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父と母そして私  作者: ハク
1/1

私の名前をつけてくれたのは組長さんでした…

昭和59年5月3日午前7時45分私は産まれた。

名前は憲法記念日に生まれたから「のりこ」とつけられた…

名付けは両親では無く、父の属していた組の組長さんだったか若頭だったかである。


そう、父はいわゆる「やくざ」と言われる分類の人間だったわけです。


そんな父が亡くなり1年。何となく自分の事を振り返りたくなったので文字にしてみようと思ったわけです。


まずは私の生まれた時から3歳頃までの話。


父は昭和12年生まれ、母は昭和24年生まれ私が生まれた当時どちらもそこそこの歳だった。

母は再婚のため初産では無く、私の妊娠がわかった後も病院にかかることも無く、むしろ母子手帳さえ貰っていなかった。

そんな中、家で破水をした母は自宅から歩いて1分の場所にある消防署まで、歩いて救急車を呼びに行ったらしい…。

そしてそのまま救急車で運ばれ出産。

しかし妊娠8ヶ月での出産だったそう。

父にとっては初めての子供だったそう。


当時父は、違法麻雀ゲーム店の管理を任されていたようで、ゲーム機の前でにこやかに笑う写真を見せてもらった事があったが、記憶には当然ない…

母は母で、競馬のこれまた違法馬券販売の電話受けをしており、泣く私をあやしながら、電話番をしていたそう。

場所は当然、組事務所の一室である。

機嫌がいい時は歩行器で事務所内歩き回っていたらしい……。


私が生後8ヶ月頃にハイハイをし始めた頃の事件。

前にも書いたように父も母も普通の人ではなかった訳です。

白い粉の売買等もやってたんですね。

父は自宅でその粉の小分け作業をやってまして、その日片付けたはずだった道具が残されてたんです。

それをハイハイをはじめて動き回るようになった私が見つけ、そのまま口に入れちゃったんですね……

獄微量だったことで死にはしませんでしたがね。

ギャン泣きし、泣き止んでも目はギラギラで様子がおかしいと感じた母が辺りを探すと、舐めたであろう道具が出てきたわけです。

さすがに焦ったようですが、病院に連れていく訳にもいかず、母のとった手段は家にあった睡眠薬を飲ませること…。

ミルクに混ぜて(もちろん量は調整)飲ませ、無理やり眠らせたそうです。翌日には落ち着きを取り戻したそうで、今も特に不自由なく生きてるわけですけどもね。


ここまででお解りのように、父は薬物中毒でした。

当然のように数回の逮捕歴もあります。

私が1歳になる前日…父は連れていかれました。

場所は日本一スラムな場所にある警察署でした。

どうやら内偵も進められていたようでした。

当然一緒に住んでる母にも疑惑は行くわけで、子供連れで警察同行されるわけです。

幸い母は薬物には手を出していませんでしたので逮捕にはなりませんでした……まぁ売買については、父があいつは見逃してくれと頼み込み、別の薬物中毒の愛人を差し出したことで母は間逃れたようです。

今の時代ではありえない事ですけどね。

ありえないといえば、母の取り調べをした人が子供(私)が翌日誕生日だと知り、その夜父のいる留置所に入れてくれ更にはケーキまで用意してくれ誕生日を祝ってもらうというありえない経験もしたようです。当然記憶にはないですが(笑)

この時は売買に使用と重なったこともあり数年の実刑となっていたようです。


このすぐ後位に母と二人引越した為、その時に父が属していた組との関係についてはどうなったか知りません。

以後、私には組の関係者の方に会った記憶は無いので、切れていたのかもしれません。


その後の記憶は飛び飛びで断片的。

父が帰ってきて数年…保育園年小あたりの話

この頃の父は土木ではあったが、仕事をしていてはずである。

よく酒を飲み歩き、母と喧嘩しては手を挙げていた。

酔って帰って来ると、トイレに私が入ると外から扉を押さえ出られなくして泣く私をゲラゲラ笑ってる。

家の横の道路を暴走族が走るとうるさいと言って、昔来ていた組の名前の入った服を着て木刀を持って追い掛けていき、相手にも怪我をさせ自分も血塗れで帰ってくる。

そんな父が大嫌いだった。

でも46と言う遅い歳で出来た私を可愛がってくれていた。

休みには大きなアスレチック公園や遊園地等、沢山遊びに連れて行ってくれた記憶もある…朝から立ち飲み屋に連れてかれるなんて事もあった…夜にはスナックに連れていかれカラオケを歌わされた…知らないおじさんとデュエットしてお小遣いを貰っていた事もある(笑)


