17.失踪の王女
そよ風を感じて窓辺を見ると、小さなアプリコット色の鳥が居ることに気づいた。私が近づいても小鳥は逃げることなく、それどころか伸ばした指先へと止まる。
「君はどこから来たんだい?」
“今の私”に合うよう高めの声で尋ねると、小鳥はまるで返事をするように鳴いた。シーエメラルドの瞳は未来が明るいものだと信じているように輝いていて、誰かのことを連想させる。
「ふふっ。フラワーリングの外れかな。……まだお母様に甘えたいよね。お帰り」
窓の格子の隙間から手を外に出すと、小鳥は羽を伸ばした。そして、雲一つない青空へと飛び立っていく。――羨ましい。
窓には外側から格子が打ち付けられている。ここは宮廷の5階。本来の目的は落下防止なのだろうけど、私には別の意味があるように感じられる。
「オリビア様」
後方からメイド長のサマンサの声がする。私は窓の方を見たまま、「まるで牢獄ね」と呟く。
サマンサは咳ばらいをし、「もういい加減に、次期王位継承者という自覚を持ってください。ご母堂がオリビア様の年齢の頃には、朝から日暮れまで政務に習い事に励まれていたのですよ!」と一気にまくし立てた。
一言一句いつも通り。もう覚えてしまった。この後は母の優秀エピソードが続く。そういった過去の出来事が新たな期待へと繋がり、母の重荷となる。――そんな話、聞くのはもううんざりだ。
「今日の予定は何?」
サマンサが言葉を飲み込んだので、私は「それを言いに来たんでしょう」と続ける。サマンサから発せられる“オリビア・フローレス”の本日の予定を聞き終えた私は、かねてから考えていた計画を実行するためサマンサに尋ねる。
「新しい法案を立ち上げたいんだけど、誰に聞けばいいのかな」
サマンサは口をあんぐりと開いたまま固まっている。
「ごめん。パトリックは信頼されてないから、誰に相談していいかわからなくて。オリビアだと男とはあまり話せないし――あっ」
地声のまま話してしまったことに気づき、私は口を押さえた。恐る恐るサマンサの方を見ると、彼女は感激の表情をしている。
「パ、パトリック様が……政務に積極的っ!」
サマンサは感涙しながら私の手を握り、こう提案してくれた。まずは母上に相談をし、母上から立案してもらう。計画が決定したところでパトリックが考えたものだと公表する形がいいだろう、とのこと。
サマンサは話し終えると、急いで退室した。どうやら朝食の準備があるらしい。
1人残された私は、部屋の真ん中に飾られた絵画へと近づく。絵画には、王女の正装に身を包んでいる金髪碧眼の少女が描かれている。絵画の下部には「オリビア・フローレス」と刻まれている。
更に近寄ると、絵画を覆うガラスに私の姿が映る。絵画の中のオリビアとそっくりながら少しいかつい自分を見て、ため息がこぼれる。
この姿をするのは、あと何度なのだろう。意識すれば高い声もまだ出せるけれど、長時間続けるのは苦しくなってきた。
ふと、女装姿のパトリックを見ながら頬を赤らめたアリソンの姿が浮かんできた。
「いや、まだいけるか」
口元に笑いが浮かんでいるのを感じながら、私は絵画のオリビアの碧い瞳を見つめる。
「みんな、元気かな」
私は瞳を閉じて、ほんの3日前のことを思い返していた。
◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆
轟轟と風が吹いている。体の前面に伝わる温かさが心地よくて目を閉じ続けていたかったけれど、それではいけない気がする。――目を開くと、そこには大きな背中があった。目線を少し上げると、プラチナアッシュの髪が見える。――どうやら、わたし=アリソン・ヒューズは、プラチナアッシュの居候に背負われているらしい。
「ね、ちょっと! 降ろして!」
わたしは居候の肩を叩きながら話しかけた。居候は前を向いたまま、「大人しくしてろ。この方が早い」と言う。
