。


いつものきっちりしたスーツ姿のまま、ビルの入口に立っている。

片手には折りたたみ傘。


「持ってないです。天気予報見てなかったので」


「社会人としてどうなんだ」


即答の小言。


でもその割に、彼女はすぐに動かなかった。



「……入れ」


そう言って、傘を少しだけこちらに傾ける。


「いいんですか?」


「濡れたいなら別だが」


いつも通りの冷たい言い方。


でも、距離は明らかに近い。


肩が少し触れそうで触れない、その絶妙な間。


(この人、こういうときだけ判断早いんだよな)



歩き出すと、雨音が一気に現実になる。


傘の内側は静かで、外とは別世界みたいだった。


「課長もこっち方面なんですか?」


「同じ方向だ」


即答。


(ほんとか?)


そう思ったが、わざわざ突っ込まない。


沈黙が続く。


けれど、不思議と気まずくはない。



「さっきの飲み会」


彼女が急に口を開いた。


「はい」


「……ああいう場で余計なことを言うな」


「俺は何も」


「周りが勝手に言う」


即答。


その言い方は、少しだけ尖っていた。


(まだ気にしてるのか)


そう思ったが、やっぱり口には出さない。



雨が少し強くなる。


傘がわずかに揺れる。


その瞬間、彼女の肩がほんの少しだけ近づいた。


「……すまない」


小さな声だった。


「え?」


「さっきの話だ」


即答のようで、即答じゃない。


(謝った?この人が?)


驚きすぎて言葉が出ない。


彼女は視線を前に向けたまま続ける。


「お前に非はない。だが、ああいう噂は面倒だ」


「別に気にしてないですけど」


「気にしろ」


即答。


理不尽だった。



少し歩くと、信号で止まる。


車の音と雨の音だけが混ざる。


そのとき、彼女が小さく息をついた。


「……お前は」


「はい」


「もう少し、自分の立ち位置を考えろ」


「どういう意味ですか」


「誤解される距離にいる」


(それ、今まさにじゃないか)


そう思う。


でも、彼女は続ける。


「周りは勝手に見る。だから面倒だ」


言い方は冷たい。


なのに、なぜか“守っている”ようにも聞こえた。



信号が青になる。


歩き出すと、傘の中の距離がほんの少しだけ縮む。


彼女は何も言わない。


でも、さっきより傘をこちら側に寄せている。


(これ、気づいてやってるのか?)


いや、たぶん違う。


無意識だ。


そのほうが、この人らしい。



「課長」


「なんだ」


「こういうの、慣れてるんですか?」


「何がだ」


「人と一緒に傘入るとか」


一瞬、返事が止まる。


「……必要がなかっただけだ」


即答。


でも、少しだけ間があった。


(それ、答えになってない)



マンションの近くまで来る。


彼女は立ち止まった。


「ここでいい」


「もう少し行きますよ」


「いい」


即答。


でも、傘はまだ閉じない。


少しだけ沈黙。


雨音が強くなる。



「課長」


「なんだ」


「さっきの謝罪、ちょっと意外でした」


「謝ってない」


即答。


(いや絶対謝っただろ)


「じゃあ今のは?」


「訂正だ」


即答。


無理がある。



彼女は少しだけ視線をそらす。


そして、ぼそっと言った。


「……お前は、気にしなさすぎる」


「そうですかね」


「そうだ」


即答。


でも、その声は少しだけ柔らかい。



傘を少し上げて、彼女は一歩下がる。


「風邪をひくな」


「課長も」


「私は平気だ」


即答。


(絶対平気じゃないやつ)



彼女はそのまま背を向ける。


少し歩いてから、振り返らずに言った。


「……次は傘を持て」


それだけ。


そして去っていく。



雨の中に残される。


でも、不思議と寒くなかった。


(距離はまだ遠いのに)


(たぶん、少しずつ近づいてる)


そう思った。

休日の街は、会社とは別世界だ。


同じ景色なのに、誰も“仕事用の顔”をしていない。


だからこそ――


「あ……」


思わず声が漏れた。


目の前にいたのは、完全に想定外の人物だった。


橘 玲奈。


ただし、いつもの彼女じゃない。


スーツではなく、淡い色のニットにロングスカート。

髪も少しだけ下ろされていて、仕事の鋭さがどこか薄れている。


(……誰だこれ)


本気で一瞬わからなかった。



「……何を見ている」


低い声。


その瞬間、確信する。


(あ、課長だ)


「すみません、休日だったので」


「休日でも顔はある」


即答。


相変わらずだ。



「課長も買い物ですか?」


「……そうだ」


間。


いつもの即答より、0.5秒遅い。


手には紙袋。


中身は見えないが、仕事用ではないのは明らかだった。


(絶対言いたくなさそうだな)



「珍しいですね、こういう格好」


「……普通だ」


即答。


でも少しだけ視線をそらす。


耳がほんのり赤い。


(分かりやすいんだよな、この人)



「誰かと一緒ですか?」


「一人だ」


即答。


そして少しだけ間。


「……悪いか」


「いや、意外だなって」


「意外とは何だ」


即答。



気まずいわけじゃないのに、妙に空気が静かだった。


仕事の話が一切ないせいだろう。


彼女もそれに慣れていないようだった。



「お前は何をしている」


「買い物です。あと散歩」


「暇なのか」


即答。


「休日ってそういうものでしょ」


「私は違う」


即答。


(絶対今、無理して予定入れてるタイプだろこれ)



