05.流転
太った男が脂ぎった笑みを浮かべながら、ビリビリとわたしのワンピースを破く。気が済むところまで破ったのか、男の顔面がわたしの胸元へと近づいてくる。――もうどうしようもなくって、ぎゅっと目を閉じた。覚悟を決めて数十秒……想像していた不快な感覚は訪れない。――それどころか、足元が軽くなったような。そう気づいたと同時に野太い男の叫びが耳をつんざく。
目を開くと、太った男の背中に真っ赤な炎が宿っている。まるでかちかち山の狸のごとき姿で男はのた打ち回っている。――刹那、タトゥー男に取り押さえられていたはずの腕も軽くなる。今度はタトゥー男の腕に炎の矢が突き刺さっており、男はのた打ち回っている。
わたしが半身を起こすと、目前に居る逆毛の男と色白の少年は酷く怯え切った様子でわたしを――いや、わたしの後ろを見ている。彼らの視線に合わせて振り返ると、そこには巨大な炎が上空で燃え盛っていた。その炎はドラゴンのような形をしており、まるで生きているかのように旋回している。――逃げなきゃ! そう咄嗟に判断したものの、足が竦んで動けない。
太った男とタトゥー男はいつの間にか飛び込んでいた湖畔から上がると、近場の木に手綱を括り付けていた馬に乗って逃げ出した。逆毛の男と色白の少年もそれに続く。わたしは「待って」と言いかけて、言葉を飲んだ。彼らに蹂躙されるくらいなら、このドラゴンに焼き殺された方がマシかもしれない……。
そう覚悟を決めた時、ドラゴンが姿を消した。代わりに人影が現れたのでそちらの方を見ると、青年が立っていた。端正な顔に柔和な笑みを浮かべ、わたしに手を差し伸べてくる。その手を取っていいものか悩むけれど、両掌が地面に付いたまま動かない。それどころか、体が震える。この世界に来てから起きた色々なことが次々と頭を過っていく。
「私は貴女の味方ですよ」
彼の端正な顔にマチルダの笑顔が重なる。「あたしゃあんたの味方だよ」という幻聴がする。その声を払いのけたくて、わたしは耳を両手で覆う。苦しくって、うまく呼吸ができない。
青年は身に着けていたマントを外すと、わたしの体に掛ける。
「失礼。今の状態で男と2人は怖いですよね」
その声音は甘く優しく響く。それに応えたいのに、喉が閉じ切っているのか声がうまく出せない。そんなわたしに青年は嫌な顔一つせず、ゆっくりと言葉を紡いでゆく。
彼の名前は、エイデンというらしい。年齢は20歳くらいだろうか。火山の麓で一人暮らしをしているとのこと。初めは家事が何一つできず、書物を床一面に広げて自分の居場所がなくなったことや火加減が分からずにシチューを丸焦げにした事等様々な失敗談を聞かせてくれた。端正な容姿だからか何でもこなせそうなのにそのギャップが面白くて、気づいたらわたしは笑っていた。
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太陽が真上にくる頃にはわたし=陽野下耀は落ち着きを取り戻し、エイデンと名乗る青年と一緒に湖畔を離れることにした。エイデンは近くの街まで送ると提案してくれたけれど、わたしはそれを拒絶した。だって、またこの髪と瞳だってだけで捕まるかもしれない。ストールを失くしてしまったから隠せないし……。
そう言えば、エイデンもわたしの髪や瞳を見ても動揺していない。マチルダと同じように、「イバラテイの魔女」とやらの話を知らないのだろうか。もし彼が「イバラテイの魔女」を知らないなら、近くの街の人達も知らないかもしれない。
「あなた、街の人なの?」
わたしが問いかけると、エイデンは首を左右に振る。彼は街や村のような複数で共生している場所ではなく、一人離れで暮らしていると教えてくれた。――となると、彼が案内すると言ってくれた近くの街に行くのは危険かもしれない。
「街はちょっと……」
どうしよう。理由を言わないと怪しまれるだろうに、言葉が出てこない。しかし、エイデンはわたしの都合がよいように解釈してくれたようで、理由については触れずに自分の家に来るかと尋ねて来た。