「本人が降りたいと言ってるんです。降ろしなさい」
聞き覚えのある声がした方を見ると、アプリコット色の髪の青年――エイデンがいる。居候もエイデンも走っている。
「なるべくリスクは負いたくない。一刻も早く移動しないと」
居候の返事に対し、エイデンは大きな舌打ちをした。
2人は剣呑な雰囲気のまましばらく走ると、どこかの建物の外階段を上り出す。――ここは一度だけ来たことがある。確か――。
「誰も付いてきてないわよね」
扉が開く音の直後、再び聞き覚えのある声がした。「当然だろう」と答える居候の声を耳にしながら、先程の声はマリッサのものであることを思い出す。――そう。ここはマリッサの家だ。
わたし達が入室を完了すると、マリッサが玄関扉を閉める。ようやくわたしは居候の背中から降ろされ、自由を手に入れる。――そう言えば、どうして居候に背負われていたのだろう。そもそもどうして寝ていたんだっけ……。わたしはマリッサを先頭にして室内を移動するみんなに付いていきながら、記憶を辿っていく。
劇場で炎の魔男と飛竜族が暴れ出して……それを、歌い手とマリッサが止めたんだった。そしてその後、わたしはジュリアン様に話しかけられて――あっ、キ、キ、キキキ、キッスっを! 一瞬にして体が熱くなってゆく。
な、なに動揺してるのよ、わたし。ド、ドキドキしてるのよ! 昔、日本にいた頃はそういう経験が……す、少ないけれどあったわけじゃない。アリソンになってからは初めてだし……ものすごーく久しぶりな気がするけれど……。
ドンっと、柔らかいものに激突する。――それは、居候の背中だった。居候は「なにぼーっとしているんだ」と表情を変えずに言う。この鉄仮面! ほんの少しよろけたわたしを背後から支えてくれたのは、エイデンだ。――あれ、そう言えばエイデンはいつの間に此処に? 茨邸でお留守番しててくれたんじゃ。
そんなわたしの疑問が伝わったのか、エイデンは「詳しい話は後で」と、わたしに耳打ちをした。
マリッサに案内されてたどり着いたのは、薄暗い一室だ。奥にあるベッドには歌い手が腰掛けており、彼はわたし達に向かって薄く微笑んでいる。劇場では女性用の衣類を身に着けていたが、着替えたのか今は男性用の衣類を身に着けている。初めて会った時はパンク系の服装だったが、今はシンプルな上下で印象がどことなく違っている。
「王子様」
そう。シンプルさが本人の華やかさや美しさをより引き立てていて、儚さや気品まで感じさせてくれる。そして、腰に提げた光の剣が威厳を与えており、今の彼はまるで王子のよう。
気持ちを思わず口にしてしまった直後、わたしは背中に刺すような視線を感じ、振り返る。扉付近にいるマリッサが鋭い視線を向けてきている。わたしは思わず、口を押さえた。――すると、それに答えるように歌い手は声を上げて笑う。
「うん。もうアリソンにもバレちゃったよね。――改めまして。俺、パトリック・フローレス。エイネブルーム王国の第一王子。……一応、ね」
王子たる自信がないのか力なく笑う彼を見て、わたしは納得してしまった。劇団ルシフェルの舞台で描かれるパトリック王子は、見目麗しく女性に優しいたらし。自由奔放で、旅の道中に見つけた音楽や芸能に興じる。短い間だったけれど、わたしが見てきた歌い手そのものではないか。
ベッドの下から子猫が出てくる。子猫はベッドに飛び乗ると、パトリックに甘えだした。パトリックは子猫を抱きかかえ、あやしながら話を続ける。
猫は彼にとてもよく懐いている。その様子でわかってしまった。パトリックはここで暮らしていたのだ。つまりは、マリッサの恋人。――どうしてだろう。急に寂しくなってきた。
「そんで、そっちのデカい銀髪がルイス・グレイね。俺の相棒」
「相棒って。……こいつらの前では構わないけど、宮廷に戻ったらその調子辞めてくれよ。あんたが上司で俺は部下の関係なんだからな」
