第一話 ──また家族に甘やかされてしまいました。
「……あぁ……また残業、か……」
机の上に積まれた書類を見て、私は小さくため息をついた。
時刻はすでに午後十一時をまわっていた。終電は……もうない。
デスクの引き出しに常備してあるエナジードリンクを取り出して、一気に飲み干す。これが、今日三本目。
「誰かに……甘えたかったなぁ……」
ぽつりとこぼれた言葉は、誰にも届かず、静かなオフィスに吸い込まれていった。
***
──次に目を覚ましたとき、私は赤ん坊になっていた。
真っ白な天蓋のゆれるベッド。ふわふわのシーツ。
そして、優しく私の手を握る女性の声が聞こえてくる。
「かわいい……本当に、かわいい……私たちの奇跡の子よ……」
母親らしき人が泣きながら笑っている。隣には、がっしりした肩幅の男性。父親……なのだろう。
その腕の中に、見慣れない鎧姿の小さな子どもが二人。
「妹ちゃん……はじめましてっ!」
そう言って、鎧姿の幼い兄がぎこちなく私のほっぺをつついた。
……なんだこの状況。え、転生? 本当に?
私は赤ん坊なのに頭がフル回転した。どう考えてもおかしい。
でも確かに、私はあの夜、エナジードリンクを飲んで意識が遠のいた……
それが最後だった……。
***
時は流れ、三歳になった。
私は「アリア・リュミエール・レイフォード」という名の伯爵家の三女として平穏な人生を歩み始めていた。
三人兄妹の末っ子で、兄が二人。
上の兄は冷静沈着な十五歳のノア。剣術も魔法も才覚があり、すでに「天才」と呼ばれている。
下の兄──とはいえ十三歳──のレオンは、元気で優しいお兄ちゃん。私が泣けばすぐにおもちゃを投げ出して駆けつけてくれる。
二人とも、私を溺愛している。……びっくりするくらいに。
父は豪快で厳格なように見えて、私の前ではデレデレ。
母は優雅で気品に満ちた女性だが、私のことになると甘やかし方が異常だ。
──正直、戸惑っていた。
私の前世は、両親を早くに亡くし、祖母に育てられた。
その祖母も高校の頃に亡くなり、私はたった一人で生きてきた。
友達づきあいも苦手で、仕事に逃げて、過労で死んだ。
だから、今のこの家族の愛情に、私はどうしても「慣れない」ままだった。
(だけど……)
そんなことを思いながら、私は自室のベッドで静かに呟く。
「……家族に、恩返ししたい」
このあたたかさを、今度こそ守りたい。
たくさんの愛をもらったのだから、今度は私が“与える”側になりたい。
その気持ちは、日に日に強くなっていった。
***
五歳の誕生日。私は、ある決意をする。
「お父様、お母様。私、お勉強をしたいです」
「えっ!? アリア、まだ五歳よ? そんな……無理しなくていいのよ?」
母は心配そうに眉をひそめたが、私はにっこりと笑った。
「大丈夫です。将来、お父様のお仕事のお手伝いができるようになりたいんです」
「アリア……!」
母が感動して私を抱きしめた。父も目を潤ませながら、私の頭をわしゃわしゃ撫でてくる。
兄たちは、どうやら廊下からこっそり聞いていたようで──
「アリアえらいっ! レオンお手伝いするっ!」
「無理はするな、でも……お前の心はちゃんと伝わった。誇らしいぞ」
なぜか一家総出で私の「お勉強」が始まることになった。
──結果、私は前世の知識と観察力、そして溺愛による英才教育で、すくすくと育っていった。
兄たちは剣と魔法の訓練の合間に、私の勉強を手伝い、
母は貴族としての作法や礼儀作法を優しく教えてくれる。
父は騎士団長として忙しい中、休日には必ず一緒に魔獣の図鑑を読んでくれる。
気がつけば──
「アリア様は、もう初等魔法を一通りマスターされたのですか……? 五歳で?」
「ひっ、姫様! その剣さばき……どこで……!?」
「領地の収穫管理の帳簿を手伝ってくださった!? お、恐れ多いっ!」
周囲の大人たちがざわつくほど、私は「やりすぎて」いた。
でも、それでもいいと思っていた。
家族に喜んでもらえるのなら、私は何でもしたかった。
……ただ、少しだけ気になるのは──
「アリアはすごいなぁ……でも、無理はしないでね?」
レオンがぽつりとそう言ったこと。
「アリア、少し休め。最近寝るのが遅いらしいな」
ノアも、普段は無表情なのに、そのときばかりは眉を寄せて心配していた。
(……ああ、また甘やかされてしまった)
私はくすりと笑う。
今世はきっと、幸せになるって、決めたんだから。