名札
生まれて初めて小説を書きました。
ですので、温かい目で読んでいただけると幸いです。
本作品はPixivとの同時掲載予定です。
追記 2023年4月26日14時12分
誤字と改行忘れの箇所を何箇所か発見したため、本文を修正いたしました。
内容はほとんど変わっておりません。
ご容赦いただきますようお願い致します。
忘れられない光景がある。
それはあまりに非現実的で、誰かに話したところできっと信じてもらえないような出来事だった。
自分の中でも、その時の記憶が少しずつ変質していくような感覚があって、どこまでが本当でどこからが虚構なのか、自信を持って断言するのが難しく感じ始めている。
だから、自分の記憶が鮮明なうちに、詳細を書き残しておこうと思う。
自分にとっては少なくとも、とても重要な光景だったから。
あれは、中学二年、一学期の始業式の日のことだった。
✳︎
やったぜという喜びの気持ちと、良かったという安堵の気持ちとが半々だった。
松山は、二年八組の教室前、廊下に貼り出されたクラス名簿を見ていた。
自分の名前と、そしてその二つ上に書かれた「冬田」という名前を確認した。
今年も同じクラスだ。
端的に言ってしまうと、冬田とは松山が内心こっそりお気に召している女子のことである。
いかにも女の子という感じの顔立ちと仕草を持っている子で、他の女子と比べると落ち着いた清楚な感じがあった。
ボブカットをちょっとセミロング寄りにしたくらいの、校則をきっちり守るタイプの女子は大体これという髪型にしていたが、それがよく似合っていた。
おとなしい雰囲気なので男子皆から大人気という感じではないのだが、それ故に松山の心をくすぐる何かがあった。
(一年の時は班活動以外ではなかなか話しかける勇気が出せなかったけど、今年は頑張って仲良くなるぞ……!)
松山はそう思いながら自分の席に着く。
同じクラスになった友人としばらく話していると、冬田が教室に入ってきた。
出席番号が近いので席もすぐそばだ。
精一杯の爽やかさを込めて挨拶をする。
「あ、おはよう冬田さん。今年も同じクラスだね」
冬田が松山に気づく。
「おはよう。松山君も同じクラスだったんだ。今年もよろしくね」
ニコッと目尻と口角に控えめな皺を浮かべて一言返事をすると、冬田は自分の席に座り荷物の整理を始めた。
とりあえず挨拶ノルマはクリア、と松山は内心で人心地ついた。
冬田も松山も比較的大人しい性格なので、この二人だけで会話が盛り上がるということはほとんどない。
何か冬田さんと共通の話題を作れないかなぁ、と松山は思った。
✳︎✳︎
始業式と年度最初のホームルームが終わると早くも解散、もう放課後だ。
松山は一度帰宅して昼食を食べた後、部活のために再度学校へ向かう。
そう言えば今年はクラスの連絡網を配られなかったな、と松山は思う。
ここ数年で個人情報の取り扱いが一気に厳しくなっているらしく、去年まではクラス全員の連絡先が載った連絡網が配布されていたのだが、今年からは生徒それぞれに自分が連絡を回す次の連絡先だけを教える形になったようだ。
去年の連絡網は自宅の電話機のすぐ横に貼ってあるのだが、視界に入ると冬田の連絡先だけを妙に注視してしまい、おかげで電話番号を覚えてしまった。
特別仲良くもないのに電話番号を覚えてるなんて知られたら、大層気持ち悪がられるに違いない、などと思いながら松山は自転車を漕ぐ。
✳︎✳︎✳︎
通常の練習に加えて新入生勧誘活動のための準備もあり、部活は普通の午後練と比べるとやや遅い解散となった。
帰宅しようとする松山だったが、ふと今日のホームルームで配られた調査票を教室に置き忘れてきたことに気づく。
「すまん、忘れ物したから教室に取りにいってくるわ」
「ほんなら、俺ら塾行かなあかんから先帰っとくで。
幽霊が出るかもしれんから気ぃつけや。
こわやこわや……」
いやいやまだ陽は照ってるし幽霊なんて出ないだろ、などと冗談を言い合いつつチームメイトたちと別れ、松山は二年八組の教室に向かう。
渡り廊下に面している、築四十年は経っているであろう古い校舎の扉は、まだ施錠されていなかった。
中に入ると人気は全くなく、これくらいの静けさなら確かに幽霊も出てくる余地はあるかもしれない、などと松山は思った。
松山にとっては、「放課後の校舎に鍵がかかっていないままで、忘れ物を回収するために勝手に入る」というのは別におかしいことだとは感じない。
しかし、巷では学校に外部から不審者が侵入するという物騒なニュースが全国的に増えているようで、今後は校内のセキュリティがより厳しくなるという噂もある。
校舎は、教室に日光がより多く取り入れられるように廊下を北向きに、教室を南向きに作られている。
窓から差し込む傾きかけた太陽の眩しい光が、整然と並べられた机と椅子の列に黒々とした影を刻み込んでいた。
松山はこの光景が好きだった。
陰影の美しさと陽の暖かさとで少し恍惚とした気分を味わいつつ、忘れ物を取りに教室を目指す。
校舎には松山以外には誰もいないように思われていたが、階段を登って二年八組のあるフロアに辿り着くと、廊下に歩く人影があった。
冬田だった。
冬田が、半袖半ズボンの体操服に白の長靴下をいつものように膝下付近までピシッと伸ばして履いているという格好で、そしてなんだか心ここに在らずといった表情で、二年八組の教室に入っていくのが見えた。
なんでこんなところに、松山は不思議に思う。
確か、冬田は吹奏楽部だったはず。
練習はだいぶ前に終わっているみたいだし、部活で体操服を使うこともないのではなかろうか。
この学校では、原則的に靴下は白いものにするよう決められている。
中には反抗の意味も込めて違う色のものを履いている生徒もいるが、校則を守る真面目なタイプの生徒らは、基本的に無地の白靴下で統一していることが多いようだ。
また体操服は学校によって指定されており、女子のそれは、下は赤いハーフパンツで、上は白いシャツに襟と袖口に生地の緩み防止用の赤い縁が付けられた所謂丸首と呼ばれる物だった。
生徒の判別という目的もあるのだろう、丸首の胸の部分には大きなゼッケンのような名札を縫い付けることが義務付けられており、冬田の場合は『2年8組/冬田/ふゆだ』と大きな文字で、フォーマット通り丁寧に読み仮名まで書かれている。
名札のすぐ上、左胸に当たる部分には小さく学校の校章マークがプリントされている。
ちなみに、この名札のルールもまた個人情報保護の観点から現在問題視されているらしく、そのうち名札は付けなくていいというルールに替わるらしいという噂もある。
松山としては、どういった事情で世の中が動いているのかはよく分からないものの、とりあえず冬田がいつもきちんと校則を守った服装をしている姿はとてもよく似合っていると思っていた。
それにしても、誰もいない校舎で上下半袖の体操服の女子がぽつんといる光景というのは、なんとも、変な感じがするな。
松山はなんだかドキドキしてしまう気持ちを抑えつつ、なんとなく気恥ずかしいので、冬田に気づかれないよう二年八組の教室の方を遠巻きにそっと覗き込む。
すると、教室の中には。
冬田ともう一人、不審者がいた。
不審者としか言いようがなかった。
180cmはあろう長身に白いタキシードと白いマントによってその身を包み、白髪混じりのオールバックの上には白いシルクハット、そして片眼鏡にステッキを装備した整った顔立ちに幼さと年輪とのどちらも垣間見える年齢不詳のオッサン、もとい不審者が腕を組んで文字通り教壇に立っていた。
一瞬、「うちの学校にあんな先生いたっけか?」とも考えかけたが、流石にこんな変なのがいるわけがないと思い直した。
まさか、と松山は思う。
この男が、最近ニュースになっている不審者なのだろうか。
冬田はその不審者の方にゆっくりと歩いて近づいていく。
明らかに様子がおかしい。
まるで自分の意思で歩いていないみたいだ。
怖くなって、偶然背負って持ってきていたラケットケースを持つ松山の手がこわばる。
わけが分からないが、とりあえず不審者に見つからないよう松山は教室後方の扉からじっと中の様子を観察し続ける。
冬田が教壇の前まで辿り着くと、それまで黙ったままだった不審者は口を開いた。
「にねぇ〜ん、はちくみ〜ぃ!!」
……沈黙。
「マジュツシセンセ〜」
……裏声。
不審者が独り言を呟いている。
今なんて言った?