男は狼なのよ気をつけなさい。――昭和の日本で流行った歌が頭を過ったけれど、他に道はない。マチルダにはフレアヴァルムという国に行けばいいと言われたけれど、裏切りにあった以上本当に安全かなんてわからないもの……。しばらくこのエイデンという青年のお世話になろう。
わたしが「よろしくお願いします」と頭を下げると、エイデンは笑顔で頷いた。
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火山の麓に辿り着いたのは、夕暮れになった頃だった。エイデンの言葉通り、建物はポツンと一軒だけ。街にあったロココ様式の建物とは造りが異なるシンプルな1階建ての建物だ。白雪姫の小人のお家のような印象がある。
案内されるままその建物の中に入る。どうやら2部屋あるようで、わたしは玄関から向かって左側の部屋に通された。そこは地球で言うところのダイニングキッチンらしく、竈や水道にキッチン台のような物が設置されている。足長のテーブル脇に4脚の椅子があり、そこに座るようエイデンが促してきたので大人しくそこに座った。
エイデンが着替えを取って来ると言って退室したので、わたしはこれ幸いと室内を観察する。家事の失敗エピソードを聞かされたのでどれだけ散らかっているのかと思ったけれど、室内は整然としている。入って来た扉とは別の場所に扉があったので開いてみると、トイレと浴室があった。
――あれ。なんだか、女性の声がする? そう思って耳を澄ましていると、背後から扉の開く音がする。釣られてそちらを見ると、わたしが入って来た扉の向こうにいる女性と目が合う。
「あらあら。可愛いガールフレンドじゃない」
明るいその声を耳にしながら、わたしの思考は停止した。だって、一人暮らしだって聞いてたんだもの。わたしは咄嗟にマントを頭から被っていた。すると、女性は首を傾げる。
「恥ずかしがり屋さんなのかしら」
そう言った女性の後ろからエイデンが入室してくる。
「驚かせてすみません。まさか今日も来るとは思わなくて……」
女性はわたしと目が合っても笑顔のままだ。その表情のおかげで警戒心が解れたわたしは、恐る恐る覆っていたマントを外す。すると女性は驚いた顔をし、エイデンはわたしから視線を外す。
「いや、でも今日ばかりは来てくれて助かったよ。彼女のこと、任せてもいいかな」
エイデンがそう尋ねると、女性は明るい声で「もちろん」と答えた。
エイデンが退室した後、わたしは女性の進めで浴室に入った。浴室には鏡があり、そこに映る姿をわたしはまじまじと眺める。本当に鴉のような黒髪で瞳は鮮血を思わせるように真っ赤だ。頬のこけた顔は青白くて不健康そうに見える。この世界での容姿の平均値がわからないものの、この姿では不気味がられても仕方ないのかもしれない。でも、目鼻立ちはハッキリしているから日本に居た頃のわたしよりはずっと美人のような気もする……。
わたしは胸元まで映る鏡を見ていて、不意に違和感を持った。――あっ。そうだ、ワンピース破かれたんだった。自身の体を見下ろしてみると、胸やおへそや下着姿の下腹部が露わになっていた。思わずしゃがみ込んで、体を隠す。――って、今は1人だし意味ないか……。だからさっき、エイデンはわたしから目を逸らしたのね……。わたしの小さな胸は羞恥心でいっぱいになる。
ボロボロのワンピースと下着を脱いで裸になったわたしは、恐る恐る蛇口を捻る。すると、シャワーヘッドから温かなお湯が出てくる。小さな切り傷ができていたのか、体の至る所がヒリヒリと痛む。わたしはそれに耐えながら、シャワーを浴び続ける。――あれ。地球上の歴史において、シャワーっていつ頃からあったんだろう。中世ヨーロッパの時代はまだなさそうだけど……。――あ、でも、ここは地球じゃないなら建物や服装が中世ヨーロッパっぽいからって技術もそうとは限らないわよね……。
わたしはシャワーを浴び終えると、女性からタオルと着替えを受け取る。どうやら着替えとして渡されたものは紳士ものらしく、シャツもボトムもぶかぶかだ。女性はふふっと笑うと、「明日、私の服を持ってくるわね」と言った。
