第九十四話 兄たちが母の目をかいくぐろうとする
レイフォード家の朝は、いつにも増して重苦しい空気が流れていた。
重苦しいと言っても、それは父アレクシスの厳格さゆえではない。彼はすでに執務室へ引きこもり、帳簿と政務の書類を睨みつけていたからだ。
重苦しさの原因は――母レイナ夫人。
いつもは優雅に微笑み、家族を温かく包み込む彼女が、今は冷ややかな目をしている。長い金の髪をきっちりとまとめ、背筋を伸ばして居間の中央に座るその姿は、まるで“裁判官”であった。
そこへレオンとノア、そして巻き込まれたアリアが顔を揃えている。
「さて……」
レイナ夫人は静かに扇をたたんだ。その音ひとつで、レオンとノアはぴしっと姿勢を正す。
「あなたたち、最近……学園で“騒ぎ”を起こしているそうね?」
低い声。笑ってはいない。
レオンとノアの背筋に、冷たい汗がつっと伝う。
「い、いや、その……母上」
「ぼ、僕たちはただ……アリアを守ろうと……」
「守る? 守るために教師を廊下に引きずり出したり、女子生徒に取り囲まれたアリアを王女のように救い出したり、授業の邪魔をしていると、私の耳に入ってきたけれど?」
レイナ夫人の言葉は矢のように鋭く、兄たちの胸に突き刺さる。
アリアはおろおろと兄たちを見て、慌てて口を開いた。
「ま、まま上っ、兄さまたち、確かにちょっとやり過ぎですけど……でも、私を大事に思ってくれてるだけでして……」
「アリア」
レイナ夫人は娘に優しく視線を向ける。
「あなたの兄たちが、あなたを大事に思っているのは、私だって知っているのよ」
その目が再び兄ィズに戻る。
「……けれど、“やり方”が問題なのです」
レオンとノアは同時に肩を落とした。
◆兄ィズの悪あがき開始!
その日の午後。
兄たちは早速“母の目をかいくぐる作戦会議”を開いた。
「いいか、ノア。母上は確かに鋭いが、父上と違って四六時中見張っているわけじゃない」
レオンが低声で言う。
「ふむ……。つまり、監視の目をすり抜ければ、アリアを護れるってことだな!」
ノアの目がぎらりと光る。
アリアはテーブル越しにじとっと睨んだ。
「兄さまたち、諦めたらどうですか? 母上には絶対に見抜かれますわ」
「アリア、俺たちは兄だぞ! 妹を守るのは当然だろう!」
「そうだそうだ! 母上の言う“規則”とやらで、大切な妹を危険にさらせるか!」
「……だから、その“危険”って何ですかぁ!」
アリアの叫びはむなしく響いた。
◆作戦その一:変装
レオンとノアは、メイド服と庭師の作業着を用意した。
「これなら母上の目も誤魔化せる!」
ノアが誇らしげにメイド服を手に取る。
「おい、俺がメイド役か?」
「当たり前だろ。兄上は顔が目立つから。俺が庭師で裏口から。兄上は室内に潜入だ」
アリアは額を押さえた。
「……お願いですから、やめてください」
結果。
変装した二人は、屋敷を出る前にレイナ夫人に出くわし、あっさり捕まった。
「……庭師にしては腰の動きが軽すぎますね。メイドにしては背が高すぎますし」
扇をぱちんと鳴らして、レイナ夫人は冷ややかに告げた。
「変装なんて百年早いわ」
◆作戦その二:護衛を雇う?
次に考えたのは、代理を立てることだった。
「そうだ! 友人に頼めばいいんだ!」
ノアが叫ぶ。
「だが……俺たちの友人に“女”はいないぞ」
レオンが腕を組む。
「そ、それは……! あ、演劇部から借りればいいんじゃないか? 女装慣れしてるやつがいる!」
「…………」
アリアはそっと距離を取った。
(どうして私の兄たちは、こう、突飛な発想しか出てこないのかしら……)
だがこの案も、友人を呼び寄せる前にレイナ夫人の耳に入り、即座に阻止された。
◆作戦その三:抜け道から!
「最後の手だ」
レオンが夜の廊下を忍ぶ声で言った。
「裏庭から馬小屋を抜け、壁をよじ登って学園へ……!」
「おお、スリル満点だな!」
ノアの目は冒険心に輝いていた。
アリアは、寝間着姿のまま扉の陰からそれを聞き、膝から崩れ落ちた。
(兄さまたち……どこまで本気なんですか……!)
そして案の定、廊下の角を曲がった先に、腕を組んだ母レイナ夫人が待っていた。
「――いい加減にしなさい」
その声に、レオンもノアも凍り付いた。
◆母の本気
居間に引き戻された兄ィズは、正座させられていた。
アリアは兄たちを庇おうとしたが、母はにっこりと微笑むだけだった。
「アリア、心配しなくても大丈夫。私は怒ってなどいないわ」
「ほ、本当ですか?」
「ええ。ただ――“教育”の一環としてね。兄たちにも礼儀作法を身につけてもらおうかしら」
「「「ええええっ!?」」」
その日から、兄ィズはアリアと一緒に礼儀作法の訓練を受ける羽目になった。
食事の作法、舞踏の姿勢、茶会での会話。
淑女教育どころか、“兄ィズの淑女教育”が始まったのである。
◆アリアの同情
一週間後。
兄たちは背筋をぴんと伸ばし、ぎこちなくティーカップを持っていた。
「こ、こうか? アリア」
「う、うん……レオン兄さま、少しは上達しましたわ」
ノアは足を組んで座るが、ふくらはぎがつって顔が真っ赤になっている。
「ぐ、ぐぬぬ……母上の課題、厳しすぎる……」
その姿を見て、アリアはついにくすりと笑ってしまった。
「兄さまたち……なんだか、可哀想になってきました」
「アリアぁ……」
レオンとノアの瞳が、潤んだ。
だがその瞬間。
扇を手にしたレイナ夫人が背後からすっと現れる。
「まだ姿勢が崩れていますよ」
「「「ひぃっ!」」」
こうして、母の圧倒的な支配の下で、兄ィズの“護衛作戦”はことごとく失敗に終わった。
だが同時に、アリアは気づいてしまう。
(母上は、兄さまたちの気持ちを全部わかっていて……でも、ちゃんと正しい形に導こうとしてるんだわ)
レイナ夫人の強さと優しさに、アリアは改めて尊敬の念を抱くのだった。