魔術師だって?
松山の混乱が続く中、不審者は徐にチョークを手に取り、黒板に「人」という字を書き始めた。
「いいですかァ?人と言う字はァ、“人と人とが支え合っている姿を表している”などと言う説明がまかり通っていますがァ、その説明は実は間違っているんですゥ!
ご本人もォ、未来の世界でそう仰っておりましたァ。」
……一呼吸。
「でもですよ!
もしも、“人と人とが支えあっている”という説明から何かを感じ取ったり、何かを考えたりするきっかけになったと言う人がいるならばァ、その気持ちや、そのきっかけまで修正する必要はきっとありましぇん!
心の中で大事に取っておいて良いんです!
これが私からあなた達への、贈る言葉です」
怖い。
不審者が急に身振り手振りを交えながら、爆音で一人芝居をしている。
誰のモノマネをしているのかは大体察しがつくが、あまりに特徴を誇張しすぎていて全く別のキャラになっている。
癖が強すぎて、元ネタが思い出せなくなりそうだ。怖い。
それに対して、目の前にいる冬田は相変わらず微動だにしないまま直立不動で突っ立っている。
まるで立ったまま眠っているかのようだ。
ここにきて松山は、もしやあの不審者が冬田に催眠術か何かをかけて、この教室まで誘導してきたのではあるまいかと言う考えに至った。
一通り一人舞台を終えた不審者は、満足げな表情で再び独り言を垂れ流し始める。
「ん〜、やっぱり学校に来るとこのモノマネがやりたくなるざんすね〜。
お腹一杯堪能できたところで、早速仕事に取り掛かるざんす」
不審者は上着の内ポケットに手を突っ込むと何かをゴソゴソ取り出した。
あれは何だ。
カードの束?
「素材を集めるためにこの時代までわざわざやって来たのに、全然上手くいかないざんす。
進捗ゼロでござんす。
あいにく納期まで時間がないもんで、急がにゃならんす。
どうしてこんなザマなんざんしょ?
ミーの術にかかればこうして人間を誘き寄せることは容易うござんすに」
パチンと不審者が指を鳴らした。
すると、それまでボーッとした様子だった冬田の顔に表情が戻り、一体何がどうなっているのかとでも言いたげな大きな困惑を表し始めた。
しかし動いているのは表情だけで、身体は依然直立不動のままだ。
「おっと、まだ動いちゃだめざんすよ。
声もNGざんす。
助けを呼ばれて誰かに見つかってしまったらヤバござんすからね」
自分自身は大声でそんなことを喋りながら、不審者はカードの束から一枚を捲り、冬田の目の前にかざした。
あれは……トランプ?ハートの3か?
状況が分かっていない様子の冬田の顔に恐怖が浮かぶ。
冬田に何かをするつもりだ。
でもあんなトランプ一枚で一体何をすると言うんだ。
簡単な手品を少々、で済みそうな雰囲気ではなさそうだ。
少なくとも、何かよろしくないことをしようとしているのは間違いないだろう。
だが、仮に踏み込んであの不審者を止めるにしても、次の動きが読めなければあの長身に返り討ちにあうか、最悪松山自身までおかしな術によって拘束されてしまうかもしれない。
ここまで不審者が大きな声で独り言を発していながら、誰もこの教室に近づいてくる気配がないことを考えると、どうやら本当にこの校舎に他の生徒や教諭らはいないらしい。
この学校は、その昔生徒数が千人を超えるほどのマンモス校だったことの名残で、幾つかの大きな校舎がブロックごとに分けて建てられており、この教室から職員室までは往復で何分間かかかる。
不審者の尋常ならぬ雰囲気を見た限り、この場を離れるのはあまり得策とは思えない。
何か起きたら松山自身でなんとかするしかなさそうだ。
頭では分かっているが、得体の知れないものへの恐怖で手が震える。
不審者はまじまじと冬田の丸首前面に縫い付けられた名札を確認し始めた。
中学生女子の、膨らみかけの胸で盛り上がった箇所を面前で凝視する姿は、まさに変態のそれだ。
「苗字の読み仮名は『ふゆだ』で間違いないようざんす。
やれやれ、条件に合った個体を探し出すだけでも本当に面倒でござんすねぇ。
しかしニンゲンの生命力がこもった素材を入手するには、手段が限られたもんで、こうやって地道に探すしかないざんすかぁ」
不審者が冬田の名札の20cmほど前にトランプをかざし、もう片方の手の人差し指を冬田の胸の前で回し始めた。
すると徐々に冬田の顔が、まるでくすぐったがっているような表情に変わっていく。
両眉をハの字に歪め、今にも身悶えし始めそうな顔をしている。
不審者の手が冬田に触れている訳でもなく、側から見ていても何が起きているのか分からない。
そして、冬田の名札に異変が起こり始めた。
『2年8組/冬田/ふゆだ』の文字がだんだん立体的に浮かび上がってきたように見える。
もしかしたら冬田自身の手で書かれたものかもしれない、平面に過ぎなかった黒マジックの丸文字が、厚みを持った実体として、名札から出てきたかのようだ。
それを冬田も松山も信じられないと言う気持ちで見ている。
CGではないのかと疑いたくなる明らかに異様な光景で、何か起きればすぐに飛び出していかなければと考えていた松山も、驚きのあまりその場で呆気に取られていた。
やがて完全に実体を現した『2年8組/冬田/ふゆだ』の丸く柔らかそうな見た目の文字が、冬田の膨らみかけの胸の上に浮かび上がり、黒板に張り付いた磁石みたく名札の表面にくっついている形となった。
窓から差し込む西日が、冬田の綺麗な気を付けの姿勢と、胸とそこに浮かび上がった文字の盛り上がりを影として教室の床に映し出していた。
その光景に、こんなとんでもない状況にも関わらず、松山は頭のどこかで見惚れているのかもしれなかった。
不審者が冬田の胸に手を伸ばす。
冬田の顔に浮かぶ恐怖が色濃くなる。
「失礼あそばせ」
そう言うと、名札の上から『2年8組/冬田/ ゆ 』の文字を順番に剥がし、上着の内ポケットに収納していく。
それぞれの文字はまるで乾きかけの糊のようなもので名札にくっついていたかのようで、名札は文字に引っ張られるように伸びては剥がれ伸びては剥がれを繰り返していた。
