第百四話 母レイナ、思案に沈み、そして決断す
屋敷に帰り着いたのは、夜も更けたころであった。
大広間での騒動が夢だったのではないかと錯覚するほどに、レイフォード伯爵邸は静かに満ちている。玄関ホールには、昼間に活けられた花がまだ香りを残し、壁に掛かる燭台の灯りが優雅に揺れていた。
けれど、その静謐さの裏で、レイナ夫人の心は落ち着かない。
――あの子の魔力は、想像を超えている。
馬車で帰る途中、アリアはぐっすりと眠り込んでしまった。疲労で瞼を支えられなくなっただけなのか、それとも……暴走した魔力が彼女の身体を蝕んでいるのか。母としては、ただ心配が募るばかりだ。
「……制御はできるようになったと思っていましたけれど」
夫人は己の吐息を押し殺した。
魔力制御に習熟したからこそ、学園へ送り出した。だが現実は、学園に入学してからのほうが事件が多い。
不可思議な暴発、突発的な発動、そして……ありえぬはずの神級召喚。
エルダリオン。
あのような存在を呼び出すなど、歴史上に前例があるのかすら怪しい。
――ただの「魔力制御」の話では、もう済まされないのではないか?
アリアは危うい。
けれども、アリアを「危うさ」として縛り上げてしまうのは違う。彼女の力はきっと、この国の未来に必要になる。母としても、貴族としても、そう直感せざるを得ない。
だが。
「……どうにかしなければ」
小さく呟いたその声は、夜気に吸われて消える。
レイナ夫人は着飾っていたドレスを脱ぎ、居室では柔らかな室内着に身を包み、居室にて一人ソファに腰掛けていた。
カーテンの隙間から月明かりが差し込み、淡い影を作っている。静けさの中で、ただ彼女の思考だけが止まらなかった。
そのとき。
――コンコン。
いや、正確には「コン」すらなかった。
ノックの音は響かず、扉は唐突に開いたのだ。
「母上!」
「お話が――」
ずかずかと入ってきたのは、ノアとレオン。仲良く二人並んで立っている。
レイナ夫人の眉間にしわが寄った。
「……あなた達、ノックすらできないのですか?」
その声音は、氷点下まで下がった空気を帯びていた。
居室に漂う温度が一気に下がったかのように、兄ィズは直立不動となり、視線すら彷徨わせている。
レオンは内心で「やばい」と叫び、ノアは「何故俺まで一緒に怒られる……」と顔を引きつらせた。
「……」
「……」
二人とも、入ってきた理由を言えない。
レイナ夫人は、すっと視線を二人に流した。
アリアのことを考えていたはずが、ふと別の問題が脳裏をかすめる。
――そういえば、この二人も放置してよいのかしら?
ノアもレオンも、それぞれ天才肌であることは間違いない。
ノアは頭脳明晰、剣も魔法も卒なくこなす。レオンは情熱家で、人を惹きつける資質を持つ。
けれど――。
「……アリアのことより、まずこの二人をなんとかしたほうがいいのではなくて?」
母は心の底からそう思った。
魔力暴走に振り回され、兄ィズの過剰な過保護に振り回されるのでは、アリアが休まる暇などない。
ならば――兄達に、修業を課すべきだ。
それも、厳しく。徹底的に。
他家へ修業に出す? いや、迷惑に決まっている。
ならば、山奥にでもこもらせて、野獣と戦わせ、魔獣と走らせ、自然に揉まれて強くさせるのが一番だろう。
「……山奥に籠もらせるのも、案外よいかもしれませんね」
ぽつりと呟いた瞬間――。
「ま、待ってください母上!?」ノアが青ざめる。
「山奥!? 俺たちを熊と戦わせる気か!?」レオンが叫ぶ。
レイナ夫人はすっと目を細めた。
「何も言っていないでしょう?」
「今、言いましたよね!?」
「聞き間違いではなくて?」
母の優雅な笑みに、兄ィズは背筋を凍らせる。
レイナ夫人は扇を取り出し、すっと開いて顔の前にかざした。
ひらりとした所作は美しく、けれどその裏にある決意は鋭い。
「いいですか。あなた達――」
扇の隙間から、母の視線が二人を射抜いた。
「アリアを守ると豪語するのならば、その実力を証明してみせなさい。口先だけでなく、行動で。己の未熟を思い知り、鍛え直してきなさい」
ノアもレオンも、返す言葉を失った。
――かくして。
レイナ夫人の思索は「アリアの危うさ」から「兄ィズの修業」にまで広がったのだった。
母は色々と大変なのである。