わたしが着替え終えると女性に呼ばれたエイデンはこの部屋に戻ってきて、調理を開始する。その傍らでわたしは女性と会話をする。女性は「エレノア」と言うらしい。年齢は……エイデンと同じ20歳くらいだろうか。植物を育てるのが趣味で、自宅の中庭は彼女の育てた草花で溢れているそうだ。わたしも花は好きなのでどういった花を育てているのか聞いてみると、区画を分けていて薔薇のエリアやコスモスのエリア等があると教えてくれた。どうやら、花の名称は地球のものと変わらないらしい。
エレノアはわたしに何かを尋ねることはせず、自身のことを聞かせてくれた。かと言って一方的に話すことはせず、わたしが尋ねるときちんとそれに答えてくれるので話していて心地が良かった。どうやら彼女は多趣味なようで、剣術やら乗馬といったアクティブなものからぬいぐるみ作りや読書といったインドアなものまで色々はまっているようだった。運動音痴なわたしは剣術も乗馬にも興味はなかったけれど、インドアな趣味については興味があったので話に花を咲かせた。
陽だまりのような女性だな。エレノアと話していて、そんな印象を受けた。明るいけれど太陽のように眩しすぎるわけじゃなくって、陽だまりみたいな柔らかくてふんわりとした明るさを持つ女性。この世界に来て何十人と接してきたけれど、こんな風に心を温かくしてくれるのは彼女が初めてかもしれない。
わたしとエレノアが盛り上がっている間に、エイデンは調理を終えていた。提供されたのは、具沢山のスープとパンにサラダだ。スープにお肉が入っているのを見て、わたしは思わず「肉もあるのね」と独り言ちっていた。そんなわたしを前にして、二人はとても驚いた顔をする。だって、この世界に来てからお肉、食べてなかったんだもの……。とても美味しかったけれど、ずっと粗食だったせいか少し胸焼けがする。
夕食を終えると、エレノアはどこかへと帰っていった。エイデンはもう一つの部屋にわたしを案内する。そこは寝室と書斎を兼ねた場所らしく、1台のベッドとクローゼットに大きな本棚がある。本棚は個人のものとしては圧巻の大きさで、学校の図書館の3棚分くらいはあるんじゃないだろうか。
「読書が唯一の趣味なんです」
わたしの驚きを察してか、エイデンはそう説明した。そして、自分は別室で休むからわたしはベッドで寝るように言う。「ありがとうございます」と言った後で、この家のどこに他に寝る場所があっただろう、と思い至る。出て行こうとする彼を引き留めて遠慮の言葉を口にすると、彼は柔和に笑う。
「女性をベッド以外で寝かせるわけにはいかないでしょう。私はどこでも寝れますから――それとも、一緒に寝ますか?」
最後の言葉の意味を反芻して、顔が熱くなる。
「ややややや。そ、そんなことしたら! 彼女に怒られるでしょ!」
「彼女?」
首を傾げるエイデン。何をとぼける気だ!
「もしかして、エレノアのことですか?」
「ええ」
「エレノアは実の姉ですよ」
柔和に笑う彼の顔と記憶の中のエレノアの笑顔が重なる。言われてみれば、穏やかな雰囲気とか柔和な笑顔が似ている気がする。二人ともアプリコットブラウンの髪だし……でも、瞳の色は違ったような。わたしはエイデンのシーエメラルドの瞳を見つめながらそう思った。
「おまけに婚約者もいる。俺だけ一人身なのを案じてるくらいですから、貴女が恋人になってくれたら喜んでくれるかも」
静かにそう語るエイデンは笑顔なのに、瞳の奥はどことなく寂し気だった。
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その翌日。エレノアは約束通りやって来ると、女性用の衣類を複数着持って来てくれた。わたしはその中から最も好みな深紅のワンピースを選び、着用する。エレノアが似合うと褒めてくれて、それがお世辞だとしても嬉しかった。
また、エレノアは自身が栽培したという深紅の薔薇を持って来てくれたのでそれを瓶に活けてダイニングテーブルに飾る。すると、殺風景だった部屋が途端に華やぐ。エイデンは「物が少ない方が落ち着くのに……」と悪態を付くけれど、エレノアは「そろそろ度量を広く持ちなさい。この子と出会ったのも、きっとそういうことよ」と言い返す。