冬田は「嫌だ、嫌だ」と表情だけで訴えている。
最終的に名札の上には『ふ だ』の二文字だけが残った。
「さあ、良質な“札”になるざんすよ」
不審者がニヤリと笑いながら言うや否や、冬田の身体に新たな異変が起こり始めた。
冬田は眉間に皺を寄せて苦しむような表情をしている。
『ふ だ』の二文字が名札の中に再び入り込み平面的な文字に戻っていき、名札一杯の大きさになるまで肥大化していった。
そしてだんだんと、冬田の着ている丸首の横幅が膨張し始めたように見えた。
まるで丸首の内側から四角いカード枠が外型を押し広げて大きくなっていっているかのように、冬田の元の姿形が覆われるくらいの大きさまで、丸首体操服は膨らんでいき、冬田の肩や首、後頭部から上頭部、前髪に至るまでを少しずつ包み込んでいった。
その過程で、白地の丸首は冬田の足の付け根あたりまでを覆い込んだ。
そして今度は冬田が履いていた赤いハーフパンツが、まるで飲み込まれていくかのように、膨張した丸首の中へ消えていった。
そして冬田の身体の変化が一度止まった。
冬田の姿は、まるで人間大のカード型の直方体から顔と腕と脚が生えているような、まるでそういう形状の着ぐるみを着込んでいるようなシルエットになっていた。
カード状の身体の前面に、元々は丸首体操服の赤い縁取りだった穴が三つ開いており、そのうち上真ん中の穴からは冬田の顔が覗き、もう二つからは両腕が生えている形になった。
カードの下の面からは、冬田の白くて細い両脚が伸びている。
ハーフパンツを丸首に食われてしまったせいで、脚の付け根に近い部分から太腿、膝までが露わになってしまっており、それに対して膝下の白靴下と上履きが何とも言えないアンバランスさを見た目に醸し出している。
そしてカード型となった身体の表面は全面が元々の丸首体操服と同じような質感の生地で覆われている。
カードの前面、顔と両腕が生えた穴の少し下には、件の名札がそのまま縫い付けられたような格好で残っており、その枠一杯に大きく『ふ だ」の文字が書かれている。その上の校章マークもそのままだ。
カードの表面は形成されていく過程でほとんど綺麗な真っ平らに均されてしまっているが、名札の部分の近辺、つまり冬田の膨らみかけの胸だった部分だけは何故かそのまま、元の柔らかげな膨らみが残ってしまっている。
そのため横側から見ると、全体像が直線で構成された箱状のフォルムの中で、その部分だけが緩い山なりの膨らみを主張しているように見えてしまう。
その変化をただ蔭から見ているしかなかった松山は、ただただ呆然としていた。
今起きたことを頭が理解しようとしてくれない。
怖いとか、危ないとか、思う以前にそもそも何もかも意味が分からない。
当の冬田本人はと言うと、状況が飲み込めないながらも、側から見れば恥ずかしいと感じても無理はないような異様な姿に自分がなってしまっていることに動揺し、赤い縁穴から覗く顔が真っ赤に染まっている。
変化が落ち着いたことで先程までよりはいくらか身体の自由が利くようになりつつあるみたいだが、ただただ恥ずかしさで、全体像の中で相対的に膨らみが強調されてしまった胸元を、両腕で不審者から隠していた。
恐怖も勿論抱いているだろう、足元は内股で立ち竦んでいる。
「無駄ざんす。
この術を受けたからには最後、ミーの意思には逆らえないざんすよ」
不審者は胸元を隠す冬田の腕を難なくどけると、名札が縫い付けられた胸に持っていたトランプを押し当てた。
膨らみに不審者の手が浅く沈む。
そして、その手が持っていたトランプが先程の『ふ だ』の二文字と同じように名札の中に入り込みそして溶け込むように消えていった。
すると冬田は、まるで触れられたくない場所を触れられた時のような表情で目を瞑り小さく身を捩った。
それから間もなくカード状の身体にもまた変化が起きた。
カード前面の左上と右下には『♡3』、カードの中央線に当たる場所には『♡♡♡』のマークが、まさに押し当てられたトランプと同じ形で新たに出現し、定着した。
また冬田の顔と腕が生えている前面とは反対側の裏面には、市販のトランプの裏面に描かれているような幾何学模様が刻み込まれていき、完全にその模様が定着すると、冬田の姿は完全にトランプの着ぐるみを着込んでいる人間とでも形容すべき外観となった。
ただ、よくよく見てみればそれが着ぐるみのような作り物ではないことがすぐ分かった。
冬田の顔と腕が生えている赤い縁の穴と脚の付け根、そこは着ぐるみやボディスーツとは異なり隙間なく冬田の素肌と同化しており、まるでカード部分までが冬田の素肌の延長線上にあるかのように繋がっていた。
トランプ前面の生地は見るからに柔らかそうで、冬田の呼吸のリズムに合わせて表面が揺らいでいるようにも見える。
冬田は変わり果てた自分の身体を、両腕で抱くように確かめていた。
「さーて、これでいよいよ仕上げざんすねぇ。
完全にカードになってもらうざんす。
儀式のためにしっかり働いてもらうざんすよ」
松山はここに至るまで、目の前で次々と起こる不条理に圧倒され、ただただ混乱するばかりであった。
しかし、不審者の独り言をここまで聞いた限り、今から冬田が連れ去られようとしていることはとにかく分かった。
仕上げと言うからには、今から職員室がある棟まで助けを呼びに行ったところでほぼ手遅れだろう。
判断を渋っているうちにとんでもないことになってしまった。
結局選択肢は一つしかない。
宙吊りになっていた思考を無理矢理着地させる。
非現実的光景を前にフリーズしていた体を再起動させ、ケースからそっとラケットとありったけのシャトルを取り出す。
そして、突入すべきタイミングを測る。
不審者はもう一度指を鳴らした。
そうすると、冬田の身体の変化は最終段階に入る。
カードの面から生えていた、冬田の顔、両腕、両脚がだんだんとカードそのものに飲み込まれていく。
冬田の顔が、ほとんど泣きそうな表情になっている。
まるで、自分自身の存在が消えていくことに恐怖しているような、そういう表情だった。
