第百三十九話 売る? いや留学? レイナ夫人の深夜会議
夜の静寂を破ることなく、裏庭での一連の出来事は静かに片づけられた。捕らえられた賊たちは、表向きには兵士たちの手柄に見せかける形で牢に収められ、屋敷の平穏は再び取り戻されたように見えた。
しかし事の本筋はまだ終わっていない。裏で事態の全容を把握している者――裏メイド部隊の隊長ミリエルは、畳んだ報告書を丁寧に蝋封し、深夜の大広間へと向かった。今夜の件は単なる侵入事件ではない。標的が「兄ィズ」であったこと、依頼の出どころが学園関係者の保護者であること、そして彼らが「学園の静けさを取り戻すため」に報酬を払ったという点が、重大な意味を持っている。
その重さを知る者は、夫人ただ一人である。
レイフォード伯爵邸の客間。大きな暖炉の火がゆらりと揺れている。深紅のドレスに身を包んだレイナ夫人は、窓の外に向かって背を向けたまま、静かに動かない。彼女の背筋はいつも通り真直だが、その肩が今夜は少しだけ落ちているようにも見えた。
「レイナ様、報告を致します」
ミリエルは一礼し、紐で結んだ書類を夫人の前に差し出した。屋敷の中でさえ、こうして夫人の前に出るときは背筋を正さねばならない。夫人はゆっくりと振り向き、淡い光の中で隊長の顔を見た。
「ご苦労だったわ。話して」
声は冷静だが、どこか柔らかさも含んでいる。ミリエルは詳細を淡々と告げた。侵入の手口、賊の足取り、取り調べで分かった依頼主の匿名の情報、そして賊が口にした「学園の静けさを取り戻す」という言葉。
書類を一枚一枚丁寧に読み終えた夫人は、火を見つめながらゆっくりと息を吐いた。暖炉の炎が彼女の横顔に赤い光を落とす。
「――学園の平穏、か」
レイナは囁くように言った。彼女にとって学園とは、単なる人材育成の場ではない。次代を担う階層が育つ場であり、貴族と国の将来が交差する場所だ。そこへ自分の屋敷の騒動が波及することは、家の面目にも影響する。
ミリエルは慎重に言葉を選んだ。
「閣下(伯爵)に知られるとご心配をおかけする恐れがございます。ですから、まずは我々で事を収め、依頼の出どころを精査いたしました。結果、個人の保護者が静穏を望み、無理な資金で動かした可能性が高いと判明しました」
「無理な資金、ね……」夫人の唇が薄く結ばれる。
彼女は少しだけ目を閉じ、思考を巡らせる。表向きの解決で済ませることもできる。賊を処罰し、兵士の手柄として公表すれば、表面上は波風は立たないだろう。しかし内心の事態は収まらない。もし学園側の保護者が「手段」を選んでまで静かさを得ようとしたなら、それは学園の内部にかなりの疲弊がある証左だ。影響はいつか、伯爵家の娘へも跳ね返る。
「考えられる対策は幾つかある」ミリエルが静かに述べる。
「一つは、兄ィズ――ノア様、レオン様の行動範囲を制限する。学園へ行く回数を減らし、外出の際はさらに厳しい護衛を付ける。ただし、これは彼らの自由を大きく奪うことになり、伯爵家内に波紋を呼ぶでしょう」
「二つめは、公に学園側と調停を申し出ること。しかしここに大々的な問題を持ち出せば、王城の監視が強まる。現状、王城が学園に注意を向けている時期に、あまり大事を起こしては得策ではありません」
「それと、最後に──」ミリエルは書類を折り、テーブルに置いた。「もっと直接的な選択肢もございます。短期間の“学習の便宜”として、国外の教育機関(いわゆる留学)へ向かわせることです。表向きには学問のため、しかし裏を返せば、彼らを一定期間この土地から遠ざけることにもなります」
レイナの指がゆっくりとテーブルの縁を叩く。彼女は小さく笑みを漏らしたが、その目は厳しかった。
