第九十六話 父アレクシスが再び裏工作を試みて失敗
レイフォード邸の一角にて、父アレクシスはひとり深いため息をついていた。
書斎の机に山積みになった書類を脇へ押しやり、額を押さえるその姿は、まるで大国の宰相でも務めているかのような重々しさである。だが、現実は――。
「……このままでは、アリアが誰にも守られずに……っ!」
口に出した瞬間、自分で「いや、違うな」と小声で首を振る。アリアには信頼できる護衛も侍女もいるし、学園側の警備だって厳重だ。何より、レイナ夫人が細やかに目を光らせている。
だが――父という立場上、どうしても胸の中に「このままでは危ういのでは」という思いがこびりついて離れなかった。
というのも、現在レオンとノア――アリアの兄たちは、とある理由により学園に顔を出すことを禁じられていた。
その理由とはもちろん、母レイナによる「鍛え直し」である。
たとえば早朝五時からの庭園マラソン、剣を持たずに己の体だけでの模擬戦、礼儀作法の再学習に、裁縫・料理・家事一切の修行。あの二人はすでに心身ともに鍛えられ、どこかしら憔悴しながらも妙に精悍さを増していた。
「母レイナに鍛えられる兄たち……いや、狂気の訓練を受けている兄たち……」
アレクシスは机に拳を置いた。
「つまり! アリアを護るべき存在が不在なのだ! となれば父である私が立ち上がらねばなるまい!!」
書斎の窓から差し込む陽光を浴び、ひとり勇ましく拳を握る。
だが、その背後――。
「……アレクシス様。お仕事はどうなさいましたの?」
「――っ!」
背筋を凍らせる声が飛んできた。レイナである。
彼女は相変わらず涼しげな表情で、淑やかに微笑んでいた。だが、その瞳の奥には、すべてを見透かすような鋭さが光っている。
「い、いや、レイナ……これはだな、決して遊んでいたわけでは……」
「また“裏工作”をお考えなのではありませんこと?」
「な、なぜそれを!?」
机に広げた地図と、アリアの学園周辺の見取り図、そしてこっそり書き込まれた“巡回経路”“見張り塔”のメモ……。
レイナが一歩近づいただけで、アレクシスは慌ててそれらを手で隠す。
「……やはり」
レイナは深いため息をついた。
そのころ、当のアリアは学園にて、優雅にティーカップを手にしていた。
授業の合間に開かれる小休憩。淑女教育の一環として、茶葉の香りや注ぎ方、会話の作法まですべて学ばされる。
「アリア様、今日は落ち着いておられますのね」
「まあ……兄たちが騒ぎに来ないのですもの。静かで、逆に不思議な気持ちになるわ」
同級生たちがくすくす笑う。
だが内心のアリアは少し不安でもあった。普段なら窓から突然ノアが飛び込んできたり、廊下の角からレオンが剣を抜いて現れたりする。――そんな日常がないと、かえって調子が狂う。
「……兄さまたち、どうしているのかしら」
ぽつりとつぶやいた言葉は、当然屋敷には届かない。
しかし屋敷では――。
「アレクシス様。アリアのことは、私がすべて手配しております」
「し、しかしだな、レイナ! 何かあってからでは遅いのだ! 護衛が足りぬ! 監視が甘い! 万一不審者が入り込んだらどうする!?」
アレクシスの叫びは必死だった。
だがレイナは一切動じない。
「……それを防ぐために、私がいるのです」
「ぐぬぬ……」
アレクシスは奥歯を噛みしめる。
父として、男として、家長として――自分だって娘を守りたいのだ。しかし妻レイナはそれをすべて先回りし、完璧にこなしてしまう。
結果、アレクシスができることといえば――こっそり裏で手を回すくらい。
「……いや、諦めてなるものか。今度こそ成功させてみせる!」
彼は夜更けに屋敷を抜け出し、密かに腕利きの傭兵を雇おうと画策する。学園の周囲を警護させ、万一に備えるのだ。
だが――。
「旦那様、その件でございますが」
傭兵を紹介したはずの仲介人が、なぜか屋敷の廊下で待ち構えていた。
しかも、背後にはにこやかなレイナ夫人。
「――っ!!!」
アレクシスは頭を抱えた。
翌日。
「父上……これは一体……」
レオンとノアが、庭で謎の“護衛部隊”を連れ立って佇む父を見つけた。
傭兵たちはすでに契約解除され、レイナにより「庭の掃除係」として転用されていた。
「くっ……なぜ、なぜこうもうまくいかんのだ……」
地面に崩れ落ちるアレクシス。
それを見ていたアリアは、両手で口を覆いながら、困ったように微笑む。
「……お父さまも、やりすぎよ」
その言葉に、レイナが満足げにうなずいたのは言うまでもない。