そしてとうとう冬田の素肌の面影は全て飲み込まれてしまい、顔や腕の付け根だった赤い縁の穴も埋まるように消えていき、その姿は完全に巨大な『♡3』のトランプそのものとなった。
僅かな名残として、冬田の丸首に縫い付けられていた名札と、左胸の部分にあった小さい校章のマーク、そして胸の膨らみだった凹凸がカードの表面に残った。
体重を支える手足を無くしたカードは、まるで本物の紙でできたそれのように自重を感じさせることなくフワリと床に倒れ込んだ。
さらにその大きさは少しずつ縮み始め、普通のトランプと同じ大きさを目指しているようだった。
厚みもだんだん失われていく。
それでも冬田の意識はまだ残されているのか、巨大なトランプは助けを求めるようにビクビクとのたうっている。
「やれやれ、トランプ化を完了させるだけでも大概な手間でござんす。
これをあと51回もこなさないといけないなんて気が遠くなるざんすよぉ」
そう言って不審者が横たわったトランプの方に近づこうと、教室の出入り口に完全に背を向けた瞬間だった。
バドミントンのシャトルが出入り口の方から放たれ、不審者の頭上を飛び越しトランプのやや手前、不審者の前方1m付近にストッと打ち込まれた。
「なっ、なんざんすか!?」
不意に何かが足元に落ちてきたことで、それを確かめようと不審者が身をかがめた。
今だ。
「オラァッ!くらいやがれ!」
完全に死角となった不審者の背後から、松山がラケットケースを振りかぶって叩きつけた。
「ぬあっ?!」
ラケットケースは不審者の頭上にクリーンヒットし、その衝撃で白いシルクハットはぺしゃんこに凹んでしまった。
「何者ざんす?!!」
不審者がこちらを振り返ろうとした隙に、松山は今度は黒板の粉受けに置かれた黒板消し2つを咄嗟に手に取り、ちょうど振り返ったその顔の面前で思いっきり黒板消し同士をぶっ叩いて煙を起こした。
「ふぁあ?!
目が!目がぁ!?」
チョークの粉煙をまともに目に入れてしまった不審者は、その場でジタバタしている。
主導権を握ることに成功した松山だったが、いかんせん敵は自分より一回り以上長身の男であり、至近距離をキープし続けるのはリスクが高いと判断した。
少し離れて、今度は懐にスタンバイしておいたシャトルをバドミントンラケットで不審者に次々打ち込んでいく。
顔面にスマッシュを何発も食らった不審者はバランスを崩して机と椅子の列に倒れ込んだ。
その拍子に、先程冬田の名札から剥がしていった『2/年/8/組/冬/田/ゆ』の文字が内ポケットから溢れて、教室の床に散らばった。
「あいたっ?!
あいたーっす!!
顔はやめるざんす!
一体何してくれやがるざんすか!?」
「うるせぇ!
何してくれやがるとはこっちの台詞だ!
冬田さんを元に戻せ!!」
とにかく相手の急所を攻撃し続けて戦意を削がなくては。
しかしチョーク粉煙幕の効果が徐々に薄れてきたのか、不審者も体勢を立て直しつつある。
「お断りざんす!
素材を集めて帰れなければ依頼者様が激おこざんす!
こうなったら貴様も物品に変化させてやるざんすよ!?」
いよいよ怒髪天を突いた不審者は松山に向かってステッキを構える。
「やれるもんならやってみろこの変態が!」
しかし松山も完全に腹が据わってしまっていて、近くにあった椅子を両手で持ち上げ力一杯敵に向かって振り回し始めた。
「オウフ!?オウフ!
危ないざんすよ!」
意外にも学校の椅子は、リーチの面でも迫力の面でも不審者に対して優位を築くのには十分な武器だった。
不審者はステッキで椅子による攻撃を防ごうとしたが、次の瞬間、椅子の遠心力と質量に負けたステッキが跳ね返り、不審者の股間に直撃した。
それとほぼ同時、ステッキによって軌道が逸れた椅子が不審者の左脛を掠めた。
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっッ!!!?」
二つの急所へのダメージは、敵の戦意を完全に削ぐには十分だったらしい。
不審者はもはやその場から逃げ出すことしか考えられなくなったようで、
「もう無理ざんす……。
今日はこの辺にしといたるざんすよ……」
と言い残し、這う這うの体の小走りで教室から出て行った。
なんとか不審者の撃退に成功したが、松山が振り返ると冬田のトランプはまだ縮み続けていた。
「大丈夫か冬田さん?!
元に戻すにはどうすれば……」
松山は考えるが、冬田を普通の人間の姿に戻す方法が分からない。
あの不審者から無理矢理にでも聞き出すべきだったか。
トランプの外観に残っている人間の時の名残は、名札と校章マークと、胸の膨らみだったものくらいだ。
とにかく何かヒントが欲しくて、焦る松山はこれらをよくよく観察してみる。
特に、不審者が冬田をトランプ化させる過程において、名札を媒介にして冬田の身体に何らかの働きかけをしている様子があった。
それを思い出し、松山は名札に顔を近づけつつ手掛かりを求めて触って確かめる。
名札は元々学校から配布された生地のものに黒マジックで名前と学級名を書き込み、体操服に外周を縫い付けて使うよう規定されている。
実際冬田もそのルール通りに使っていた。
目の前のトランプの表面は、やはり見た目通り丸首体操服の生地と同じような肌触りであり、そこにポリエステルか何かの化学繊維製の名札が縫い付けてあるといった感触だ。
そして、体操服の生地越しに、人肌を触っているような感覚もある。
体温もちゃんとある。
まずそれを確認できたことで、冬田の生命力がまだ残っていることが分かった。
次に、名札の縫い付けられている外周部分を確かめてみる。
人間の手作業によって名札を縫い付けている以上、名札の最外周から縫製部分の間に1mmくらいの隙間が生じる。
そこに爪を引っ掛けて名札を剥がしてみたら、何か好転しないだろうか。
指の先に感じる冬田の胸の柔らかさをなるべく考えないようにしながら、名札の隙間に爪を差し込んでみる。
すると、急に冬田のトランプ型の身体がビクッと反応した。
手応えアリか?