歩き出すと、なぜか並んでしまう形になる。


意図はない。

なのに自然と横にいる。


「……こういう場所で会うとは思わなかった」


彼女がぽつりと言った。


「俺もです」


「嘘をつくな」


即答。


(なんでバレるんだよ)



しばらく歩く。


店のウィンドウに彼女が少しだけ映る。


いつもの“課長”じゃない姿。


なのに、どこかまだ“課長”のままだ。



「その服」


急に彼女が言う。


「どうですか?」


「……悪くはない」


即答。


褒めてるのかどうかギリギリのライン。


「ありがとうございます」


「礼を言うな」


即答。


(面倒くさいなこの人)



信号待ち。


人混みの中で、少しだけ距離が近くなる。


彼女がふと視線を落とした。


「……休日に会う必要はない」


「たまたまですよ」


「そういう偶然は多い」


即答。


(それ、気にしてるってことだよな)



「課長」


「なんだ」


「休日でも、あんまり変わらないですね」


「何がだ」


「雰囲気とか」


少し沈黙。


そして――


「……変える必要がない」


即答。


でも、その声は少しだけ柔らかかった。



歩きながら、彼女が小さく言う。


「お前は休日も騒がしいな」


「普通ですよ」


「普通ではない」


即答。


(それ、褒めてるのか?)



しばらくして、彼女は立ち止まる。


「ここでいい」


「家ですか?」


「そうだ」


即答。


そして少しだけ間。


「……見送らなくていい」


「じゃあここで」



彼女は少しだけ黙る。


そして、ほんの小さく。


「……変なところで会うな」


「嫌でした?」


「そうは言ってない」


即答。


でも、視線は少しだけ揺れていた。



「じゃあまた会社で」


「……ああ」


即答。


でも、すぐには歩き出さない。


数秒。


そして彼女は背を向ける。



歩き出す直前。


「……休日は、無理に予定を詰めるな」


それだけ言って、去っていく。



残された場所で思う。


(たぶんこの人、休日が一番不器用だ)


(でも、その不器用さは嫌いじゃない)

「……顔色、悪いな」


朝一番、その声で気づいた。


視界の端にいるのはいつもの人。


橘 玲奈。


ただ、今日は少しだけ違った。

声がいつもより低くて、観察する時間が長い。


「大丈夫です。ちょっと寝不足なだけで」


「それが問題だ」


即答。


(朝から飛ばすなこの人)



午前の会議は、地獄というほどではないが普通に長い。


資料、数字、修正指示。


途中で視界が少し揺れた。


(やばい、これ)


気合で持たせる。



会議終了後。


席に戻ろうとした瞬間、腕をつかまれた。


「おい」


低い声。


振り向くと、彼女の顔がすぐ近くにあった。


「……お前、顔色が悪い」


「大丈夫ですって」


「大丈夫の顔じゃない」


即答。



「少し休め」


「仕事残ってますよ」


「私がやる」


即答。


(え?)



「いや、それはさすがに」


「いいから行け」


強い声。


でも怒っているというより、焦っている。



気づけば、資料を半ば奪われるように取り上げられていた。


「課長、それは」


「お前は黙れ」


即答。


(久々に理不尽だな)



結局、休憩室に押し込まれる形になる。


ソファに座らされる。


「5分だけだ」


「短すぎません?」


「長くする必要はない」


即答。



ドアが閉まる。


静かになる。


数分後。



ガチャ。


ドアが少しだけ開く。


「……起きてるか」


「起きてます」


彼女は入ってこない。


入口に立ったまま。



「水」


「え?」


「持ってきた」


即答。


小さなペットボトル。


(持ってきてるのかよ)



受け取ると、彼女は視線をそらす。


「無理をするな」


「課長がそれ言うんですか」


「私は無理をしていない」


即答。


(説得力ゼロだな)



沈黙。


しばらくして、彼女が小さく言う。


「……お前は、倒れたら困る」


「業務的に?」


「そうだ」


即答。


でも間があった。



(絶対それだけじゃないだろ)


そう思うが、言わない。



「もう少し寝ろ」


「はいはい」


「はいは一回だ」


即答。


(細かい)



彼女は少しだけドアを閉めかけて、止まる。


そして――


「……勝手に倒れるな」


それだけ言って出ていった。



午後。


仕事に戻ると、机の上が少しだけ整っていた。


彼女がやったのは明らかだった。


メモまで付いている。


「優先順位:上から処理」


(めちゃくちゃ実務的だな)



夕方。


帰り際。


彼女が横に立つ。


「今日は帰れ」


「もう大丈夫ですよ」


「大丈夫と言うやつほど信用できない」


即答。



少し沈黙。


そして彼女は視線をそらしながら言う。


「……次からは、ちゃんと寝ろ」


「命令ですか?」


「命令だ」


即答。


でも声は少しだけ柔らかい。



エレベーター前。


彼女は先に背を向ける。


「……倒れられると困る」


小さく、それだけ。


そして振り返らずに去っていく。



残された場所で思う。


(この人、理由を全部“仕事”にするんだよな)


(でも、それが逆にわかりやすい)