エレノアは連日エイデンの家にやって来た。いつも朝食を終えた頃にやって来ては夕食前に帰宅する。ある日はわたしと一緒にくまやうさぎのぬいぐるみを作り、ある日は彼女が持参した恋愛小説の感想大会をしたりする。わたしはエイデンの書棚にある歴史書も気になったけれどエレノアはそういう勉強じみたものは好きではないらしく、わたしが小説を読み切るたびに新たな恋愛小説を持ってくる。だから夜はいつも恋愛小説を読むことに使ってしまい、歴史書に目を通すことはできなかった。……この世界のことを知るには、歴史書を読むのがベストなのに。だって、恋愛小説は地球にある少女小説と大して変わりがなく、この世界のことを学ぶには適していないんだもの。
エレノアが来ている間、どうやらエイデンは家事をしたり読書をしたりしているようだ。どこかへ買い出しに出掛けていることもあるようで、ある日は彼の外出時にエレノアが秘かに持ってきた食材を使い果物のタルトを作った。そのサプライズにエイデンは喜んでくれたものの、「2人じゃ食べきれないだろう」と悪態を付く。するとエレノアは「だったら半分持ち帰るわ」と返した。
そんなこんなでエイデンの家で過ごして、14日程が経っただろうか。鏡に映るわたしの顔は少しふっくらとしてきて、当初と比べると健康的になった。相変わらず肌の色は青白くってそこは不健康そうではあるけれど……。
ここまで元気になれたのは、エレノアとエイデンの姉弟のおかげだ。本当はまだ怖いけれど、わたしは2人に全てを打ち明ける決心をした。
朝食を終えた頃にいつも通りエレノアがやって来ると、エイデンはダイニングキッチンから出ようとする。わたしはそれを引き留めて、2人を椅子に座らせる。
「わたしの名前はね、ヒカリ」
この世界では珍しいだろうその名前を告げても、2人は顔色を変えなかった。だから、こことは異なる別の世界の記憶を持っていることとその世界では異なる容姿をしていたことを告げた。これまた2人は顔色を変えない。「驚かないの?」とわたしが尋ねると、2人は柔和な笑みを称える。
「うん。実はね、わかっていたのよ。話してくれるのを待っていた」
そう答えたエレノアに促されて、エイデンはテーブルの上に真っ赤な宝石の付いたネックレスを置く。それには見覚えがあった。わたしがこの世界に来た直後に出会った、ドラゴンに姿を変えた女性が身に着けていたネックレスだった。その存在を今の今まで忘れていた……。
わたしが着ていたボロボロのワンピースのポケットにこのネックレスが入っていたのを、エレノアが見つけたらしい。彼女はわたしに教えずに隠し持っていたことを謝罪する。そして、エイデンがこの石に関する説明を始める。
「この石は、ドラゴン・アイと言います。ヒリュウゾクの王家に代々伝わる石で、ヒリュウゾクか異界から来た者しか触れません。――いや、厳密に言うと触れますが……火だるまになります」
つまり、このドラゴン・アイを持っていたわたしはヒリュウゾクではないから異界から来た人間なのではないか、と2人は推測したらしい。
そのヒリュウゾク? というのが何なのかさっぱりわからないけれど、この2人も触れているということは異世界から来たということだろうか。仲間との邂逅が嬉しくて、わたしは思わずその思いを口にする。
「残念ながら……私とエレノアはヒリュウゾクです」
エイデンは一度退室して戻ってくると、数冊の本と数枚の紙と羽ペンを持ってきた。そして羽ペンで「飛竜族」と記してわたしに見せる。地球の日本の文字とはまったく異なる字で筆記体の英字に似ているのに、何故かわたしの脳裏には「飛竜族」と入って来た。
「名の如く、私もエレノアもドラゴンに成ることができます」
2人はどこをどう見ても人間だ。何を言っているのかさっぱりわからない。わたしが半信半疑でいるのに気づいたのか、エイデンは「証拠をお見せしよう」と言う。エイデンがパチンと指を鳴らすと、彼の全身は炎に包まれる。――そしてその炎が止むと、小学校低学年の子供くらいの大きさの爬虫類のような生き物が蝙蝠の翼をはためかせて宙に浮いていた。
その姿には見覚えがあった。ドラゴン・アイの持ち主である最初の街で出会った女性が変身した姿だ。女性がドラゴンになった時の方がずっと大きくて迫力があったけれど……。
ドラゴン姿のエイデンが「納得していただけましたか?」と尋ねるので、わたしは静かに頷く。