指先に力を加えて名札を引っ張ってみる、が。
糸で縫い付けてあるだけに見えた名札は、実際に手で触れてみると、全体が体操服の生地にピッタリと癒着し一体化していることが指先の感覚ですぐに分かった。
そして名札そのものに化学繊維とは異なる、人間の素肌のような柔らかさや体温のようなものが通っていることも感じ取れた。
冬田の身体が体操服に飲まれる過程で、名札にも何かしらの変質が起こったのかもしれない。
しかも冬田のトランプは、名札を引っ張る動きに対して嫌がるように大きく動き、松山に抗い始めた。
さらに名札に書いてある『ふ だ』という丸文字が、まるでそれ自体に意思があるかのように震え動いていた。
もしかしたら、この状態の冬田にとって、名札の部分は急所に当たるのではなかろうか。
だとしたら、これ以上名札自体をどうにかしようとするのは悪手らしい。
一度冬田のトランプから手を離す。
そうすると依然ピクピクと震えてはいるものの、動きは少し落ち着いたようだった。
それでは他に何か手がかりはないだろうかと教室全体に視線を巡らすと、先程不審者が倒れ込んだ床の方に、冬田の名札から剥がされた『2/年/8/組/冬/田/ゆ』の文字の実体が散らばっていた。
これじゃないか?
松山はすぐさま散らばった文字を拾い集めて、冬田のトランプの元に持って行く。
そして直感的に、名札の上の元あった場所にそれぞれ『2年8組/冬田/ ゆ 』の文字を並べ、順番に文字を名札に押し込むつもりで両掌に体重をかけた。
手応えがある。
ちょっとずつ、文字が名札の中に入っていく感覚がある。
文字を押し込むにつれて冬田のトランプにも反応があり、震えが大きくなる。
もう少し我慢してくれよ。
今、松山の両手のひらはもはや言い訳不可能なくらい、冬田の胸の柔らかい触感に晒されている。
普段遠目で観察して想像していたものが、脳裏にちらつく。
『意外と立派な物をお持ちで…』などとは思ってしまわないよう、必死で踏みとどまる。
これもしかして、冬田が元に戻っても覚えてるのでは?という考えが頭のどこかに浮かぶ。
流石に、これは、不可抗力だと思って勘弁してほしい、と松山は内心で弁解する。
そうしてようやく、文字は名札の中に入りきった。
名札の中で、肥大化していた『ふ だ』の二文字は元の大きさに戻り、他の文字達と同様に、元あった場所に戻っていた。
よく見ると松山が急いで押し込んだ『冬』の文字が少しだけ、元よりも左側に傾いてるように見えたが、それはもうしょうがないだろう。
かくしてトランプの真ん中に、『2年8組/冬田/ふゆだ』という文字列を復活させることに成功した。
それによって、トランプの縮小化も止まり、そして元の大きさと厚さに戻り始めているのが分かった。
ここまできて松山はなんとか、一安心できた。
「良かった……。
一時はどうなることかと……」
ホッとして腰が抜けそうだった。
とにかく、人間としての冬田が消えてしまうことは防げたようだ。
トランプはほとんど最初と同じ大きさと厚さに戻ってきたが、次は顔と手足が生えてこないといけない。
なんとか内側から出てこようと、ムニッムニッとトランプの表面は大きく波打っている。
頑張れ頑張れ、冬田。
トランプの表面に、丸首体操服の襟と袖口にあった赤い縁の穴が現れ始めた。
底面にも、冬田が履いていた上履きの兆しが見える。
頑張ってそこから外に出ようとしている。
が、あまりうまくいかないらしく、モゾモゾと悪戦苦闘している。
手伝った方がいいのかもしれない。
「もしくすぐったかったらごめんよ」
今更ながら軽く断りを入れると、松山は、生えてくるのが早い箇所から順番に、出口を広げてやって外に出るのを補助することにした。
右脚と、左脚。
それぞれ、学年を示す赤いつま先に白地に手書きで『冬田』と書かれている上履きと、飲み込まれる時にずり下がってしまったらしい白靴下、そして冬田の白い脚が付け根まで出てきた。
次は両腕。
赤い縁穴を広げて、そこから手の平、手首、腕が生えてくる。
そして最後は顔。
「丸首」のそのまさに首を出すべき部分を広げてやる、が。
広げたところから冬田の顔がなかなか出てこない。
もしかしたら、脚や手を先に出すために生地を引っ張った結果、内部で顔が変な引っかかり方をしているのかもしれない、と松山は不安になる。
冬田自身も先に出た自分の手を使ってどうにかしようとしているみたいだが、今の身体の形状では上腕の大部分がトランプに埋まっているため、うまく力が入れられないようだ。
どうしようか。
おそらく顔が出るべき穴自体は十分な大きさまで復活したみたいなので、あとは内側から顔を出せればひと段落なのだが。
多分この先は、トランプ型から元の体操服の形状に戻っていく変化に移るだろうから、今の段階で顔を出せていないというのは悪影響を及ぼしてしまうかもしれない。
冬田も相当苦労しているみたいなので、これはもう仕方がないだろう。
松山はトランプに正面から跨る。
身体に何かが乗っかってきたことを感じて、冬田の手足が動揺したのが分かる。
「失礼あそばせ」
松山は、少し盛り上がった名札の箇所に自分の体重をかけて、両手でグイグイ押し込んでやり、その弾みを使って顔を穴から出させてやることにした。
我ながら趣味の悪い冗談だ、と自分で言った台詞に苦笑いしてしまう。
冬田からすれば自分の胸を強く圧迫されているも同然なのだろう、松山に対して抗議するかのように両腕でバシバシと松山の腕を叩いてくる。
許せ、冬田。
君のためなんだ……。
先ほど実体化した文字を名札に押し込んだ際の手の感触から推測するに、今の冬田の身体は、喩えるなら蛹の中で原形を融解させて成虫に変態していく昆虫のように、トランプ型の内側に流動的な形で閉じ込められているのではないか。
故に、出っ張っている箇所に圧力を加えることで、その勢いで開いた穴から冬田の顔を出させることができるのではないか、松山はそう考えて実行に移した。
実際、その方針は間違ってないという手応えを感じる。
しかし、何だろう、同時に違う物の手応えも両手のひらに感じる……。
松山にとっては大きな誤算が一つあった。
おそらく、冬田の下着は変化の過程でトランプに飲み込まれたのか、あるいは内部の流動的な部分に融解してしまっているようだった。
つまり何が言いたいのかというと……、着けている感触がないということだった。
もう中学二年生だし、普段着けてないということはまずあり得ないだろう。
いつも遠目で、こっそり様子を伺ってはいるので、流石にそれは察している。
つまりこの瞬間、冬田としては、何も着けていないそのままの胸をがっつり触られているような感覚を持っている可能性が高い。
うーんこれは……、仮に冬田が元の姿に戻れたとしても、我々二人の関係性はもはや修復不能になってる可能性もある……。
でももうその時はその時でしょうがないじゃないかと、松山は割り切ることにした。
まずは顔を出させてやらないと、話が進まないんだから。
自棄っぱちの気持ちも半分、もう一回ヨイショと強く押し込んでやると、ようやく丸首の穴から冬田の顔がむにゅっと出てきた。
久しぶりに呼吸をするといったような感じでプハァっと息をしている。
やっとひと段落だ。
冬田がなんとか現世に戻ってこれたような感じがして、正直ホッとしている。
しかし案の定、当の冬田の顔は赤く染まっていて、互いの目が合うとほとんど怒っているような顔でこちらを睨んできたけれど。
✳︎✳︎✳︎✳︎
「感謝はしてる。
本当の本当に、ありがたいと思ってるよ?
