2.積み重ねた日記帳(2)
「どう思う?」
高多が一通りのことを話し終わって帰って行った後、俺は周一郎に問いかけた。
「そうですね」
相手はゆっくりとコーヒーを口に含んだ。
「彼が謎解きをしたがっているのは本当らしいけど」
「けど? けどって……何かあるのか?」
「何かあるかも知れませんね」
周一郎がサングラスの向こうで目を細めるのを見ながら、俺はさっきの高多の話を思い出していた。
「俺とるりは、親同士が決めた婚約者だった」
高多は組んだ指を顔の前へ持ってきて、肘を突き、ぽつぽつと話し出した。
「高多株式会社って小さな繊維工業の会社を親父がやっていてね、るりは沢城物産の一人娘だった」
「確か、化学製品の会社ですね?」
「さすがによく知ってるな。そうさ、化学製品、それに各種加工業の会社だ」
周一郎のことばに高多は皮肉な笑いを押し上げた。
「朝倉さんには言うまでもないだろうが、繊維工業の息子と化学加工業の娘が結び付くとなれば、相場は決まってる」
「政略結婚、か」
「…」
高多は俺に肩をすくめて見せた。世を拗ねたような目の奥に、身もがきするのさえままならない苛だたしそうな感情が見えた。それはことばのひねくれ加減とは対照的なほど、純真な色合いをしていた。
「俺のところは落ちこぼれ企業だ。旧来の繊維工業のあり方にしがみついて、新しい製品を開発もできなければ、過去にこだわり切ることもできない。その点、るりの家は時代が変わるに従って、製品の加工だけじゃなくて流通、不動産なんかも手を広げ始めている。俺達にとっちゃ願ってもない良縁だった。親父は俺が小学生の時にるりと引き合わせて言ったものさ、この子がお前のお嫁さんになる子だよ、ってさ」
は、と白けた笑いを高多は漏らした。
「その頃のるりってのは……今もそうだが、人形みたいでさ。真っ白い手足にさらさらした髪をしてて、いやんなるほど澄んだ眼とピンク色の頬してて、白いレースのワンピースなんか着ててよ。俺ときたら、泥だらけのTシャツにジーパンだろ。こんな子が、俺のものになるのかと思って単純に嬉しがったんだ。実際に誇らしかった……るりが、誰でもない、俺一人を頼って追って、つきまとってくるのが、な」
高多は少し黙り込んだ。
陰った瞳が誰の面影を追っているのか、さすがに俺でも察しがついた。
あの雨の日、俺に向かって笑み綻んだ唇が鮮やかな紅で蘇る。濡れた髪の下で潤んだ瞳が微笑う。まるでこれから自分がしようとすることを知らぬかのように。落ち込んでいく闇の深さを見ていないかのように。淡く煙る輪郭は、雨の中でより淡く、どこか眩く、光を放っているように見えた……。
カチャ。
微かに触れ合う音を立てて、周一郎がコーヒーカップを取り上げた。我に返ったように、高多が話を続ける。
「河本…ってのは、中学時代からの俺のライバルだよ。どうした腐れ縁なのか、中学高校大学と同じだろ。別にあいつだけ目の敵にしてたわけじゃないんだが、何かにつけてぶつかるといえばあいつだ。そういえば…」
ふと、今改めて思い出したように、
「確かるりが言ってたっけ……ひょっとしたら、河本の婚約者になってたかも知れないって」
「河本の?」
「ああ。あいつは河本産業の息子だしな。石油化学をメインで扱ってる会社で、俺のところと同じように、るりのところと結びつけば徳だってんで話を持ってきたらしいけど、その頃にはもう、俺とるりの話がまとまってたんだ」
「河本の方はどうなんだ?」
高多は気づいてない風だが、そりゃあ結構な理由だろう。
河本のにやけ顔を思い出しながら尋ねる。
「どうって」
「るりさんのことをどう思ってたんだ?」
「知るかよ。気があったのは確かだろうぜ」
高多はふてた口調で唸った。
「何を思ったか、大学に入ってからるりにモーションかけてたけど、るりの方は相手にしてなかった。生理的に合わないって言ってた」
高多の声が嬉しそうに弾む。
(…あれ?)
俺は唐突に頭に浮かんだ光景に気を取られた。
(そうか)
あの雨の日、どうして俺があれほどるりに目を惹かれたのか。るりの美人度とか周囲や一緒にいる男とのそぐわなさだけかと思っていたが、そうじゃなかった。俺は前にもるりを見ているのだ。
確か昼休みのことだった。校舎から出ようとした俺は、突然響いた何かが弾けるような音に前のめりになってこけそうになり、慌てて振り向いた。
「ってえなあ」
一人の男が頬を押さえている。その前で、灰色の制服を着た少女が、怒りに口も利けないと言った様子で仁王立ちになっている。
「恥知らず」
少女はよく通る甘い声で吐き捨てた。
「よくも他人の婚約者に向かって、そんなことが言えたものね!」
「強がるなよ」
相手はヘラヘラと笑った。
「最近鏡一の奴、冷たいそうじゃないか。慰めてやろうって言ってるんだよ」
「私はもうすぐ結婚するのよ」
「へえ…なら、鏡一と付き合っている女はどうなるのかなあ?」
呆気にとられて見ていた俺の側を、女達が陰口を叩きながら通り過ぎていく。
「嫌あね、河本君たら…」
「いくら、るりちゃんがいいからって」
「それも、よりによって高多君がおかしい時に…」
「鬼の居ぬ間になんとかしようってんでしょ、笑える」
その後どうなったのかよく覚えてないが、今思えば、その時の男が河本で、少女の方がるりだった気がする。
(となると…るりと高多は最近うまくいってなかったのは事実だよな?)
思わずまじまじと高多を眺めたが、高多は嘘をついたりごまかしたりしている様子はこれっぽっちもないし、るりを嫌がっている感じもない。むしろ、聞いている限りではるりにベタ惚れだ。
「?」
どう言うことだ?
「それからは?」
首を傾げていた俺に代わって、周一郎が確認する。
「それからって……るりと河本の間に付き合いはないよ……少なくとも『この間』までは」