夜のオフィスは、昼と同じ場所とは思えないほど静かだった。


蛍光灯の白さだけが変わらず残っていて、

それがかえって現実感を薄くしている。


「まだ残ってるのか」


その声は、静けさの中ではやけに響いた。


振り向くと、そこにいたのはやはりこの人だった。


橘 玲奈。


ジャケットを腕にかけたまま、資料を持って立っている。

表情はいつも通り無表情に近いが、目だけが少しだけ鋭い。


「課長こそ、まだいたんですね」


「確認が残っている」


即答。


(またそれか)



「お前もだろう」


「まあ、少しだけ」


そう答えると、彼女は当然のように隣の席に資料を置いた。


「見せろ」


「手伝うんですか?」


「違う。確認だ」


即答。


(それ、実質手伝いだろ)



二人で並んで画面を見る。


キーボードの音が静かに重なる。


いつもより距離が近い。


肩が触れるか触れないかの位置。


それなのに、不思議と緊張感はない。



「ここ」


彼女が画面を指す。


「数字、桁が違う」


「ほんとだ」


「気づけ」


即答。


(厳しい)



修正を終えると、彼女は少しだけ背もたれに寄りかかった。


「……遅い」


「手伝ってたじゃないですか」


「私は最初から気づいていた」


即答。


(なら言ってくれ)



沈黙。


しばらくして、彼女がぽつりと言う。


「お前は、詰めが甘い」


「よく言われます」


「直せ」


即答。



その言い方はいつも通り冷たい。


でも、今日は少し違った。


どこか“放っておけない”みたいな空気が混じっている。



「課長って、仕事以外でもそんな感じなんですか?」


「何がだ」


「全部チェックするところとか」


一瞬、止まる。


「……必要なだけだ」


即答。


でも少し間があった。



(やっぱり、仕事の癖なんだな)


そう思う。



時計を見ると、もう21時を過ぎていた。


「今日はここまでにしましょうか」


「まだ終わってない」


即答。


(出た)



「でも明日でも間に合いますよ」


「……」


彼女は黙る。


珍しい沈黙。



そして、少しだけ視線を外して言った。


「……お前が終わらせるなら、今日でいい」


「え?」


「私は構わない」


即答のようで、少しだけ遅い。


(それ、気遣いじゃないか?)



結局、作業は続く。


ただ、さっきより空気は少しだけ柔らかい。



深夜近く。


作業が終わる。


彼女は立ち上がる。


「帰るぞ」


「はい」



エレベーター。


二人だけの空間。


沈黙。



「……お前」


「はい」


「倒れるなよ」


即答。



「またですか」


「まただ」


即答。


(本気で心配してるなこれ)



エレベーターが止まる。


扉が開く。


彼女は先に出る。


でもすぐに立ち止まる。



「……今日は、悪くなかった」


小さくそう言う。


「何がですか」


「仕事だ」


即答。



(それ、たぶん違うやつだろ)


そう思う。



歩き出そうとしたとき、彼女が少しだけ振り返る。


「勘違いするな」


「何をですか」


「何もない」


即答。



なのに、その声はいつもより柔らかかった。



「……お前は、手がかかる」


「それ褒めてます?」


「違う」


即答。



そして少し間。


「……でも、使える」


(結局それか)



彼女はそのまま背を向ける。


「先に帰れ」


「課長は?」


「私はまだいい」


即答。


でも、少しだけ間。



その背中を見ながら思う。


(この人、距離を縮めるのが下手すぎる)


(でも、その分だけわかりやすい)

「その件、彼の判断で問題ない」


会議室に、はっきりとした声が落ちた。


空気が一瞬止まる。


視線の先にいるのは――橘 玲奈。


いつもの無表情。

いつもの冷静な口調。


だが今日は、明らかに違っていた。


「ですが課長、それは責任的に――」


「私が引き受ける」


即答だった。


議論を切るような、強い声。



会議が終わったあと、廊下は妙に静かだった。


「……課長」


声をかけると、彼女は足を止めた。


「なんだ」


「さっきの、あれ……大丈夫なんですか」


「何がだ」


即答。


(やっぱりそうなるか)



「俺の判断って言ってましたけど」


「事実だ」


即答。


「でも、リスクは」


「私が負う」


さらに即答。



少しだけ沈黙。


彼女は視線をそらしたまま言う。


「お前の判断は、間違っていない」


「……珍しいですね、そういう言い方」


「事実だと言っている」


即答。



その言葉は、いつもより重かった。


守る、というより――信じている側の言い方だった。



「課長って、たまに無茶しますよね」


「無茶ではない」


即答。


「いや、今のは普通に」


「必要なだけだ」


さらに即答。



(この人、自分のことになると全部正当化するんだよな)


そう思いながらも、なぜか引っかかる。



「でも、さっきのは……俺のためですよね」


言った瞬間、空気が止まった。


彼女の足がほんの少しだけ止まる。



「違う」


即答。


速い。


早すぎる。



だが、そのあと少し間があった。


「……組織のためだ」


声がわずかに低い。



(今の間、何だ)



「そういうことにしておきます」


軽く返す。


「そうしろ」


即答。



でも、彼女はそれ以上歩き出さない。



「課長」


「なんだ」


「怒ってます?」


「怒っていない」


即答。



さらに沈黙。


そして彼女は少しだけ視線を落としたまま言う。


「……お前は、余計なことを考えるな」


「考えますよ、普通に」


「考えるな」


即答。



(それは無理だろ)