それに仕方がなかったってことも、ちゃんと分かってる。
だけどぉ……。
だけどね、そのー、私が言いたいこと分かる?」
「いや、あの、はい……。
よく存じ上げてるつもりでございます……。
その説は誠にもう、弁明しようは一切ございません……。
この通り、申し訳ありませんでした……」
「別に謝る必要なんてないよ?
謝られてもこっちが困るし。
なんか、こっちこそごめんね?
……はい、その話はこれでおしまい。
もうそんな気にしないでいいから」
やはり、冬田はご機嫌斜めプンプンなようだった。
無理はない。
松山としては平謝りするほかなかった。
両肘両膝を床に突いて、ひたすらお詫び申し上げる構えでなんとか誠意は伝わったと思いたい。
しかし一方で、松山に対して感謝している、と言うのも実際そうなんだろう、ということが伝わってくる。
冬田がこんなに複雑な表情をしているのは初めて見た、と松山は思った。
冬田の身体の変化は一旦は落ち着いたみたいで、トランプ人間形態から元の体操服姿に戻る次の変化に移るには少し時間が空くみたいだ。
冬田は靴下が下がって弛んでいるのがどうしても気になったようで、上腕が埋まって伸ばしづらい腕でも、なんとか頑張って靴下を膝下まで伸ばしていた。
そしていつもの癖なのか、生えてきた両脚が安定してくると、床に正座のようなペタン座りのような感じで座っている。
前にも体育か何かの時にそういう座り方をしていたのを、何回か見たことがある。
むき出しの膝でその座り方は痛くないのかな、と疑問に思わないでもない。
話の流れ上、松山もなんとなく冬田の方を向いて床に正座をしている。
「いやいやいやそれにしても、結局あれはなんだったんだろうね。
何から何まで訳が分かんなかったよ」
「本当だよー。
あーもう本当怖かった。
私あのまんま、どこかに連れてかれちゃうのかと思った。
まあ、今もまだこんなおかしな格好のままだけど」
照れ隠しするように冬田は両手のひらを広げておどけてみせる。
やっぱり、トランプに飲まれた状態の記憶も残っているらしい。
まあ確かに、自分の名前が書かれた名札がひっついたトランプの身体から顔と手足だけが生えてる状態で、学校の教室の床にペタンと座っているというのは相当おかしな光景なのは否めない。
しかし不思議なことに、この人間大のトランプの形状に見慣れてしまったせいなのか、あるいは大難が去ったことによる安心感からの揺り戻しなのか、こんな姿の冬田も、これはこれで可愛いのではないか。
そう思っている自分に松山は気づいてしまった。
それを口に出したら、また冬田の機嫌を損ねてしまうかもしれないけれど。
見た目という点で言うと、例えば今冬田の顔は丸首の赤い縁穴から覗いている形で、いつもは顔にかかっている前髪などの遮蔽物がない状態だ。
それでいつもと印象が違うと言うのはあるかもしれない。
あと見た目で言うと……。
そこでそれまでなるべく意識を向けないようにしていた箇所に、松山の意識が向いてしまう。
今はまだトランプにハーフパンツが飲まれたままなので、普段はハーフパンツで隠れている膝上から色白な太腿、足の付け根に至るまでのラインが露わになってしまっている。
松山は今まで、冬田に対して全体的に線が細いと言うイメージを持っていた。
しかし、普段ハーフパンツで隠れている太腿から足の付け根にかけては意外にも人並み程度には肉付きがあり、そして絶妙に視線が引き寄せられるような境界線までで、トランプ型の白い生地で見切れている。
思ってはいけないことだが、悩ましい。
こんな感覚は初めてだ。
ちょっと、これは、眩しすぎる。
と、松山はなんとか冬田の脚から目を離そうとする。
「どうかしたの?」
冬田が顔を近づけてくる。
脚も近づいてくる。
いけません、いけません。
今まで気づきようもなかったことだが、性徴における体の変化に対して自覚が及ぶのは当然のことだろう、冬田は自身の胸に関しては人並みに警戒心を働かせている。
一方で、自身の脚については、そうした警戒は手薄になっているらしい。
油断すると、冬田のその色の白い綺麗な両脚に、目が吸い寄せられてしまう。
何でもいいから話を逸らせたくて、松山は思っていたことの一つを口に出してしまう。
「い、いや、正直そういう格好の時でも、冬田さんは可愛いと思うけど、な。
なんて……」
「えっ!?
そ、そう……。
あの、なんか、ありがとう……?」
冬田も、想像してもいないことを言われたようで、ドギマギして視線が泳いでしまっている。
せっかく落ち着きつつあった顔色も、頬が赤く染まってしまってこれでは逆戻りだ。
あー、雰囲気が持ち直してきてたのに、また変な空気にしちゃったな……。
もうちょっと差し障りのないことを言えれば良かった……。
少しの間ののち、再度話題を変えてみることにする。
「そ、そうそう、今のうちに状況を振り返ろうかなと思うんだけど。
俺は部活が終わった後に忘れ物を取りにこようと思って校舎に入ってきたんだけど、そうしたら体操服着た冬田さんが廊下を歩いてるのを見かけたんだ。
その時の記憶ってある?」
冬田は頑張って思い出そうとしている。
「うーん、実はその辺はもう記憶が曖昧なんだよね。
音楽室で練習が終わった後、一人で残って楽器の手入れをしてたところまでは覚えてるんだけど……」
なるほど、やはりあの不審者に催眠術のようなものを掛けられて教室に誘き出されたと見て間違いなさそうだ。
「ちなみに、これ聞いていいことか分かんないんだけど、今日は始業式しかなかったのに体操服持ってきてたの?」
「えっ、いやいや、持ってきてたというか、私いつも制服の下には体操服着るようにしてるの」
「え、そうなの?」
それは全然知らなかった、と松山は思った。
「うちの制服ってセーラー服じゃない?
