7.時には愛が(1)
窓の外は曇って来ていた。さっきまで、近頃には珍しい晴天で、いやに冷え込むと思ってはいたが、この様子じゃ雪になるかも知れない。昼過ぎだというのに、薄暗い陽が弱々しく俺の部屋を照らしているだけ、寒々とした暗さが部屋の隅々に凍っていた。退屈しのぎにつけていたラジオの曲が途切れ、男の声が次の曲を告げる。
「滝様」
「ん?」
半開きになっていた扉の向こうから、控えめで上品な高野の声が響き、振り返った。
「お見えになりました」
「通してくれ」
「はい」
今回は周一郎に言い聞かされたのか、高野もはぐちゃぐちゃ言わなかった。間もなく、ドアを軽く軋ませてくる高多の姿が視界に入った。
(嫌な役だな)
「座れよ」
「ああ」
高多にソファを勧め、腰を下ろしながら、俺は塞いでくる気分を持て余した。
このまま知らんぷりを決め込むのも、ある意味では正しいのだろうが、るりが囚われ、その殺人の動機を知る為に奔走した高多が目の前にいる以上、俺は苦手な探偵役にケリをつけなくてはならなかった。
『始まりは…』
気まぐれだとしても、嘘のない愛、と歌い上げていく曲を、スイッチで切る。
「失礼します」
せっかちに口を開こうとする高多を制するように、高野が入ってきて、コーヒーカップを2つ並べて出て行った。
「…話があるって言ってたな」
「ああ」
「るりのことがわかったのか?」
高多は咳き込むように真剣な表情で訊いた。
「そっちは?」
「完全にお手上げだ。…るりは、それについてだけは喋らない」
苦いものを吐き出すように、高多は答えた。
「…だろうな」
「え?」
「動機はお前だからだよ」
「何…?」
俺は高多の頭の中にことばが浸み込むのを待った。脳裏に昨夜のお由宇の声がゆっくりと蘇ってくる。
『何?』
聞き間違えたのかと思って、お由宇の口元を見つめたものだ。
『高多がるりの動機だったの』
お由宇は物憂げに繰り返した。
『高多を守りたいがために、るりは河本を殺したの。高多には一言も言わずに、ね』
「お前、さ」
のたくりたがる手を組んで続ける。
「野間和枝って言う娘、知ってるだろう?」
「…知らん」
高多は一瞬たじろぎ、それから静かに首を振った。警戒するような目の色になっている。
「たぶん、知ってると思う」
俺はぼそぼそ言った。
「11月8日、屋上から落ちて死んだんだ。和枝はお前を好いていた。その日、お前に告白するんだと言ったのを聞いていた娘がいてさ」
由美がそのことを電話してきたのは、一昨日の夜、俺がお由宇に謎解きをしてもらった日のことだった。
「それで、和枝は実行委員会が終わった後、お前をあそこへ呼び出したんだと思う。そこで何があったのかは知らない。けれど、和枝は屋上から落ち、お前はその場を逃げ出した。けど、それを見ていた娘がいるんだ」
俺の声は高多の沈黙に吸い込まれ、どんどん小さくなっていくような気がした。
「それが松岡美砂だった」
長くなる間が保てなくなって、コーヒーを含んだ。香りが苦味を帯びていて、余計に口の中が渇いただけだった。
「美砂は、お前が和枝を落とした、それを見たんだ、と言い張った。そして、それをネタにお前を強請ったんだ」
高多は息を詰めて、俺を凝視している。
「美砂は、河本にもそれを話していた。河本は、始めは美砂からのおこぼれに甘んじていたが、そのうち、それだけでは物足りなくなってきた………と言うより、もっといい方法を思いついた」
また一口、コーヒーを啜った。
「お前と河本は、ずっと昔からるりさんを挟んでのライバル同士だった。河本は美砂にお役御免を言い渡し、自分が取って代わろうとした。だが、それには美砂が同意しなかった。だって…」
『だって』
お由宇はセミロングの髪をかきあげ、ちょっと寂しげな目になった。
『どう言う手段にせよ、好きになった相手と自分を繋ぐ、ただ1つの絆だものね。美砂が高多を脅そうと考えたのは、単にお金が欲しかったんじゃない。たぶん、愛した人間と同じ傷の痛みを……たとえ、慰め合うことはないにせよ……分かち合えると思ったせいじゃないかしら』
「…が、河本には、美砂にそこまで付き合う義理も何もない。わかったと納得したふりをして、美砂に睡眠薬を飲ませ自殺させ、自分がちゃっかり後釜に座った。そればかりじゃない、るりを渡せ、とお前に要求してきた」
ぴく、と高多の眉が上がった。
「だが、それに応じるわけにはいかない。悩んだお前を、るりが見ていた」
「…るりは……」
高多が低い声を絞り出す。
「知らなかったはずだ」
「…知っていたんだ、どう言う方法でかは、知らないが」
俺はゆっくりとお由宇のことばを繰り返した。
「河本が喋ったのかも知れない、るりさんを手に入れる為に。ひょっとしたら、美砂がお前を手に入れた優越感から、るりさんに話していたのかも知れない。とにかく、るりさんは知っていたんだ。だからただ、お前を守りたいばかりに、河本の誘いに乗ったフリをして近づき……」
その後を俺は飲み込んだ。
ボーン、とどこかで時計が時を告げる音がした。沈黙だけが重さを増している。
ふと気づくと、外には細かい雪が舞い始めていた。
「…優しい人間だよな、あんたは」
唐突に高多が口を開いた。溜息をついてソファの背に凭れかかり、独り言のように呟く。
「るりが……知ってたのか…」
「……」
「それで…俺のために……河本を殺したって言うのか…」
「………」
「どうして、俺に…一言……」
高多の声が急に途切れた。そちらを見た俺は、高多が目元に当てた腕の下から流れ落ちたものに気づいた。強いて知らぬふりをしてコーヒーを飲む。続けることばの無さに、慰め方を思いつかないがために、必死に吞み込む。底の方に砂糖が溜まっていて、ひどく甘ったるかった。
「…」
俺は空になったカップを手に持ち、立ち上がった。高多が少し身動きする。
「コーヒーの代わりを貰ってくる。覚めちまったろ」
高多のカップを取り上げると、掠れた声が応じた。
「このまま、逃げたらどうする?」
「…逃げんだろうな」
「どうして、そう思う…?」
「何となく、さ」
「…あんたらしいぜ」
頼りなく呟いた高多は、その後小さく、囁くように呟いた。
「お前がいるのにな…るり」
湯気の立つコーヒーを前に、少し落ち着いたらしい高多が話し始める。
「和枝は高校の時から知ってたんだ。何となく、俺が好きらしいってことも………けど、俺にはるりがいたし、あいつ以外の女は考えられなかった。あの日、俺達は実行委員会で残っていて……推察通り、屋上に呼び出された…」