5.空を飛べたら(3)
(本当に、この娘が人を殺したのか?)
心の中に、またもや何度も繰り返した問いが膨れ上がる。
るりの笑顔には、そういったものを思わせる翳りはどこにも見当たらない。それどころか、そんな陰惨な話は聞いたこともないと言いたげな、澄んだ大きな瞳をぱっちり見開いている。
「座って下さい、滝さん」
「あ…どうも」
ぎくしゃくと俺はパイプ椅子に腰を落とした。
「ふ…ふ」
るりは思い出したように、桜色の唇を微かに笑ませ、小首を傾げた。
「正直なところ、あなたには会っておきたかった…」
聞こえるか聞こえないかの囁き声。
「あなたなら、わかるかも知れないと思ったんです……あの日」
「…わかる?」
「…私に何か、訊きにいらしたんでしょう?」
るりはまっすぐ俺を見た。長く黒々とした睫毛に縁取られた瞳は、たじろぐこともなく、俺の姿を捉えている。
「何かって」
俺はもごもごと口の中で呟いた。
一体何を訊けばいいんだ。河本を殺したのはあなたですかなんて、唐突に切り出せるわけもないし。
戸惑いを見抜いたように、るりはぽつりと、
「この手で殺したんです」
「っ」
ぎょっとする俺に、わずかに目を伏せる。
「父のサバイバル・ナイフ……ハンドバッグに入ったし……河本が、シャワーから出てきて、無防備に私に背中を向けた時に……甘えかかるふりをして、しなだれかかるようなつもりで、そのまま、真っ直ぐに」
ことばを切って、くっと握り締めた手は、ナイフを握ったような形になっていた。
「何度も言ったのに、信じてもらえないんです」
るりはすがるように俺を見上げた。
「私には明確な殺意がありました。誘われた時から殺すつもりだった。だから、お腹を狙ったんです」
「だけど…どうして…」
無意識に問いかけていた。自分の声に気がついて、改めて問い直す。
「どうして、君が河本を……その……殺さなくちゃならない?」
「だから、言ってるのに」
るりは焦ったそうに応じた。
「嫌いだったんです。私は河本という人が憎かったんです。だから、殺したんです」
「憎かったって……だけど、殺さなくても…」
「いいえ!」
るりははっきりと首を振った。それは、か細い肩や細い頸に不似合いなほど、激しい否定だった。
「あの人は、死ななきゃ、ならなかったんです。そして、『私が』、殺さなきゃ、ならなかったんです」
その目に一途な強い光が満ちていて、ふと、この娘は一体何に賭けているんだろうと思った。自分の身の安全を顧みないほど、そして、一番嫌っていた男の誘いに乗ったふりまでして相手を殺すという行動を取るほど、一体、何に賭けていたのだろう。そこに、どんな見返りがあったのだろう。
「高多は……その理由を知っているのか?」
ゆっくりと尋ねた。あるいは、高多が俺に話していないこともあるかも知れない。
だが、るりは黙って首を振り、どこか虚ろな優しさを含ませて答えた。
「あの人は知りません……………それでもいいと思っていた……でも……」
「でも?」
ふっとるりは顔を上げた。そのまま、窓の外へ視線を投げる。釣られて、そちらをみる俺の耳に、まるで子守唄に酔うような甘い声が届いた。
「少し前までは、どんな人間でも、死ぬ時は空を飛べると思っていたけれど…」
「……」
「飛べない人間もいるんですね」
「飛べない人間、かあ」
俺は夜道を石を蹴り蹴り、朝倉家へと戻っていた。財布の中身をつい忘れ、病院へタクシーなんぞで行ったせいで、帰りの電車賃がなくなったのだ。
るりの最後のことばが、妙に心に引っかかっている。
(あれは、河本のことなんだろうか)
河本は、正直なところ、いい人間ではなかった。高校生の頃から薬物の売人に手を染め、人の婚約者に手を出し、様々な女と寝ていた。そういう河本だから、殺されても、死んだ後でも天国へ行けないんだ、だから『飛べない人間もいる』。