あのセーラー服って専用の肌着というかインナーがあって。
本来はそれと合わせて着るのが規定なんだけど、体育がある時とか荷物が余計に増えたりして面倒だから、色々試した感じ体操服が一番楽ちんだと思って、制服のインナーに使ってるの。
その方が動きやすいし、どのみち外側からは下に何着てるか分かんないし。
あ、あと部活でも週1回くらい外周をランニングすることになってるから、部活で使うってのもあるかな」
「そうだったんだ、へ〜」
へ〜、へ〜、へ〜と松山は心の中のへ〜ボタンを連打する。
そもそも、女子のあの制服にインナーがあるのを知らなかった。
あと吹部がランニングしているのだということも。
やっぱり、肺活量とか、体力とかも必要なんだろうな。
身近なことでも全然知らないことがあるものだ。
それと、生真面目に全部の校則を守っているように見える冬田が、実は規定のインナーではなく体操服をその代わりに着ているというのも、意外な感じがして新鮮に思えた。
「まあでも、下に体操服着るのやめようかな、なんて。
なんか体操服に変な印象出来ちゃったし」
冬田はそう言って眉根を下げながら笑ってみせた。
そう思うのも無理はなかろう。
言ってしまえば、体操服に身体丸ごと飲み込まれるという体験をしたのだから。
そもそも今は俺の前だから、なるだけ気丈に振る舞っているだけかもしれない。
割と普段と同じような調子なので大丈夫そうには見えるものの、きっと内心は相当気疲れしているに違いない。
最後まで元に戻り切ったら、早く家に帰らせてゆっくり休ませてあげたい。
そんなことを思っていると、冬田のトランプから『♡3』『♡♡♡』のマークと、背面の幾何学模様が薄れてやがて消えていった。
名札から『♡3』のトランプが浮き出て排出され、力尽きたように一瞬だけ炎を上げて燃えたかと思えば、白い灰になって床に落ちた。
冬田の身体の変化が再開したらしい。
四角いトランプの形から、人間の形に戻り始めているのが分かった。
「あ、また始まったみたいだね……」
と冬田は言う。
うむ、と松山は頷く。
一瞬の沈黙の後、
「あのぅ、悪いんだけど、変わっていってる間、違う方を向いててほしいな……。
なんだかこういうの、見られてると恥ずかしくて……」
と冬田は呟いた。
「あ、ご、ごめん!
それじゃ少しの間、その辺を適当にうろついてくるよ!
もし何かあったら、声上げて呼んでくれればいいから!」
と松山は慌てて立ちあがろうとする。
そんな松山に、冬田はもう一言かける。
「あ、あのっ、松山君」
「ん、何、どうかした?」
と松山は尋ねる。
冬田は、
「まだちゃんと言えてなかったね」
一拍置いて、
「松山君、今日は、本当の本当に、ありがとうございました」
と、目尻と口角にクシャッとした皺を浮かべて、感謝の言葉を述べた。
今日一日だけで、今まで見たことがなかった冬田の色んな表情を、もう何回見てきただろう、と松山は思う。
窓の高さまで落ちてきた太陽がオレンジ色に燃えていた。
こんなに美しい光景がこの世に存在するなんて、知らなかった。
冬田の笑顔が、それ越しに見た夕陽が、松山の胸を満たしていく。
松山は、
「どういたしまして。
こちらこそ、ありがとう」
そんな言葉が、ほとんど無意識に口からこぼれ出ていた。
自分でも何に対して「ありがとう」と言っているのかは分からない。
それを聞いた冬田もなんだか不思議そうな表情を浮かべたけれど、間もなく変化の過程で、風船から空気が抜けるようにトランプの外郭が縮んで、冬田の元の身体のボディラインが生地の下から浮かんできたのが見えた。
松山は振り返って教室の出口に向かう。
背後から、ムニュッムキュッという衣擦れのような身体の変化の音と、冬田の「あ……、んっ……」というくすぐったがるような息遣いが聞こえてきたので、歩調を早めて廊下へ出た。
✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
廊下に出ると、今の今までずっと張っていた気持ちが緩んで、ズンと体が重くなった気がした。
理解が追いつかないような出来事が次々起こったものだから、時間の経過に対する感覚も麻痺している。
この校舎に立ち入った時から、とても長い時間が経過したようにも感じるし、逆に一瞬で過ぎ去ったようにも感じる。
松山は時間潰しもかねて、あの不審者がまだ校舎に残ってやしないか教室棟のフロアを見回る。
もっとも、不審者どころか人の気配は相も変わらずどこにも感じられなかった。
あの不審者もこの校舎からはとっくに離脱した後らしい。
こういうことが起こるのなら、確かに校内のセキュリティは厳しくしておいた方がいい、と松山は思った。
今日のあれは、流石にイレギュラーが過ぎるけれども。
それでも一応周囲への警戒は解かないようにと、松山は足音を殺して歩きながら、今日の出来事について考えを整理してみようとした。
しかし、結局最初から最後までそもそも分からないことが多すぎて、考えはまとまらずに終わりそうだ。
あの不審者は一体何者だったのか分からずじまいだし、人間をトランプに変化させてしまう現象については、いまだに自分が目の当たりにした事実なのだと頭が納得してくれていない感覚がある。
『あと51回』などとアイツは言っていたか。
もしかしたら、あの男は全国の中学校に出没しては、人間トランプを集めるべく同じ行為を繰り返しているのだろうか。
そんな不穏な考えが出てくるが、とにかく今日は体も頭も疲れてしまって、これ以上難しいことは考えられない。
窓の外はだんだん暗くなり、夜が近づいてくる。
程よく時間も経ったことだし、冬田の様子を見に行くか。
そう思って、松山は二年八組の教室へ踵を返した。
✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
教室に戻ると、冬田は体操服に赤いハーフパンツ、白靴下に上履きという元の姿に戻っていた。
今日起きたことを職員室の先生か誰か、ひいては警察に相談してみようかと、松山は冬田に聞いてみたが、冬田は思うところがあるのか今日はこのまま普通に家に帰りたいと言った。
それがいいかもしれない、と松山はその意思を尊重することにした。
松山と冬田が今日経験した出来事を、教諭や警察に証言したところで信じてくれるかどうかは怪しく思われたからだ。
それに二人とも、とにかく疲れ切っていた。
早く家に帰って休みたい。
とは言え、このまま冬田を単身で帰宅させてしまうのは流石にまだ気が咎める、と松山から主張したことで、とりあえず今日のところは冬田の自宅の近辺まで松山が送って帰るということになった。
簡単に、教室内の倒れた机や椅子の体裁を整える。
松山が打ち放ったシャトルを回収する。
床に散ったはずの『♡3』のトランプの灰は、知らぬ間に風にでも吹かれていったのか、跡形もなく消えていた。
そしてそれぞれ部室に置きっぱなしにしていた荷物を取りに行く。
制服に着替え終わった冬田と昇降口で合流したのち、松山は自転車を手で押しながら冬田の家がある方へ歩いて向かう。
既に街灯が道を照らし出す時間になっていた。
二人乗りできれば早く着くんだけど俺不器用だから二人乗りできないんよね、と松山が苦笑いすると、実は私も二人乗りの自転車の荷台に乗るの苦手なんだ、と冬田も苦笑いで返す。
そんな他愛もない会話をしながら下校する。
松山は、あれ、と思う。
今朝までは挨拶するだけでも緊張していたのに、いつの間にか冬田と自然に会話が続くようになっている。
不思議な感じがした。
おかしなことが続いたせいで、ちょっとやそっとのことでは動じなくなっているのかもしれない。
そんな二人を見てこっ恥ずかしくなったのか、夕陽は完全に地平線の向こう側へ去っていってしまった。
冬田の家がそろそろ近いらしい。
冬田と松山とは小学校の校区が違うので、冬田にとってはいつも通りの景色でも、松山にとっては見慣れない街並みが続く。
同じ風景を見ていても、そこに何を感じるのかは人それぞれに違うんだよな、と松山はあまりに当たり前なことを思ったりした。
やがて人通りもそれなりのとある十字路に差し掛かったところで、じゃあこの辺で、と冬田は言った。
それじゃあまた学校で、と二人は挨拶を交わして別れた。
◆
この街のとある無人駅、夜の闇に包まれた駅舎の影に、電話ボックスが3つ並んでいる。
その駅を通る路線は利用客がそこまで多いわけでもなく、まだ日付が変わっていないうちにも既に最終電車は出払ってしまい、駅前に人の気配は全くなかった。
唯一、3つ並んだ電話ボックスのうちの真ん中に、どこかに電話をかけようとする男の影があった。
身を包む白タキシードは汚れが目立ち、白マントはところどころ破けてしまっている。
頭に被った白いシルクハットはペシャンコのままだ。
かけている片眼鏡には皹が入って、手に持ったステッキはガムテープでなんとか原形を繕っていた。
緑色の電話ボックスの上に十円玉を何枚か重ね、男はこの時代には存在しない番号をプッシュし電話をかける。
「もう無理ざんす〜!!
