第九十五話 兄ィズが“母に鍛えられた成果”を披露する回
それから一か月が過ぎた。
アリアが学園で淑女教育に勤しむ日々の裏で――いやむしろその陰で、レイフォード邸の一角では別の地獄絵図が繰り広げられていた。
父アレクシスの手をすり抜け、何度も学園に押しかけようとした兄ィズ――長兄ノアと次兄レオン。だが、とうとう母レイナに事実が知れ渡ってからというもの、二人の運命は大きく変わってしまったのだ。
優雅な微笑みを浮かべながらも、決して逆らえない気迫を放つ母。
その教育方針はシンプルかつ容赦なかった。
「娘を思う気持ちがあるのは分かります。ですが、淑女教育の場に乱入するのは以ての外。ならば、あなたたちには“別のかたち”で鍛錬を積んでもらいましょう」
こうして始まったのが――レイナ式・家庭内更生計画である。
◆
最初は軽いものだった。
庭の手入れや温室の掃除、朝の礼儀作法のやり直し。
だが、日に日にレベルは上がっていった。
「ノア、背筋が曲がっているわ。貴族の長男として見苦しい姿勢は許されません」
「レオン、妹を思うならばまず自分を律しなさい。剣の腕ばかり磨いても、言葉遣いが粗野では淑女の前に出せません」
昼は馬術訓練の復習、夜は舞踏会の模擬練習。
さらには料理や裁縫、屋敷の使用人の仕事に至るまで――。
「お母様っ……! なぜ僕たちが裁縫を……!」
「ノア。あなたがアリアのドレスの裾を踏んで破ったらどうするの?」
「ぐぬぬ……」
「お母様、包丁は……その、武器ではなく料理に……?」
「レオン。お肉を切るのも野菜を刻むのも、基本は剣の扱いと同じよ」
「(ちがう、全然ちがう……!)」
二人は何度も悲鳴を上げながら、母の笑顔に押し切られていった。
◆
そして今――一か月が経ち、久々に兄たちと顔を合わせた父アレクシスは、目を疑った。
「……お前たち、いったいどうした?」
ノアは背筋を伸ばし、涼しい顔でティーカップを持ち上げる。
レオンは優雅に一礼し、声を低く整えてから口を開いた。
「父上、本日の紅茶は香りが格別にございますね」
「そうですね兄上。お菓子も甘すぎず、口当たりが良い」
……誰だこの青年たちは。
以前ならばアリアの名を聞いただけで立ち上がり、馬に飛び乗って学園へ直行するような兄ィズだった。
それが今や、まるで王宮のサロンに招かれた紳士のように落ち着いている。
「信じられん……。レイナ、いったい彼らに何をしたのだ?」
問いかけるアレクシスに、レイナは紅茶を口に含み、優雅に微笑んだ。
「ちょっと“母として当然のこと”をしただけですわ」
◆
学園から帰宅したアリアは、その光景にさらに驚愕した。
「に、兄さまたち……?」
彼女の前でノアとレオンは立ち上がり、まるで舞踏会の挨拶のように丁寧に一礼する。
「おかえりなさい、アリア」
「今日も学園で立派に学ばれたことでしょう」
――誰!?
思わず後ずさりしそうになったアリアは、じっと兄たちを観察した。
確かに顔は兄たちだ。けれど、動きも言葉も、あまりに別人のように洗練されすぎている。
「え、ええ……ただいま。えっと……今日は舞踏の練習で……」
「そうか。それは素晴らしい」
「今度、我らもご一緒できれば光栄だ」
……無理。絶対におかしい。
◆
だが、その完璧な仮面は長くは続かなかった。
「アリア、あなたのドレスの裾が……」とノアが近づいた瞬間――。
びりっ。
「――ああああっ! ドレスが裂けた!?」
「な、何をやっているんだ兄上!」
「ち、違う! これは偶然で……!」
慌てふためくノア。
その姿を見て、レオンもつい本性を現す。
「誰だ、アリアのドレスをこんな脆い布で仕立てたのは!? 直ちに呼び出して……!」
「レオン兄さま、落ち着いて!」
瞬く間に兄たちは元通りの“暴走兄ィズ”へと逆戻りしていた。
◆
そんな二人の様子を背後からじっと見つめる存在――レイナ夫人。
「……ふふ、まだまだ鍛えが足りませんね」
その笑顔に、兄たちは全身を震わせた。
「お、お母様!? い、いえ今のは……っ」
「違うのです、母上! これは不可抗力で……!」
再び雷が落ちることを悟った兄ィズ。
アリアはそんな兄たちを見て、つい口にしてしまった。
「……これでおとなしくなるはずがないわ」
そして小声で、くすっと笑う。
「だって、やっぱり兄さまたちは兄さまたちだもの」
◆
アレクシスは頭を抱え、レイナはさらなる鍛錬の計画を練り、アリアは兄たちの暴走を予感して苦笑する。
――兄ィズが母に鍛えられた成果を披露しても、結局は空回り。
それでも彼らの妹への情熱は、何よりも本物だった。