その夜。


トラブル対応で残業が続く。


気づけば、また二人だけのオフィスだった。



「ここ」


彼女が資料を指す。


「判断は間違っていない。だが詰めが甘い」


「またそれですか」


「まただ」


即答。



でもその言い方は、どこか柔らかい。



時計は22時を過ぎる。


「今日は終わりにしましょう」


「まだだ」


即答。


(出た)



「課長」


「なんだ」


「無理してません?」


一瞬、止まる。



「していない」


即答。


でも、声が少しだけ遅れた。



沈黙。


そして彼女は小さく息を吐く。


「……お前は本当に面倒だな」


「それ、褒めてます?」


「違う」


即答。



それでも、彼女は席を立たない。



しばらくして、ぽつりと言う。


「……お前がいないと、進まない」


「え?」


「仕事だ」


即答。



(絶対それだけじゃないやつだろ)



帰り道。


エレベーターの中。


彼女は少しだけ壁にもたれる。


「今日は終わりだ」


「珍しいですね」


「効率の問題だ」


即答。



でもその声は、いつもより静かだった。



扉が開く直前。


彼女が小さく言う。


「……お前は、変に真面目だ」


「課長ほどじゃないですよ」


「私は違う」


即答。



そして一拍。


「……違わない」


小さくそう言って、先に出ていく。



残された空間で思う。


(今のは、絶対“自覚してない本音”だ)

朝から嫌な予感はしていた。


頭が重い。

喉が少し痛い。

でも仕事は止まらない。


(まあ、気のせいだろ)


そう思って会社に来たのが間違いだった。



午前の会議中。


視界が一瞬だけ揺れた。


次の瞬間――


「おい」


低い声が飛んだ。


はっと顔を上げると、目の前にいるのは橘 玲奈。


いつもより近い距離。


「顔色が悪い」


「大丈夫です」


即答する。


「大丈夫の顔じゃない」


即答で返される。



「ちょっと休め」


「いや、これくらい」


「これくらいじゃない」


即答。



彼女は一歩近づく。


その瞬間、空気が変わった。


「立てるか」


「立てますよ」


「嘘をつくな」


即答。



(なんでバレるんだこの人)



結局、腕をつかまれる。


強い力じゃない。

でも拒否できない強さ。


「休憩室だ」


「課長、まだ会議中――」


「黙れ」


即答。



休憩室。


ソファに座らされる。


「水」


「持ってきますよ」


「いいから座れ」


即答。



しばらくして、ドアが開く。


彼女が入ってくる。


手にはペットボトルとタオル。


(……いや、準備しすぎじゃないか)



「飲め」


「ありがとうございます」


彼女は隣には座らない。


少し距離を取ったまま立っている。



「熱は」


「多分ないです」


「測れ」


即答。


体温計を渡される。



ピッ。


「……あるな」


「何度です?」


「黙ってろ」


即答。



(なんで怒られるんだ)



「今日は帰れ」


「でも仕事が」


「私がやる」


即答。



「それはさすがに」


「お前は邪魔だ」


即答。


(言い方)



でも、その声はいつもより少しだけ焦っている。



「課長」


「なんだ」


「そんなに怒ることじゃ――」


「怒ってない」


即答。



沈黙。


そして少しだけ視線をそらして。


「……倒れられると困る」


小さく言った。



(またそれか)



「仕事的にですか?」


「そうだ」


即答。


でも間があった。



午後。


気づくとデスクは片付いていた。


代わりにメモ。


『今日は帰れ』


短い命令。



(この人、全部仕事にするんだよな)



夕方。


帰ろうとすると、背後から声。


「待て」


振り返ると彼女。



「送る」


「え?」


「勘違いするな。状態確認だ」


即答。



(いやそれもう完全に――)



帰り道。


彼女は傘を持っていないのに隣を歩く。


少しだけ距離が近い。



「熱は?」


「もう大丈夫です」


「嘘だな」


即答。



「なんでそう思うんですか」


「顔」


即答。



(便利すぎるだろその判断)



信号で止まる。


彼女が少しだけ言う。


「……無理をするな」


「課長もですよ」


「私は無理をしていない」


即答。



(絶対してる)



マンション前。


「ここでいい」


「ありがとうございました」


彼女はすぐに背を向けない。



少しだけ沈黙。


そして――


「……次は、最初に報告しろ」


「何をですか」


「体調」


即答。



(それ、ただの心配だろ)



彼女は歩き出す。


でも数歩後、少しだけ止まる。


振り返らずに言う。


「……倒れたら許さない」



そして去る。



残された場所で思う。


(この人、もう完全に“関係者”になってるのに気づいてない)

夜の会議室は、昼間よりずっと静かだ。


空調の音だけが淡く響いて、

人の気配はもうほとんどない。


「まだいたのか」


その声に振り向くと、そこにいた。


橘 玲奈。


いつも通りの姿。

いつも通りの冷たい視線。


……のはずなのに、今日は少し違う。


息がわずかに乱れている。



「課長こそ」


「私は残務処理だ」


即答。


(またそれか)