父の友達にも可愛がって貰った。

まぁみんな、元は堅気ではない人達で、指が足りなかったり身体中綺麗な絵が書いてあったりしたけれど…。

その絵を消しゴムで消そうとして笑われたのは、なんとも言えない思い出…。

そんな日々のある日、保育園の運動会の朝だった。

知らないおじさんが数人訪ねてきた。

父と母が何か話している……。

運動会が終わると父はいなくなった。

朝来たのは、麻取り(マトリ)と呼ばれる人達だった。

そう…父はまた薬物で逮捕となったのである。

この時は1年程父がいない生活だった。


保育園年中から年長に上がるあたりだったと思う。

父の酒癖は相変わらずで耐えかねた母がもう無理だと、私の手を引き生まれ故郷へ帰った。

母には姉妹はいるがもう両親はいないため実家は存在しない。

母と2人、田舎の街で暮らし始めた。

しかし女手1人で生活するには厳しく、母は水商売をはじめた。

小さいスナックだったので、母の仕事が終わるのを店の2階で待たせて貰ったりもした。

でもお酒の匂いをさせ帰ってくる母はやっぱり嫌いだった。

子供の頃は全く意味が分からなかったが、数人の男性が家に出入りしていた。

母には援助を申し出てくれる人がいたようである(私が大人になってから当時を振り返り感じた考察である)

この頃だったかな…断片的な記憶…

母も疲れていたのだろうね…

真夜中の港の防波堤…その先は行けないよって目印の赤く灯る光…数人の夜釣りに勤しむ人影…私の手を強い握り母は呟いた…「このまま一緒に飛び込もうか…」と……

当時6歳だった私は「私の人生これからやのに死ぬの?そんなん嫌や」と言ったらしい。

自分の言った事は覚えていないけどその言葉で飛び込むことを踏みとどまったと言っていた。

でもその数日後、沢山雨が降った後で風も強い日だった。

夜中に目を覚ますと母がいない……テレビは砂嵐……外は風が強く窓がガタガタなっていた…。古く建付けの悪い家で引き戸の扉…子供の力では開けきれなくて、小さく開いた隙間から手を出し、外を覗き「おかぁさん、おかぁさん」と叫び続けた。

数時間後に家に出入りしていた男の人に連れられて帰ってきたのを安堵した記憶。

この頃以来、私は夜の海と風の強い夜が苦手になった。

いい歳になった今でも、夜の海…特に港の防波堤は足が震えて過呼吸になり行く事ができない。


そんな暮らしも父の来襲により終わりを告げる。

父と母は離婚をした訳でもなく、ただ母が子供連れて家出したというだけで、父は探していた訳。

居場所を見つけた父は迎えに来たのだけれど、その頃には私の中の父はお酒を飲んで母に暴力を振るう悪い人と言う認識だった為、父を見た瞬間「お父さんや!逃げろ〜!」といい走り出したのです。

後に父から散々あの時のお前の一言にはショックすぎてたまらんかったと言われましたけどね。


その後しばらくはまた家族3人で暮らしてました。


小学生3年か4年頃の記憶。

同じアパートに住む同級生がいて、家族ぐるみで仲がよくて、お互いの家にも行き来してよく遊んでた。

家族ぐるみで仲がいいって事から分かるようにこの子のお父さんもうちの父と同じような職業の人だったんだけどね。

で、その子にはお兄ちゃんと妹がいて、このお兄ちゃんが当時中学1〜2年だったかなぁ…。

丸刈りでそこそこ背も高くて、紫のラメ入りのイカつい自転車に乗ってた。

友達の家に遊びに行った時にお兄ちゃんがいると、一緒に遊ぼうと言われて隣の部屋に私だけ連れていかれて「プロレスごっこ」をしてた。

私は遊んで貰ってると思ってたから押さえつけられたりするのを、笑いながら抵抗してたし、そのお兄ちゃんが怖いとか思わなかったの。

今覚えてるのは夕暮れの電気のついてない薄暗い部屋で組み敷かれて下から見上げるはっきりしないお兄ちゃん……。そんな光景…。

そんな「プロレスごっこ」を何回かして遊んだ事があった半年後とかに学校から、あるプリントを貰ってきたの。

内容は「下校中の6年生の女の子が抱き着かれたり、手を引かれたりして暴行されそうになりました。

犯人は中学生〜高校生位の丸刈りで身長170前後、紫ぽい色の自転車で逃走」と書かれていた。

それを見た父と母は冗談のつもりで「〇〇君(友達のお兄ちゃん)も紫のチャリ乗っ取ったなぁ」と笑いながら話していた。

そのお兄ちゃんからはプロレスごっこの事は誰にも内緒って言われていたので誰にも話さなかったんだけど、そのプリントの犯人はお兄ちゃんだったんじゃないかと今でも思っている……。