「“売る”のではないわね?」
ミリエルは即座に首を振る。「違います、夫人。あくまで“留学”です。語弊のある表現は避けねばなりませんが、実効性という観点では一定の効果が期待できます」
夫人の肩がかすかに震える。眼前にいるのは、自分の愛した子らを巡る難題。気安く笑い事で片づけられるような問題ではない。それでも脳裏をよぎるのは、あの夜の賊が口にした言葉。学園の「静けさ」がどれほど切実に望まれているか。もし兄ィズが一時的にでも遠ざかれば、学園に平穏が戻るのかもしれない。
だが、その先にあるものも見えている。アリアの悲しみ。それは彼女にとって耐えがたい。
「アリアが私の子である限り、私は彼女の幸福を最優先に考える。だが“幸福”の尺度はしばしば矛盾するのよ」レイナは低く言った。
ミリエルは一歩後ずさり、深々と一礼する。「夫人のご判断に従います」
レイナは黙り込んだまま、窓の向こうの星空を見上げる。闇の中にきらめく光は、学園の灯火、あるいは遠くの国の灯りかもしれない。彼女は思考を巡らせ、やがて口を開いた。
「留学させるとしても、条件は厳しくする。表向きには修学、だが向こうでの生活ぶりと教育内容は我が手で選ぶ。もし不都合があれば即刻呼び戻せるよう、送金の方法から滞在先の監視体制まですべて裏で組む」
その言葉には、母としての鋭い現実主義が滲む。彼女は感情で動くのではなく、損得と被害の回避を天秤にかけた。
「それと――」レイナは顔を上げ、ミリエルを真っ直ぐ見た。「あの者たち(依頼した保護者)に対しては、穏やかに関与を断るように促す。示談で済ませられるならば、粛々と片づける。ただし、二度とこういうことが起きぬよう、警告は厳格に行うこと」
ミリエルは頷いた。「承知しました。すぐに段取りを整えます」
だが、レイナの胸中にはまだ一つの迷いがくすぶっていた。留学させるという選択は、彼ら兄ィズ自身の成長と安寧には資するかもしれないが、それが娘アリアにとって正しいことなのか。家の名誉維持と娘の感情のバランス。母として、領主として、彼女はその均衡点を見つけねばならなかった。
深夜の会議は続いた。ミリエルは細かな計画案を述べ、費用の概算、協力者のリスト、国外の教育機関の候補、そして留学を装う正当な理由書案までを淡々と提示する。夫人は書類をめくり、その都度指示を与える。時折、言葉にユーモアのような皮肉を混ぜるが、その目は揺らがない。
会議の終わり――ミリエルが立ち上がると、夫人は小さく手を挙げた。
「隊長、お願いするわ。だがひとつだけ条件がある」
ミリエルは静かに聞く。「条件とは?」
「留学先での生活ぶりを、我が目で一度は見たいの。――まさかとは思うけれど、もし彼らが“学び”よりも“放蕩”を選ぶようなことがあれば、私が直接説教に行くから、その覚悟だけは持ちなさい」
ミリエルの眉が僅かに上がった。隊長らしい冷静さに、夫人のこうした頼みはどこか滑稽であり、また母としての本能を感じさせる。
「承知しました。夫人の命により即刻動きます」
微かな笑みが、二人の間に流れた。
翌朝、兵士たちは昨夜の騒ぎなどまるで知らぬ顔で朝の巡回に出るだろう。学園にも、父アレクシスにも、伯爵家の表の世界には波風ひとつ立たせぬように。だが屋敷の奥では、すでに動きが始まっていた。兄ィズの“留学”計画の輪郭が、静かに、しかし確実に形を取り始めるのだった。
レイナは暖炉の火を見つめ、つぶやくように言った。
「――あの者たち(兄ィズ)は、私の手で育て直す。誰もが平穏を望むのなら、母としてそれに応えるだけのことよ」
その決意は静かに、しかし確固として、屋敷の中に広がっていった。