「お前もだろう」


「まあ、少しだけ」


そう言って画面に向き直る。


しばらく、キーボードの音だけが続く。



数分後。


「……おい」


「はい」


「まだ終わらないのか」


「もう少しです」


「遅い」


即答。



(いつも通りだな)


そう思った、そのときだった。



「……今日」


彼女がぽつりと言う。


「はい」


「昼の件」


一瞬、止まる。



昼の件。


それは――体調不良で倒れかけた日のこと。



「もう大丈夫ですよ」


「そういう話じゃない」


即答。



沈黙。


彼女は視線を落としたまま言う。


「……無理をするなと言った」


「してません」


「していた」


即答。



(この人、こういう時だけ記憶力いいな)



しばらく黙ったあと、彼女は小さく息を吐く。


「……お前は」


「はい」


「自分のことを軽く扱いすぎる」



声が、少しだけ低い。


いつもの“命令口調”じゃない。



「課長もですよ」


「私は違う」


即答。


(出た)



だが今回は、すぐに続かなかった。


彼女は少しだけ視線を逸らす。



「……違わない」


小さく、そう言った。



(今の、何だ)



空気が変わる。


いつもの“上司と部下”の距離じゃない。



「課長」


「なんだ」


「今日、怒ってます?」


「怒っていない」


即答。


でも、間がある。



「じゃあ、なんでそんな顔してるんですか」



一瞬、止まる。


彼女の指がわずかに止まる。



「……関係ない」


即答。



(いや、関係あるやつだろ)



沈黙。


そして彼女は、少しだけ声を落とす。


「……お前が倒れるのは、困る」



またその言葉。


でも今日は違う。


“仕事だから”が付いていない。



「課長」


「なんだ」


「それ、仕事ですか?」



一瞬、空気が止まる。



「……違う」


即答じゃなかった。



沈黙が落ちる。


彼女は視線をそらしたまま続ける。


「だが、業務に支障が出る」



(まだそこに戻すのか)



「じゃあ聞きますけど」


「なんだ」


「俺がいなくなったら困ります?」



言った瞬間、空気が完全に止まった。



彼女の視線が、初めてこちらに向く。


鋭い。


でも、どこか揺れている。



「……困る」



即答じゃなかった。



その一言のあと、少し沈黙。


そして彼女は、いつもの声に戻そうとする。


「業務が回らない」



でも、遅い。



(今のは、もう誤魔化せてない)



「課長」


「なんだ」


「それだけですか」



彼女は立ち上がる。


一歩近づく。



「それ以上の意味を求めるな」


即答。


でも、声が少しだけ震えている。



(否定になってない)



沈黙。


近い距離。


息が聞こえるほどの距離。



「……お前は」


彼女が言う。


「余計なことを考えすぎる」



「それ、課長のせいですよ」



一瞬、止まる。



「……違う」


即答。


でも、もう弱い。



彼女は視線をそらす。


そして小さく。


「……今日は帰れ」



「一緒に帰りましょうか」



その瞬間。


彼女の目が揺れる。



「……命令だ」


即答。



でも、もう逃げの言葉だ。



沈黙。


そして彼女は背を向ける。



「……次は」


小さく。


「無理をするな」



そして出ていく。



残された部屋で思う。


(もうこの人、“仕事”じゃごまかせてない)

翌朝のオフィスは、いつもより少しだけ騒がしかった。


理由は単純だ。

“昨日の夜の残業組”が話題になっている。


「なあ、お前さ」


同僚がひそひそ声で寄ってくる。


「昨日、課長とまた残ってたろ」


「まあ……たまたまな」


「たまたまにしては多くない?」


(来たな)



視線の先には、変わらずいつもの席。


橘 玲奈。


何も知らない顔で資料を見ている。

いつも通りの冷静な表情。


ただ、空気は少し違う。


彼女の周囲だけ、微妙にピリついている。



「課長、昨日さ」


別の同僚が軽く声をかける。


「遅くまで大変でしたね」


「業務だ」


即答。


(出た)



だが、そのあとが妙だった。


一瞬、視線がこちらに流れる。


ほんの一瞬だけ。



「……それだけだ」


彼女はそう付け足す。


でも、その“間”を見逃すほど周りは鈍くない。



昼休み。


「なあ」


同僚が笑いながら言う。


「お前、課長に気に入られてるよな」


「そんなわけないだろ」


「いや、だってさ」


「残業、毎回一緒じゃん」


「それ仕事」


「休日会ってたって聞いたぞ」


(誰だそれ言ったやつ)



胸の奥が少しだけ重くなる。


誤解。

いや、半分は事実。


でも“そういう意味”じゃない。



午後。


コピー機前。


「おい」


背後から声。


振り向くと彼女。



「これ」


資料を渡される。


「修正」


「はい」



彼女は一歩だけ近づく。


そして低い声。


「……余計な話をするな」


「何の話ですか」


「分かっているだろう」


即答。



(全部見えてるんだな、この人)



「別に、気にしてないです」


「嘘だ」


即答。



少し沈黙。


彼女は視線をそらしたまま続ける。


「……周りの言葉に流されるな」



それは命令というより、少しだけ違う響きだった。



「課長はどうなんですか」


「何がだ」


「気にしてます?」


一瞬止まる。



「気にしていない」


即答。



でも、そのあと。


ほんの少しだけ間が空いた。



「……業務以外は」



(それ、答えになってない)