この時代のニンゲン達は強すぎてミーの手には負えないざんす!
依頼者様ごべんなさ〜い!!」
そう言いながら、男は受話器に泣きつく。
受話口から男か女かすら判断し難い、通話相手の声が聞こえてくる。
「エエッ、ソウナンデスカ?
ワカリマシタ。
ソレハシカタガアリマセンネ。
シカタガナイトイウコトハ、ソレハツマリ、シカタガナイトイウコトナンデスネ。
ソレデハ……」
一拍置いて、この世の物とは思えないような声音で相手は言う。
「『カ ワ リ ノ モ ノ』
ヲ、ヨウイシナケレバイケマセンネ」
ヒイッ!と男は叫んで受話器を取り落とす。
電話台からぶら下がった受話器から、まるでダイヤルアップ接続のような電子音が鳴り響く。
次の瞬間、男は電話機のカード挿入口に一気に吸い込まれてしまった。
男の痕跡は、電話代の上に積まれた十円玉三枚のみを残して消えた。
そして次の瞬間、通話が切れたことを知らせる音とともに、何かカード状の物が電話機から排出された。
それは、トランプのジョーカーカードに変化させられた男そのものであった。
「とほほ〜、もう血気盛んな中学生の相手はこりごりざんすよ〜」
と男は誰にも届かない声を上げると、再度電話機に収納されていって、二度とこの時代に姿を表すことはなかった。
駅舎の柱時計が午前0:00ちょうどを指し示し、世界の切り替わりを宣告した。
✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
あの日を境に、松山と冬田は学校で気軽に会話を交わすような友人同士になっていた。
松山は他の友達から「お前急に冬田さんと仲良くなったよな。何かあったのか」と聞かれることがあったが、また何かが起きない限りはあの出来事は二人だけの秘密にしておこうと冬田と約束をしたので、適当にごまかしてやり過ごしている。
あの日から一ヶ月くらいの間は、松山は特に新聞やテレビのニュースで、不審者情報や失踪事件について念入りにチェックしていた。
休日に近所の図書館へ出向き、過去数ヶ月分の新聞記事を検索して、国内の学校で不審者が出没したり生徒が行方不明になったりしたという報道がなかったか調べることもあった。
どうやら学校に不審者が現れるという類の事件は、残念ながらあの白タキシードの男とは関係なくとも定期的に国内のどこかしらで発生しているものらしい。
ただ幸いなことに、学校内で生徒が忽然と姿を消すといった事件は、少なくともここ数年の間は発生していないようだった。
勿論、あの男が学校や中学生だけを狙って出没しているという確証はないのだが、ひとまず松山がチェックした限りでは今回の出来事に類似した事案は見当たらなかった。
身の周りでも特に何か異常が起こることもなく、一週間一ヶ月と何事もなく時間は過ぎていき、あの男の気配を感じることも二度となかった。
松山は冬田と学校で会った時に、最近変わったことはないかと定期的に聞くようにしていたが、冬田の方でも特に問題なく日々を過ごせているようで、あの日の件について話題に上げることも自然となくなっていった。
あの直後はもう体操服着たくないかもと言っていた冬田だったが、少なくとも体育や部活のランニングに参加するときは今まで通り体操服を着ているみたいだった。
その折に名札を見てみると、あの時松山が急いで押し込んだ『冬』の文字がやはり左側に傾いたままだった。
それを確かめるたびに、やっぱりあれは夢の中の話なんかではなかったのだと、松山は再認識させられた。
たまに冬田がその松山の視線に気づいた時なんかは、表情を緩ませて、『冬』の字が傾いた名札のすぐ横、小さく手を振ってくれることがある。
その時の微笑みが、なぜだか松山の胸を締めつけた。
以前と変わったことがあるとするならば、松山と冬田がそれなりに仲の良い友達同士になったこと。
それと、松山には時々、冬田があの日トランプと一体化したトランプ人間のようになった姿や、顔と手足を飲まれて巨大なトランプ型になった姿を、頭の中に思い浮かべる癖ができたということ。
松山としては、制服姿の冬田も体操服姿の冬田も、どの格好でも冬田は可愛いぜ、と内心では密かに思っている。
それと全く同じように、トランプ人間姿の冬田も、完全に外見がトランプになった冬田も可愛い。
頭にその姿を浮かべては、無意識にそう考えている自分がいることに気づいた。
とても口に出してはならない考えだった。
少なくとも、冬田本人に対して例えば「制服姿が可愛い」とか「体操服が似合っている」とか、直接言えるわけがないのと同じように。
俺の頭はどうにかしてしまったのか。
このイメージが肥大化していって、俺もあの不審者と同じになってしまうのではないか。
そんな不安が、いつも暗がりから松山を見張っているような気がした。
いつしか桜の季節は過ぎ去り、吹き抜けていく風に夏の気配を感じ始めた。
ある土曜日。
松山は今日も自転車を漕いで部活に向かう。
明日は吹部も練習があるんだ、と昨日冬田は言ってたっけ。
空に浮かぶ煙のような雲は、次の瞬間には分厚く盛り上がった入道雲にメタモルフォーゼしてしまいそうに思えた。
もし今日、学校の渡り廊下で冬田と会えたら、今度の休み一緒に遊びに行かないかと誘ってみよう。
なに、あの日のあの教室で起きたことと比べれば、何のことはない。
ほんの少しの勇気を振り絞ればいいだけだ、大丈夫。
松山はそう自分に言い聞かせ、ペダルを力一杯漕いでいく。
了