やっぱり大人になってから考えると、あの「プロレスごっこ」は普通の遊びじゃなかったんだろうと思ったりもして……。


そんな事がありながら、日々過ごし、小学4年生の6月位かな、また母と二人家出をする事に。

この時は父と母の間でお金のトラブルがあった事、私が父に怒られ鼻血が出るまで殴られた事が重なっての家出だった。

行先はまた母の故郷の田舎。

もちろんお金なんてない。

頼る人もいない。

向かったのは市役所で、旦那の暴力から逃げてきたから助けてくれと言ったらしい。

そこで紹介されたのは婦人相談所と言う所だった。

1ヶ月を目処にそこで寮生活をしてお金を貯めて家を借りなさいと言うことだったようである。

でもここは大人しかダメと言う規定があり子供である私は受け入れができないらしく、私は母と離され児童相談所の一時保護所で生活する事になった。

寂しかったし不安だった。あまりの環境の変化に突然の初潮。

お祝いなんて当然なかった。

ここには当時私以外に入所はなく、ほとんどを1人(先生は何人かいたけど)で過ごした。もちろん勉強はしなきゃいけないし、小さいけど体育館はあったので運動もさせられた。

でも施設の外に出る事はできなくて閉鎖的な空間だった。


1ヶ月程で母が迎えに来て、二人で暮らすようになった。

1Kの古い木造の長屋。トイレは汲み取り式で臭かった。

小学校も転校する事になったんだけど、初めは皆物珍しさから仲良くしてくれるけど、次第に元のグループにまとまっていった。

馴染めなかった私は孤立して学校に行かなくなった。

外の世界が怖くなった。

だんだん夜にしか外に出なくなり昼夜逆転の引きこもり状態に陥った。

学年が変わると何か変わるかも…と学校に行くが結局どこのグループにも入れず引きこもる…を繰り返していた。

修学旅行も言ったけど、全く楽しかった記憶が無い…。

母は母で仕事はしているけど、パチンコ通いも酷かった。

結局父が母に対して怒っていた原因はここにあった訳です。

他にこの時にも母は何人かの男の人からお金を借りたりしていたみたい。


身内は母の姉妹が近くにいるけど、呆れて助けてはくれない。

この時に何故かちょくちょく助けてくれてたのは私の従兄弟であり母の甥っ子である。

母は姉妹の中でも末っ子で他の姉妹とはかなり歳が離れている。

姉と甥っ子とちょうど真ん中位の歳だった。

ややこしくなるので私の従兄弟で話を進める事にします。

この従兄弟は当時兵庫に住んでいた。母の故郷は四国地方。

わざわざ1ヶ月に1回程四国まで来てたんです。

この母と従兄弟の関係もよく分からない……。


ある時家賃滞納で、家を追い出される事になった。

この時従兄弟に大阪戻ってきたら?と言われ大阪に戻る事に……。

これが小学6年の卒業式間近の事だった。

なので私は小学校の卒業式は出ていない……。校長室で卒業証書だけ貰ったよ。半分以上休んでたし、余りいい思い出も無かったけどね。


一応小学校卒業と同時に大阪に…。

そしてまた市役所を頼り、行き着いた先は母子寮と言う所だった。

その名の通り、事情を抱える母子が暮らせる寮である。

そこから母は仕事に、私は学校に通う事になった。

中学校入学……。

周りは地域の小学校からの進学で、私は地方から。

顔見知りなんていないし馴染めない。

当時というか小学校の引きこもり時代にヴィジュアル系バンドにハマりつつあった私は、ジャニーズにキャーキャー言ってる同級生に合わせる事が出来なかった。

そうしたら、その内ヴィジュアル系はキモイだの言われはじめ、また学校に行かなくなった。

中学校はほとんど行っていない…

しばらく保健室登校とかしてた時期もあったけど、保健室にいることがバレるとコソコソ言われて嫌になり行かなくなった。

中学2年生の文化祭の合唱。メンバーの配置図…私の名前は括弧で囲われていた……。

この時に、「先生にも見捨てられた」と思った。

それ以来学校に行くことなく修学旅行も卒業式も出なかった。

担任は修学旅行位は行こうと、家まで来たけど、持ってきたパンフレットにはまた、括弧で囲われた私の名前。

それ見て行くわけないやん……。