夕方。


また残業が始まる。


周囲はほとんど帰っている。


二人だけが残る。



「またか」


彼女が言う。


「またですね」


「無駄だ」


即答。



「課長こそ帰ればいいのに」


「終わっていない」


即答。



沈黙。


キーボード音だけが響く。



ふと、彼女がぽつりと言う。


「……お前は、目立ちすぎる」


「俺がですか?」


「そうだ」


即答。



「課長の方じゃなくて?」



一瞬、止まる。


彼女は視線を画面に戻す。



「……私は関係ない」


即答。



(いや一番関係ある人だろ)



しばらくして。


彼女が小さく言う。


「……誤解は、面倒だ」


「俺もです」


「なら距離を取れ」


即答。



その言葉は、いつも通り冷たい。


なのに。


なぜか少しだけ“迷い”が混じっていた。



(本当はそれ、できないって分かってるくせに)



夜。


帰り際。


エレベーター前。


彼女は背を向けたまま言う。


「……明日は早く来い」


「命令ですか?」


「命令だ」


即答。



でも一拍置いて。


「……遅れるな」



それだけ言って歩き出す。



残された場所で思う。


(もうこの関係、“ただの仕事”じゃないのは誰が見ても分かる段階だな)


(あとは本人だけだ)

その日は、最初から少しだけおかしかった。


午後の急なトラブル対応。

資料の不備。

会議の延長。


気づけば、夜だった。


そして――


停電。



「……最悪だな」


暗くなったオフィスで、誰かが呟く。


非常灯だけがぼんやり光る。


その中心にいるのは、いつも通り冷静な人。


橘 玲奈。


「落ち着け。非常電源はすぐ戻る」


即答。


(こういう時だけ声が安定してるのはさすがだな)



だが、通信トラブルで帰宅指示も出せないまま、社員は散り散りになる。


気づけば、オフィスに残ったのは数人。


そして――


なぜか二人だけになっていた。



「お前も残ってたのか」


「たまたまです」


「嘘だな」


即答。



彼女は非常灯の下で資料をまとめている。


いつもより影が濃い。


距離も、いつもより近い。



「電車、止まってるらしい」


同僚からの連絡。


「……帰れないな」


誰かが言う。



沈黙。


そして、自然と解散。


残されたのは――またしても二人。



「最悪ですね」


「想定内だ」


即答。


(想定してたなら先に帰れよ)



外に出ると、雨が降っていた。


さっきまで降っていなかったはずなのに。



「傘は」


「ないです」


「またか」


即答。



彼女はため息をつき、ビルの入口で立ち止まる。


そして――


無言で傘を開いた。



「入れ」


「いいんですか?」


「濡れる方が非効率だ」


即答。


(もう理由が雑だな)



傘の中。


距離が近い。


いや、近すぎる。


肩が完全に触れている。



歩き出すと、雨音がやけに大きい。


沈黙が長い。



「……お前」


彼女が言う。


「はい」


「今日は、やけに騒がしいな」


「俺ですか?」


「そうだ」


即答。



「停電のせいですよ」


「違う」


即答。



少し間。


そして彼女は続ける。


「……周りが」



その言葉は途中で止まる。



(周り?)



「課長」


「なんだ」


「気にしてます?」



一瞬、止まる。


雨の音だけが強くなる。



「気にしていない」


即答。


だが、いつもより遅い。



(またそれか)



「じゃあなんで、さっきから黙ってるんですか」



彼女は少しだけ視線を落とす。



「……関係ない」


即答。



でも、声が揺れている。



歩く速度が少しだけ遅くなる。


傘の中の距離がさらに近づく。



「課長」


「なんだ」


「俺のこと、どう思ってるんですか」



空気が止まった。



彼女の足が完全に止まる。



「……質問の意味が分からない」


即答。



(いや、分かってる顔だろそれ)



沈黙。


雨が強くなる。



彼女は視線をそらしたまま言う。


「……部下だ」



即答。


でも、そのあと続かなかった。



数秒。


そして、小さく。


「……厄介な部下だ」



(それ、もうほぼ感情じゃないか)



「じゃあ」


「なんだ」



「厄介なのに、なんで助けるんですか」



一瞬、息が止まる。



彼女は視線を上げる。


雨の中で、目だけがやけに真っすぐだった。



「……仕事だからだ」


即答。



でも、その声は震えていた。



(もう無理がある)



マンション前。


傘が止まる。



「ここでいい」


「はい」



彼女はすぐに離れない。


少しだけ沈黙。



そして――


「……倒れるな」


小さく言う。



「倒れませんよ」



彼女は一瞬だけこちらを見る。


そして視線をそらす。



「……ならいい」


即答。



でも、動かない。



数秒後。


彼女は小さく息を吐く。



「……お前は」


「はい」



「距離感がおかしい」



「それ、課長の方ですよ」



一瞬止まる。



「違う」


即答。



でも、もう説得力はなかった。



彼女は背を向ける。



「……次は傘を忘れるな」


それだけ言って歩き出す。



でも数歩後。


ほんの小さく。



「……風邪をひくな」



そして消えていく。



残された場所で思う。


(この人、もう完全に“気持ち”で動いてるのに、それを“仕事”に変換してるだけだ)

