第百三十八話 裏メイドが片付ける夜の影(その2)
夜のレイフォード伯爵邸は、表向きは静寂に包まれている。
しかし、屋敷の陰に身を潜める者たちの呼吸と足音を、裏メイドたちは決して見逃さなかった。
「……また来たわね」
影の中、冷静に囁いたのは裏メイドの一人、クロエ。彼女は双刃の短剣を抜き、月光を反射させぬよう角度を調整する。
「今宵の狙いは……」
別のメイド、サラが報告を持ち込む。
「――どうやら、アリアお嬢様ではなく。ノア様とレオン様です」
一瞬、空気が張り詰めた。
標的が兄ィズ――すなわちノアとレオンであると知った裏メイドたちは、思わず顔を見合わせる。
「兄ィズ……?」
「なぜ……?」
「まさか、敵が狙いを変えてきたのか?」
通常ならば、お嬢様を護ることこそが最優先。だが、兄ィズが狙われる理由が不明瞭な以上、無視することはできない。
クロエは眉をひそめ、冷ややかな声で続けた。
「とにかく捕らえて尋問する。理由を確かめなければ――」
その時すでに、黒装束の賊たちが庭を走り抜け、壁をよじ登ろうとしていた。
裏メイドたちは音もなく動く。影から影へ、風のように滑る。
「侵入者、五名。三手に分かれたわ」
「任せなさい、すぐに片付ける」
短い合図ののち、闇夜に小さな鈍い音が連続した。
数息の間に、賊たちは声を上げる間もなく無力化され、裏庭の物陰へと引きずり込まれていった。
「さて……理由を吐いてもらうわよ」
縄で縛られた賊たちは、冷えた石畳の上に並ばされていた。目隠しを取られると、数人は恐怖で顔を引きつらせる。
裏メイドたちの目は、光を宿さぬ刃そのもののように鋭い。
「……アリアお嬢様の命を狙ったのではない。今回はノアとレオンだ。なぜだ?」
クロエの問いに、賊の一人が舌を噛みそうになりながら答えた。
「い、いや……その……依頼なんだ。俺たちは雇われただけで……!」
「誰に?」
「学園の……とある生徒の保護者から……」
裏メイドたちは一斉に眉を上げた。
「理由を言え」
「そ、それは……」
賊は必死に視線を逸らし、言葉を濁す。だが短剣の刃が喉元をかすめた瞬間、耐え切れず叫んだ。
「――学園の静けさを取り戻したいからだッ!」
裏メイドたちの動きが止まった。
時が、ぴたりと凍り付く。
「…………」
「…………え?」
「……どういう、こと?」
「ノアとレオンがいると、学園が騒がしい。女子たちが悲鳴を上げるし、授業も中断するし、先生たちも疲弊してるんだ! だから……だから報酬を積んででも……あの兄ィズを連れ去ってほしいって……!」
その瞬間。
裏メイドたちの表情は、見事なまでにチベットスナギツネへと変貌した。
冷めきった、乾いた目。
感情をどこかへ置き忘れたような、無の顔。
「…………」
「…………なるほど」
「……理由としては、実に筋が通っているわね」
クロエが小さくため息をつく。サラは額に手を当て、別のメイドは地面を見つめたまま口を開けている。
「要するに……兄ィズは害獣扱いということ?」
「否定はできない」
「むしろ学園の平穏のために、連れ去った方が良いのでは……?」
一同、再び沈黙。
「しかし……」
クロエは口を開いた。
「もし兄ィズがいなくなれば、アリアお嬢様が……」
そこまで言いかけ、全員が同時に想像する。
――悲しみに暮れるアリアの姿。
――いや、もしかすると肩の荷が下りて笑顔になる可能性。
「……どっちだと思う?」
「……難しい問題ね」
「お嬢様は優しいから、きっと悲しむ。あんな兄ィズでも……そう、あんなものでも」
「でも、本音では……解放感を覚えるかも」
裏メイドたちが真剣な顔で議論を始める。まるで国家機密を巡る会議のような熱気だが、テーマは「兄ィズをどうするか」。
「これは……裏メイド始まって以来の、最大の悩みだわ」
「いっそ依頼を達成させてしまった方が、世のため人のためになるのでは?」
「だが、我々はお嬢様を悲しませるわけにはいかない」
「しかし兄ィズの存在は……」
悩みは深まり、答えは出ない。
議論を続けているうちに、捕らえられた賊たちは戸惑い始めた。
「な、なあ……俺たち、解放されるのか?」
「え、逆に依頼が通る……?」
裏メイドの一人が呟く。
「……依頼を成功させるために、わざと解放してやるのも一手ね」
クロエは長い沈黙の末に答えた。
「だが……やはり駄目だ。兄ィズを護ることも、お嬢様を護ることの一部。あんなものでも」
全員、重々しくうなずく。
その瞬間、近くの木の陰から――。
「ふっふっふ、やはり俺を狙う輩がいたか!」
ノアが飛び出してきた。続いて、
「くっ、我が人気ゆえの試練か!」
とレオンが胸を張る。
裏メイドたち全員の顔が、もう一度チベットスナギツネに戻った。
「……はぁ」
「護る価値、あるのかな……」
「とりあえず、縛り直しておきましょう。依頼人に返したら、国が平和になるかも」
そんな小声のやり取りを、兄ィズは全く気づかずポーズを決めていた――。