或いは、るり自身のことかも知れない。
るりは、どんな理由があったにせよ、人1人殺してしまっている。それが悪党で、人間界ではるりの同情が集まっても、全てを見通すという神様の前では河本と同じ、だから自分も天国には行けない、だから『飛べない人間』。
「う~…」
歩きながら唸り、髪をかきむしる。
「もう少しなんだがなあ…」
この、もやもやとしたものの向こうに、何かがぼんやり見える。そして、それさえ見えれば、霧が太陽に薄められ消え去るように、引っかかっていること全てがわかるような気がするのだが。
頭の中をお由宇の顔が過ぎる。続いて厚木警部の顔。
高多主犯説。高多が俺に協力を求めたのも、実は自分から捜査の目を外らせる為のカムフラージュ、るりはそれに利用された。
図式としては悪かあないんだろう。高多は河本に脅されていたっていうし、美砂の件はもひとつわかってないが、河本とつながりがあったようだし、ひょっとしたら河本から高多を脅すネタを聞いていて、それを知った高多に殺されたのかも知れない。
後は、高多が何のことで脅されていたのかがわかれば一件落着、へぼ探偵はお役御免というところ、お由宇の情報網と厚木警部の機動力をもってすれば、調べるのにわけはない、何せ、向こうはプロだ。
だが、俺はしつこく引っかかっていた。厄介事を嗅ぎつけることに関してだけは才能があると誇ってもいい俺が引っかかるのは、大抵、厄介事が片付いていない証拠だ。
「ったく、何が引っかかってるんだろうな!」
腹を立てて勢いよく石を蹴った。石は薄暗い街灯が点いたり消えたりしている下を、とん、とん、とん、とん、と跳ねて、そのまま右側にある小さなドブ川に飛び込む。ぽちゃん、と微かに音が響く。
「どんな人間でも、死ぬ時は空を飛べる、かあ…」
(…あれ?)
何気なく呟いて、語調の悪さに舌を噛みそうになってはっとした。
「『死ぬ時』は空を飛べる……?」
普通、『死ぬ時』と言う言い方をするものだろうか。死んだら、とか、死ねば、とか言うような気がする。そもそも人間には羽根がない。だから、死んで肉体から離れた心というか魂というかが自由になるってんで、空を飛べる、と言うような気がする。だが、『死ぬ時』空を飛ぶ、と言うのは……?
1人の少女の名前が浮かぶ。
(和枝?)
「!!」
突然パッと周囲が明るく照らされ、ぎくりとして立ち止まった。背後にいつの間にか響くエンジン音、鈍く重い振動が空気を揺らせた、と思う間も無く、俺に向かって突進してくる。
「へ? …ちょっ…ちょっと…!」
はじめはのたのた、中はばたばた、やがてはびゅんびゅん、つまりは全速力で駆け出しながら俺は喚いた。
「待てっ、人がいるっ、俺は人だってえのに!」
わめきながら、微妙に観点が違っている気がしたが、構っていられない。
「そりゃ確かにドジだと思うっ、人類を超えてる気もするっ、だが間違いなくヒトだ! 哺乳類! 霊長類!! 待てってば!!」
背後の車は容赦なくスピードを上げる。ぶつかるまで後、数mもないに違いない。
「ひええええいいっ…」
ダッシュした。足も折れよ、喉も涸れよ、頭なんか沸騰したって構わない、とにかく命の限りダッシュした。気づくとL字路の角の突き当たり、右のドブ川が左に大きく曲がりくねって、前方に口を開けていた。ただでさえ反射神経の回路が一般人の数倍は長いらしい俺だから、まともに立ち止まれるわけもない。
キュキュキュ、キュ……バウンッ!!
黒塗りの車が忌々しげにタイヤを軋らせ、エンジンを吠えさせ、見事にL字カーブをクリアした時、俺の体は同じぐらい見事に宙に浮いていた。
しみじみと考えた。
この空を飛べたら………。




