1.雨の日の物語(1)
それは初冬と言うのも遅すぎた、ある雨の日のことだった。
「ひええええぃ」
俺は学校帰りに雨に降られ、ようよう軒先きの一つに飛び込み、バタバタ雨粒を払い落としながら周囲を見回してどきりとした。
あまり人気のない街並、暮れ掛けた陽と雨のせいで薄暗くなった空間、ぽっかり浮かぶネオンサインがなければ、まあ落ち着いた雰囲気と言える。
だが、ネオンサインは鮮やかな蛍光ピンクに輝いていた。
『ホテル メルヒェン』
「わ」
ぎょっとして周囲に浮かび上がり始めるネオンを追うと、ますます暗くなる空にはっきりと文字が読み取れる。『ホテル 赤れんが』『キャンシー・サービス』『城内別牢』『花嫁相談所』『ホテル みすてりぃ』………。
「ここ…ホテル街か!」
俺は狼狽え、次第に激しくなる雨の中へ出て行ったものかどうか一瞬迷った。
その時、軽いブレーキ音を響かせて、すぐ側の駐車場に一台の赤いポルシェが滑り込んだ。どうやら利用客らしい。もう少し中まで入ってやればいいのに、俺が雨宿りしている場所から顔が見えかねい所で止まっている。
「おいおい」
身を隠そうとして、それとなく覗き込んだ俺の目に、助手席から降りて来た女が飛び込んだ。
(へえ…)
思わずまじまじ眺めてしまう。
何も覗きが趣味なわけじゃない。降りて来た女があまりにもあたりの風景とアンバランスで異質な感じがしたのだ。
髪はストレートのおかっぱ、輝く白いうなじの中ほどで切り揃えている。髪に半ば隠されるような横顔は、陶器細工じみた白い肌、ぽっちりと赤い唇もどこか儚げで、伏せたまつ毛の長さも申し分ない。身に付けているのは純白の清楚なワンピース、胸元にかけた真珠のネックレスも白、華奢な脚に白のパンプス、ホテル街に来るよりはどこかの教会へでも行くような姿だ。
その女の肩を抱いて押すように歩き出したのは22、3のにやけた男で、派手な柄のジャケットを羽織り、二言三言、女の耳元に囁いた。雨の音でよく聞こえなかったが、僅かに女が瞳を上げ、きっと男を睨んだところを見ると、下卑た類のからかいだったんだろう。そのまま傘を女にさしかけることもなく、駐車場から少し離れた入り口へ意気揚々と向かう男に付き従い、伏し目がちに歩を進めていた女は、ふと何に気づいたのか、突然こちらを向いた。
「っ」
「………」
どきっとしてしゃちほこばった俺を、深く澄んだ瞳で見つめる。次の瞬間飛んで来るだろう罵声を予想し、目を閉じかけたが。
「…え?」
女は一言も喋らなかった。ただにっこりと、淡雪のように消え入りそうな、けれど妙に艶やかな笑みを浮かべて見せた。
呆気にとられてぽかんと相手を見つめている俺に、一層微笑を深めた彼女の髪に、雨は容赦なく降りかかって濡らし続けている。密やかな沈黙を守り続けた唇が、笑み綻んだまま開きかけた。
「るり!」
その時、男が苛立たしそうに彼女を呼んだ。はっとした様子もなく、予想していたかのように、るりと呼ばれた女は、そちらへ顔を振り向けて淡々と応じた。
「今、行きます」
その声と、すうっと髪を掻き上げた手の幼さに、相手が外見よりずっと少女なのに気づいた。19か20………ひょっとしたら、20にはなっていないかも知れない。
「……」
少女は年齢にしては信じられないほどの落ち着きで、向きを変えた。そして、ホテルの中に消え去るまで、一度も振り返らなかった。