8.悪女(1)
「そうですか……」
見舞いに来た俺と周一郎(もっとも周一郎は俺が無理に引っ張って来たのだが)に、るりは儚げな微笑を見せた。
謎解きが終わったことを告げられると、一層淡い笑みになって、わずかに目を伏せる。
そのるりの肩越し、窓の向こうには今日も雪が降っていた。暖冬と言われていた大方の予想を裏切って、今年の冬はいつもより数段厳しくなるだろう、と天気予報は言っていた。
「鏡一さんは、それで警察に…」
細く甘い声が呟く。掻き上げた髪に触れた白い指には、金色の指輪がことさら輝いている。
「ああ…」
俺が見つめているのに、るりは僅かに笑い、はにかんだ口調で続けた。
「もう、ずっと嵌めていろって。お前は俺のものなんだからって、鏡一さんが」
「良かったですね」
「ええ」
るりは振り仰ぐように俺を見返し、唇の両端を上げた。艶やかな、華やかな、どこか自信に満ちた笑みだった。
「…1つ、ききたいことがあるんです」
周一郎が切り出した。
「もし、迷惑でなければ、話してくれませんか」
「一体何でしょう」
待っていたように、るりは周一郎に視線を移した。大きく澄んだ瞳は怯む様子もなく、周一郎のサングラスの向こうの目を凝視している。
「『どうして』河本さんを殺したんですか?」
「え…おい」
俺はきょとんとした。周一郎を振り向く。
「謎解きなら、もう済んだはず…」
「本当は1つも済んでない、と言ってもいいのかも知れない」
周一郎は物憂げだった。
「結局、るりさんが河本を殺した理由はわかっていないのだから」
「待てよ、だからそれは、高多を守ろうとして…」
「…どうして、そう思われるんですか?」
俺を遮って、るりが問いかけた。
「あなたは、ずっと『待っていた女性』だった。高多さんが冷たくしようと、河本が誘いをかけようと、高多さんが振り向くのだけを待っていた。なのに、今回に限り、高多を守る為とは言え、およそ、あなたに不似合いな役回りを演じている。高多さんが人殺しをするような男性ではないことは、あなたが一番よく知っていたはずです。たとえ、高多さん自身が『人を殺してきた』と言っても、あなたは絶対に信じなかったでしょう、その現場を見るまでは」
「…」
「無論、これは、僕の推測に過ぎない」
周一郎は少し目を細めた。
「あなたが、知らない、と言えば、それで済むことですが」
「………」
るりは周一郎から俺に目を移した。瞳が柔らかく潤んでいる。くすっ、と不思議な笑いを響かせて、
「滝さんがいらっしゃるんですもの……嘘は言えませんね」
細い首筋に掛かった髪を、そっと払いのけた。
「私は信じていたんです。鏡一さんが人殺しなんかしていないことを」
「それなら、どうして…」
「鏡一さんは人殺しなんか出来る人じゃありません。だから、美砂さんが、鏡一さんが和枝さんを突き落としたと言ったり、河本さんが、鏡一さんが美砂さんも殺したんだと言っても、信じなかった」
「だけど、あなたは…」
俺はその後を呑み込んだ。
るりは、高多が人殺しをしたと思い込んで、脅しにかかっていた河本の口を塞ぐべく、誘いに乗ったふりをして、河本を殺したはずではなかったのか。だからこそ、高多はやりきれない思いを抱いて、るりの側に生涯居ようと、改めて決意したのではなかったのか。
「それでも、私は河本を殺さなくちゃならなかったんです……私のために」
「自分の……ため?」
るりは口を噤んで、俺を見つめた。しばらくの沈黙、そして唐突に、
「私の命……後1ヶ月もないんです」
周一郎がわずかに眉を上げた。俺はと言えば、耳に入ったことばの意味がどうにも掴めず、目をパチクリさせた。
「…わかったのは、1ヶ月ほど前…です。悪性の腫瘍で、手の施しようがないと。偶然に立ち聞きしたんです。若いから、一層進むのが早くて……2ヶ月保てばいい方だ…と」
泣き笑いのような幼い表情が、初めてるりの顔を覆った。
「最初に考えたのは、鏡一さんのことでした。鏡一さん、私にあんまり優しくなくて、きっと、私が死んだら他の人と……」
高多が優しく出来なかったのは、るりに惚れすぎている自分が怖かったせいだった。あまりにも、美しく大切なガラス細工を、高多は見ているのが精一杯だったのだ。けれどるりには伝わっていない、恐らくは今も。
「たった2ヶ月で、私は鏡一さんに忘れられてしまう……そう思うと、たまらなかった…」
るりの瞳からぽろぽろと、光るものが頬に零れ落ちた。それを拭おうともせず、るりは言った。
「その頃、美砂さんから、鏡一さんのことを聞いたんです。そんなことはない、と思ったし、河本さんから美砂さんのことを聞いても、信じなかった。けれど…」
るりは僅かにためらった。
「人の心って不思議ですね……いつの間にか、私の心の中に一つの考えが育っていたんです。もし、河本さんを殺したら……鏡一さんを『守る』ために殺したら……そして、それを、鏡一さんが知ったら………鏡一さんは私だけを見ててくれるかしら……」
きゅっと結んだ唇まで零れ落ちていた涙を、るりはそっと指先で拭った。まっすぐに俺を見つめ、にっこり笑う。それは、あの雨の日、るりの顔に見た笑顔と同じだった。
俺はそこでようやく気がついた。
あの時、るりの微笑みが語っていたのは、悟りや諦めじゃない。それはしたたかなほどの勝利感、これで、高多がるり一人のものになるのだと言う確信だったのだ。
「後1ヶ月だけのこと……」
一瞬、るりは指輪に目を落とした。だが、すぐに俺達を見上げて静かに続けた。
「私は、悪い女ですか?」
ったく、女って奴は。
俺は頭の中でぼやきながら、病院の階段を降りていた。運が悪いと言うか、巡り合わせが良すぎると言うか、今日もエレベーターが故障していた。まあ、上がる時に動いていただけ、せめてもの慰めといえば言えたが。
「わからんなあ」
昨日の由美の電話が蘇る。