翌朝のオフィスは、妙に静かだった。


というより――静かすぎる。


視線が刺さる。

会話が一瞬止まる。

そしてすぐ再開する。


(ああ、これだな)


昨日の停電と雨の帰宅が、もう噂になっている。



「おい」


同僚が小声で寄ってくる。


「お前さ……昨日も課長と一緒だったってマジ?」


「仕事だよ」


「いやそれ毎回言うじゃん」


(言うしかないだろ)



視線の先にいるのは、いつもの席。


橘 玲奈。


ただ、今日は明らかに違う。


周囲が“距離”を測っている。



「課長、昨日の件ですが」


誰かが話しかける。


「問題ない」


即答。


いつも通りの冷たい声。


でも――


そのあと、ほんの一瞬だけこちらを見る。



(やっぱり、意識してる)



午前の会議。


空気はさらに重い。


議題はトラブル対応の責任分担。


その中で一人が言う。


「今回の件、彼の判断に依存しすぎでは?」


空気が止まる。



その瞬間だった。


「異論があるなら私が聞く」


彼女の声。


低く、はっきりしている。



全員が黙る。



「責任は私が取る」


即答。



(まただ)



会議終了後。


廊下。


彼女が歩いているのを見つける。


「課長」


「なんだ」



「さっきの、やりすぎじゃないですか」


「どこがだ」


即答。



「全部ですよ」


「事実を言っただけだ」


即答。



少し沈黙。


彼女は視線をそらす。



「……問題はない」


小さく言う。



(いや、問題しかないだろ)



昼休み。


食堂。


また視線が集まる。


理由は単純だ。


“距離が近い”



彼女はいつもの席に座る。


そして当然のように言う。


「座れ」


「命令ですか?」


「そうだ」


即答。



(もはや隠す気ないな)



食事中。


誰かが遠くで言う。


「やっぱあの二人さ……」


その瞬間。


彼女の箸が止まる。



空気が一瞬だけ変わる。



「何か言ったか」


低い声。



沈黙。



誰も返せない。



(あ、完全に守りに入ってる)



午後。


コピー機前。


「……お前」


彼女が言う。


「はい」



「余計なことをするな」


「何のことですか」



「分かっているだろう」


即答。



(もう全部バレてる前提だな)



夕方。


ついに決定的な一言が落ちる。


会議後、役員の一人が軽く言う。


「橘課長、随分信頼している部下がいるようで」


一瞬の間。



そして彼女は答える。


「信頼している」


即答。



(え)



その場が固まる。



役員が続ける。


「それは業務上の話ですか?」



彼女は一度だけ間を置く。


そして――


「業務上の話だ」


即答。



でも、そのあと。


ほんの少しだけ視線が揺れた。



(今の間、絶対“それ以上”だった)



会議終了後。


廊下。


「課長」


「なんだ」



「さっきの、言い切りましたね」


「事実だ」


即答。



「でも周り、誤解してますよ」



彼女は立ち止まる。


そして一言。


「……構わない」



(え?)



彼女は歩き出す。



「誤解されるなら、それでもいい」


小さくそう言う。



その背中を見ながら思う。


(この人、もう“隠す側”をやめてる)



夜。


オフィスはほぼ無人。


二人だけ。



「課長」


「なんだ」



「もう、バレてますよ」



彼女は少しだけ黙る。


そして――


「……そうだな」


即答じゃない。



(認めた)



沈黙。



彼女は視線をそらしたまま言う。


「……だが、仕事に支障はない」



「それ本音ですか?」



一瞬止まる。



「……本音だ」


即答。


でも遅い。



(いや、絶対違う)



エレベーター前。


彼女は背を向ける。


そして小さく。


「……お前は、お前のままでいろ」



「それ、どういう意味ですか」



「そのままだ」


即答。



そして去っていく。



残された場所で思う。


(この人、もう“関係”を否定してない)


(ただ言葉にできてないだけだ)

夜のオフィスは、もうほとんど息をしていなかった。


電気は落ち、非常灯だけが淡く壁を照らしている。

キーボードの音も止まっている。


残っているのは、たった二人だけ。


橘 玲奈。


そして――俺。



「まだいたのか」


その声は、いつも通り冷たいはずだった。


でも、今日は違った。


少しだけ、掠れている。



「課長こそ」


「私は確認だ」


即答。


(もうその言い訳も聞き慣れたな)



しばらく沈黙。


画面の光だけが二人の間を照らしている。



「……お前」


彼女が言う。


「はい」



「今日の件」


一瞬、止まる。



「もう、周りは知っている」



その言葉は、やけに静かだった。



「知ってるって、何をですか」


「私とお前のことだ」


即答。



(とうとうそこまで言ったか)



「それ、どういう意味で?」



彼女はキーボードから手を離す。


ゆっくりと、こちらを見る。



「誤解されているという意味だ」


即答。



でも、その目は揺れている。



「課長は、その誤解、どう思ってるんですか」



沈黙。


長い。



彼女は一度視線を落とし、そして――


「……否定するべきだろうな」


即答。



(“べき”か)



「じゃあ、なんで否定しないんですか」



その瞬間。


空気が変わる。



彼女の指が止まる。


呼吸が少しだけ乱れる。



「……それは」



初めて、即答じゃない。



「……仕事に関係ない」


小さく言う。



(逃げた)