卒業式はみんな揃ってしたいと言われたけど、そんなの知らんし…。

と卒業式も行かなかった。

卒業式後担任が家まで卒業証書届けに来たよ。


中学3年間は学校にはそんな感じでほぼ行かなかった。

家でずっと音楽を聞いてた。公衆電話で必死にチケット取ってライブに行った…真っ黒の服を着て目の周り真っ黒のメイクをしてね。

同じ寮に住む1つ上の先輩と、よく一緒にいて万引きバレて怒られた事もあった。

当時はまだ薬事法とか厳しくなくて、病院でちょっと寝れないですって言うと、簡単に安定剤とか眠剤とか出してくれてたから、依存気味になってたかな。

そんな感じだったから、一応定時制高校受験したけど落ちたよね…。

まぁそれで受かってたらちゃんと勉強してきた人に対して申し訳ないしね。


この頃の母は働きながら足りない分を生活保護でって感じだったけど相変わらずパチンコはやめれずだった。

そしてやっぱり従兄弟にお金借りたりしてたんだよね。

この従兄弟も何故母にお金貸したりしてたのか未だに謎。

同じ寮に住んでいた人と後に不倫してたみたいだし、母とも何かあったのかなぁって、何となく思わなくもないけどね。


中学卒業してすぐに寮を出て母と二人で暮らすようになるんだけど、

その後は普通の暮らしかな。

資格取る勉強しながらバイトして〜って感じだった。

相変わらず、病んで薬依存にリストカットしてたけど。

この頃に携帯が普及し始めて、初めて出会い系サイト利用。

16歳でサイトで知り合った同い年の人とハジメテを捨てた。

ホテル街外れの古い木造の旅館みたいな所だった。

痛くも無かったし、気持ちよくも無かった。

なんだこんなもんかって……。

それからサイトで何人かとあった。

サイトではちやほやされるし、会ってホテル行くと、その時だけは必要とされてる気がして満たされた。

すぐに虚しくなって薬にリスカ…そしてまた出会い系サイトの負のループ

…。

ハジメテを捨ててから1年足らずで妊娠……。



話は変わって母の話。

7人姉妹の末っ子として生まれた母は中学卒業と同時に集団就職で神戸で就職。その後知り合った男性と18歳で結婚して子供を二人産むも離婚。

なので、私には血の繋がりのある兄と姉がいるらしいです。あった事もないけど。


20代前半の頃に父と知り合い一緒にいるようになる。

この頃には、飛田新地で働いていたらしい。

その後京都に引っ越すが、京都ではデートクラブで働いており、お客さんには有名な脚本家がいたようで、その人の書いたドラマが放送される度に「〇〇はサービス要求する割に金払い悪しい最悪やった。やのに何回も呼ばれるしなぁ」とよく話していた。

ちなみに飛田の話やデートクラブの〇春の話は小学校高学年の頃には聞かされていた…。


父が白い粉の売買をしていた頃は買い物カゴに物入れてスーパーで取り引きなんて事や、子供のしてる紙オムツの中に仕込んで飛行機の荷物検査通過…なんて事もあったそうです。



そんな環境で育って、一時期は病んでめちゃくちゃになってた私だけど、

今は子供2人と優しい旦那さんとで、幸せに暮らしてます。

旦那は私とは正反対の、真っ当な家で世間知らずに育った、真っ白な人だけど、こんな私を受け入れてくれて愛してくれます。


こうやって自分が親になり、幸せに思える環境に身を置くことで、やっと父と母に感謝できるようになりました。


ろくでもない、酒飲みで、前科持ちで、頑固で、大嫌いだったけど、

私がこの世に産まれることを受け入れて育ててくれたお父さん、ありがとうございました!

娘として、最後にしてあげれたことはすごく少なくて後悔は残るけど、これからも空の上から孫の笑顔でも見守っててよ。

私は子供たちが常に笑顔でいられるように頑張るから。


お母さんも任せて!もうパチンコで失敗はさせないから。

息抜き程度以上はやらないように監視してるからさ。


飲めなくなってたお酒、そっちでは程々に楽しんでよ。

そして何十年後か、私がそっち行ったら楽しく笑ってみんなでお酒飲もうね。







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