第九十三話 母の逆鱗、兄ィズ大ピンチ!
学園の片隅では、また今日も大騒ぎが起きていた。
淑女教育の一環で、アリアは同年代の令嬢たちと一緒に礼法の稽古を受けていたのだが――
「背筋をもっと伸ばして、アリア様。淑女の微笑みは顎を引いて、口角をそっと上げるように……そう、その調子でございますわ」
「は、はい……えっと、こう、ですか?」
アリアは緊張しつつも、花を摘んだような柔らかい笑顔を作ってみせた。
それを見て周囲の少女たちは思わず「かわいい……」と小声でささやく。
けれど、廊下の外から――
「アリアがんばれえええっ!!!」
「背筋だ、背筋! おまえは完璧だ! よし! あと顎をほんの少し――」
兄レオンとノアの声が飛んでくる。
女子生徒たちは顔を見合わせて苦笑し、講師の令嬢たちは一斉に扇子で口を隠した。
廊下では、マクシミリアン先生が真っ赤な顔で二人を押しとどめている。
「ですから! 規則上、この部屋に男性は立ち入れません! 声を張り上げるのも禁止です!」
「俺は廊下にいる! 中に入ってないからセーフだ!」
「そうだ! 音量なら応援の範疇だ! むしろ妹の士気を高めるために必要不可欠!」
「不可欠ではありませんっ!」
先生の額には、もはや青筋が浮かんでいた。
――こんなやりとりが、日常茶飯事になっていた。
当然、学園からは何度も「レイフォード家のご子息の行動が目に余る」と苦情が入った。
しかし、そのたびに父アレクシスがにこやかに笑いながら帳消しにしていたのだ。
「お騒がせして申し訳ありません。息子たちは妹を大切にするあまりでして……」
「さすが伯爵閣下、ご理解が早い!」
「ご子息方もご立派で……」
そう、アレクシスの人脈と笑顔の一言で、全てが丸く収まっていた。
――母レイナ夫人に知られる、その時までは。
ある日の午後。
応接室で茶を楽しんでいたレイナ夫人は、何気なく書類を手にした。そこには「学園からの報告書」が、ふと混ざり込んでいた。
静かに読み進めた彼女の顔が、すっと無表情になる。
数行ごとにページをめくるたび、沈黙が重く落ちた。
「……アレクシス?」
「ん? どうした、レイナ。今日は天気がいいな。紅茶に蜂蜜を入れると――」
「学園からの苦情が“何度も”来ていた、と。しかも“あなたが処理していた”と。これは、どういうことかしら?」
にこやかだった伯爵閣下の顔が、凍りついた。
指先から持っていたティーカップがカタリと揺れる。
「……あー……これは……つまり……」
「説明なさい」
レイナ夫人の声は低く、しかし鋭く響く。
長年共に暮らしてきたアレクシスですら、ぞくりと背筋に冷たいものが走った。
その直後。
学園の裏門に停まっていたのは、豪奢なレイフォード家の馬車。
扉が開き、優美なドレスをまとった女性が降り立った。
母レイナ夫人である。
その姿を見たレオンとノアは、瞬間的に蒼白になった。
「……あれは……母上……」
「な、なぜここに……!? 父上が止めていたはずでは……!」
逃げ出そうにも、すでに遅い。
夫人はにっこりと微笑み――その背後に漂う冷気は、冬の嵐よりも厳しかった。
「まあ、息子たち。元気そうね」
「は、母上っ……! これは違うんです、俺たちはただ妹の成長を――」
「アリアが不安にならぬよう励まして――!」
「淑女教育の場を壊すほどに?」
一言で二人は沈黙する。
母の前で言い訳は通じない。
廊下の奥から、アリアが小走りに駆けてきた。
「お母さま! どうしてここに?」
「アリア。あなたは気にしなくていいのよ。ただ……兄たちが少し“やりすぎ”ているだけ」
その声は柔らかい。
けれど兄たちの耳には、処刑宣告にも等しく響いた。
その日の夕刻。
レイフォード邸の居間には、兄二人と父が並んで正座していた。
正面のソファに腰かけるレイナ夫人は、扇子を閉じて膝に置き、優雅に微笑んでいる。
「アリアは立派に成長しています。淑女教育の場で、あなたたちが大声を張り上げなくても」
「……はい……」
「わかりました……」
「アレクシス。あなたも」
「……はい……」
父まで項垂れる光景に、使用人たちは必死に笑いをこらえていた。
結局、兄ィズは「淑女教育の授業中は学園敷地に入らないこと」を約束させられた。
その後もアリアの頑張りを心配して、陰からこっそり見守ることはあったが――母の監視の目が光る限り、もう以前のように騒ぎを起こすことはできなくなったのである。
アリアはそんな兄たちの姿を見て、小さく笑った。
「……本当に、やりすぎなんだから」