「課長」


「なんだ」



「もう仕事じゃないですよね」



沈黙。



彼女は立ち上がる。


そして、一歩だけ近づく。



距離が、もう逃げられないほど近い。



「……お前は」


彼女が言う。


「分かっていて聞いているだろう」



「はい」



その瞬間、彼女の呼吸が止まる。



「……性格が悪いな」


即答。


でも、弱い。



(もう限界だな、この人)



「課長」


「なんだ」



「俺のこと、どう思ってますか」



完全に静止。



時間が止まったような沈黙。



彼女は一度目を閉じる。


そして――


開く。



「……厄介だ」


即答。



「それ、前にも聞きました」



「変わらない」


即答。



でも、そのあと。



「……でも」



初めて言葉が続かない。



彼女は視線をそらす。


そして、小さく。



「……いないと困る」



(今のはもう、仕事じゃない)



「課長」



「なんだ」



「それ、俺に言ってます?」



彼女はすぐに否定しない。



数秒。


そして――


「……そうだ」



即答じゃなかった。



沈黙。



彼女はゆっくりと息を吐く。



「……お前は」


「はい」



「距離感がおかしい」



「それはもういいです」



少しだけ、空気が緩む。



彼女は視線を落としたまま言う。


「……ずっとだ」



(ずっと、か)



「課長」


「なんだ」



「それ、もう仕事の話じゃないですよね」



沈黙。



そして彼女は――


ほんの少しだけ笑った。



「……ようやく気づいたか」



その瞬間。


全ての“仕事”が剥がれる。



静かな夜。


二人だけの空間。



彼女はゆっくりと視線を上げる。



「……お前は、どう思っている」



返す番。



でも――もう迷いはなかった。



「好きですよ」



一瞬。


空気が完全に止まる。



彼女の目が揺れる。


呼吸が止まる。



そして――


「……そうか」


小さく。



即答じゃない。



彼女は視線をそらしながら、ぽつりと。



「……遅い」



(それ、肯定だろ)



沈黙。



彼女は少しだけ近づく。


でも触れない距離で止まる。



「……仕事は終わったな」


小さく言う。



「そうですね」



そして、少しだけ間。



「……明日から」


彼女が言う。


「誤解は、誤解ではなくなる」



(それ、もう宣言だろ)



夜のオフィスで。


二人の距離だけが、やっと“名前を持つ”ものになった。


あれから、世界は少しだけ変わった。


いや、変わったのは世界じゃない。


彼女だ。


橘 玲奈。



朝のオフィス。


「おはようございます」


「……ああ」


それだけのやり取り。


なのに、もう以前のような“距離”はない。



「課長、これ確認お願いします」


「呼び方」


即答。


「え?」


彼女は少しだけ視線を逸らして言う。


「……その呼び方は、やめろ」



(まだ慣れてないんだな)



「じゃあ、どう呼べばいいですか」


「……名前でいい」


即答。


でも、そのあと少し間があった。



「玲奈さん」


一瞬、止まる。



「……仕事中だ」


即答。


(絶対今照れた)



昼休み。


社員食堂。


視線はまだ少し集まる。


でも、もう以前のような“誤解”ではない。


半分は確信だ。



「おい」


同僚が小声で言う。


「もう隠してないよな、あれ」


「まあな」


「すげえな、課長相手とか」


(いや“課長”じゃないけどな)



視線の先では。


彼女が普通に隣に座っている。


当然のように。



「これ」


「はい?」


「食べろ」


即答。


サラダを差し出してくる。



「課長、それ俺の皿ですけど」


「関係ない」


即答。


(もう理屈すら捨てたな)



午後。


会議室。


「橘さん」


役員が言う。


「最近、雰囲気が柔らかくなりましたね」


一瞬の沈黙。



「……業務には関係ありません」


即答。


でも、そのあと視線がほんの少しこちらに動く。



(バレてるバレてる)



夕方。


帰り際。


「今日も残業ですか?」


「必要ならな」


即答。



「じゃあ手伝います」


「勝手にしろ」


即答。


(もう完全に“いつものやつ”だな)



夜。


オフィス。


静か。


二人だけ。



「お前」


「はい」



「無理をするな」


即答。



「それ、毎回言いますね」


「毎回だ」


即答。



沈黙。



そして彼女は少しだけ視線をそらす。



「……いないと困る」



今度はもう、迷いがない。



「玲奈さん」


「なんだ」



「それ、仕事ですか?」



一瞬だけ止まる。


そして――



「……違う」


即答。



(やっと言ったな)



彼女は少しだけ息を吐く。


そして、ほんの小さく。



「……お前は、本当に面倒だ」



「今さらですね」



「ずっとだ」


即答。



でもその声は、もう冷たくない。



夜の帰り道。


並んで歩く。


距離はもう、空いていない。



「寒くないですか?」


「平気だ」


即答。


でも、少しだけこちらに寄る。



(いや寄ってるだろそれ)



「玲奈さん」


「……なんだ」



「名前、呼ぶの慣れてきました?」



沈黙。



そして、視線をそらして。



「……まだだ」


即答。



(絶対嘘だ)



少し歩いてから、彼女が小さく言う。



「……でも、悪くない」



夜風の中。


その一言だけで、十分だった。

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