第百四十話 留学(=短期の海外修行)への準備。兄ィズの大騒動と母の説教
その報告を受けてからわずか数日後のことだった。
レイフォード伯爵邸の広間は、異様な緊張感と喧騒に包まれていた。
長机の上には、分厚い羊皮紙の書類が山のように積まれている。各国の教育機関から送られてきた案内状、推薦書、留学生受け入れに関する条件表。そこに裏メイド部隊が極秘裏に用意した詳細な情報──現地の治安状況や教師陣の素性、さらには寮の寝具の材質まで事細かく記された極秘報告書が混ざっていた。
その中心で仁王立ちする人物こそ、レイナ夫人であった。
冷たい眼差しと鋭い声が、伯爵家の嫡男たちを鋭く射抜く。
「ノア。レオン。お前たち二人は──“短期の海外修行”へ出てもらいます」
「なっ……!?」
「しゅ、修行っ!?」
ノアとレオンは同時に声を上げた。広間の空気が一瞬で騒然となる。
すぐさま兄ィズの抗議が始まった。
「ま、待ってくれ母上! 我々が留学? 修行? いったい誰がそんな無茶を!」
「そうだ! 俺たちはここで十分に学んでいる! 学園の教師陣ですら手に余るこの俺たちが、なぜわざわざ異国に……!」
レイナの目が細められる。冷徹な光を宿した視線に、二人は思わず一歩下がった。
「理由は言うまでもないでしょう」
夫人は一枚の報告書を机の上に置いた。
夜に捕らえられた賊の供述が記された極秘文書。そこにはこう書かれている。
──『学園の静けさを取り戻すため、あの兄ィズを遠ざけてほしい』。
その文言を目にした瞬間、ノアとレオンの顔が固まった。
「……俺たちが……学園の騒乱の原因?」
「そ、そんな馬鹿な……俺はむしろ学園を盛り上げていただけだ……!」
「盛り上げて、ね」
レイナは冷笑を浮かべた。「その結果が“賊にまで依頼されるほどの騒動”です。これは家の名誉にも関わる問題。学園からの信頼を取り戻すためにも、しばしの間、国外で“修行”をしてきてもらいます」
「お、俺たちが……売られるのか……?」
「そうか、母上……異国の地で、闇奴隷のように……」
「売りません」
レイナの一喝に、二人の妄想はあっさりと打ち砕かれた。
「これはあくまでも留学。短期の修行。決して売るのではありません。もっとも──お前たちの態度次第では、修行先が“極寒の山岳修道院”になるか、“灼熱の砂漠行軍隊”になるかを選ぶことはできますが?」
ぞぞぞぞぞ、と兄ィズの背筋に冷気が走った。
同時に、彼らの抗議は「全力の土下座」へと変わる。
「お、お許しください母上!!」
「俺たちは学園で大人しくしております! 二度と騒ぎを起こしません! だから修行は、修行だけはご勘弁を!」
その必死の懇願を、レイナは静かに見下ろしていた。
だが次の瞬間、彼女は両腕を組み、厳然たる声で告げる。
「──残念ながら決定事項です」
広間の空気が凍りついた。兄ィズの絶叫が響く。
「ぎゃあああああああ!!!」
その後の準備は驚くほど迅速に進められた。
裏メイド部隊がすでに大半を段取りしていたため、書類手続きも輸送の準備も滞りなく整っていく。むしろ大騒ぎしていたのは当人たち、ノアとレオンだけだった。
「いやだああ! 俺はアリアのそばを離れたくない!」
「修行って絶対辛いやつだろ!? 飯がまずいとか! 風呂がないとか!」
「兄上、俺たちは一心同体だ! こうなったら断固として戦おう!」
「そうだ! 全力で脱走してやる!」
その言葉を聞きつけた裏メイド部隊は、冷たい笑みを浮かべる。
「無駄な抵抗はおやめなさい。脱走の際は、我らが責任を持って“回収”いたします」
背筋を冷や汗が伝う兄ィズ。
そして極めつけは、母レイナの“説教”だった。
夜。伯爵邸の応接間。
兄ィズは正座させられ、レイナ夫人がその前に座る。背後には裏メイド部隊が並び、まるで公開処刑のような構図である。
「ノア。レオン。──お前たちがどれだけアリアを思っているか、母は知っています」
「……っ!」
「だが、その想いが周囲にどれほどの迷惑をかけているかも、理解しなさい。学園の静けさを奪い、家の評判を落とし、遂には賊を引き寄せるほどの存在になった……。これは、母として見過ごすことはできません」
夫人の声は、冷たい刃のように突き刺さる。
兄ィズは震えながらも、かろうじて声を絞り出した。
「で、ですが……俺たちはただ、アリアが心配で……」
「心配するのは結構です」
レイナは即座に言葉を切った。「ですが“正しい形”で心配しなければ意味がありません。お前たちに必要なのは“学び”と“自制”。国外での修行は、そのための機会です」
沈黙。
ノアもレオンも、言葉を失っていた。
レイナはため息を一つ吐き、柔らかく言葉を続けた。
「母としては、お前たちを手元に置いておきたい気持ちもあるわ。けれど、アリアのため、そしてお前たち自身のために──今は心を鬼にしなければならないのです」
その静かな言葉に、兄ィズの胸が少しだけ痛んだ。
自分たちは、ただ騒ぎを起こす道化ではない。母は本気で彼らの将来を案じている。
そのことを理解できる程度には、二人も大人になっていた。
「……母上……」
「分かりました。俺たち、修行に行きます」
「アリアを悲しませたくはない……。だから、ちゃんと学んで帰ってきます」
レイナはようやく微笑んだ。
「ええ。それでこそ、我が子です」
こうして──
兄ィズの短期海外修行(=留学)は、正式に決定されたのであった。
だが伯爵邸の人々はまだ知らない。
この“修行準備”が、彼らにとって予想外の大騒動の幕開けとなることを……。