そして、プラチナアッシュの居候は王子の護衛官。やはり、隣国の王子オスカー・オルガではなかったんだ。――だけど、どうして隣国の王子の名を騙っていたのだろう。そもそも、ルイスが探していたのはオリビア王女だったはずじゃ……。
「やはり、まるで生き写しですね。容貌だけじゃなく、王家の自覚がない奔放な性格も」
エイデンは唐突にそう言い、一冊の本を取り出した。それは、先々代の女王であるアーリヤ・フローレスの伝記だった。エイデンが付箋を挟んでいるページを開くと、パトリックの女装時の姿にソックリな女性が描かれていた。
エイデンの話では、それはアーリヤ・フローレスの肖像画を模写したものらしい。アーリヤはパトリック王子とオリビア王女の曾祖母であり、先々代の女王である人物だ。エイデンは自宅(茨邸)の書庫で伝記を読んでいたが、この肖像画に似ている人物がいることに気づき劇場へと駆け付けたそうだ。わたしがジュリアン様にキスされて倒れこんだタイミングで着いたらしい。……ジュリアン様に失礼なこと言ってないでしょうね……。
「巷の噂ではオリビア様が生き写しのようだと聞きますが、どちらかと言うとパトリック様が生き写しのように見えますが」
オリビア王女はパトリック王子の双子の妹だ。二人はソックリだそうだし、片割れがアーリヤ女王に似ているのならもう一方も似ているのが自然ではないだろうか。
「まさか」
エイデンの声が静かにそう発せられたと同時、歌うような女性の声がほんのかすかに聞こえてくる。釣られて視線を向けると、いつの間にか美魚族の姿になっているマリッサが魔法を発動しようとしているところだった。――わたしは、反射的にエイデンの腕を掴む。
「同一人物、ということはありませんよね?」
エイデンが抑揚のないまま言い終える。――と、わたしの体は掴んでいる腕に突き動かされて前方へと移動していた。どこからか漂ってくる冷気に鳥肌が立つ。
「マリッサ! 何をして!」
驚いたらしい猫の鳴き声に重なって、パトリックの怒号が聞こえる。それにエイデンの声が重なる。
「退路を塞いでいるから怪しいと思っていたら……やはり。アリソンから離れないようにしていて正解でした」
声がくぐもっている。何事か確認しようと振り返ると、エイデンの腕に氷の矢が突き刺さっていた。その付近の袖が血に染まっている。エイデンが反対の腕でその矢を引き抜こうとするものの、ピクリともしないようだ。わたしが代わりに抜こうと手を伸ばすものの、エイデンに振り払われる。
「残念ねぇ。死ぬまで抜けないわよ。――まあ、正体を現わせばわからないけど」
正体。それは、エイデンが飛竜族であることを言っているのだろう。
エイデンはその挑発に乗ったようだ。指を鳴らして炎を生じさせると、自身の全身にまとわせる。その炎が止むと、小さなドラゴンの姿が現れる。体の大きさが変わったからか、先程よりも氷の矢が大きく見える。
「あらあら。相変わらず可愛いわね。小っちゃくて」
エイデンは口で矢尻を噛んで矢を抜こうとするものの、抜けそうにない。早々に諦めたのか、翼を羽ばたかせてマリッサの方へと飛んでゆく。――でも、様子がおかしい。ふら付いているしいつもより動きが遅いような。
「小さくなったら、毒の回りが早くなるだけなのに。――アリソンに協力してもらえば?」
「そ、そうよ。わたしをエヴァに!」
「マリッサ。貴女の目的はなんです?」
わたしの声に被せ、エイデンはマリッサに問いかけた。エイデンは失速し、ドラゴンの姿のまま床に倒れこむ。
「パトリックに自由を。今度は一緒に国外にでも行こうかしら」
「わかった。私もアリソンも貴女達を見逃しましょう。彼を連れてこの場から去ってくれ」
ちょっと、エイデン! 急に何を言い出すのよ。
「王子が居なくなったら国が大変なことになる。そう、考えているんですか? 国なんて、どうでもいい。アリソンを苦しめるだけで、何もしてくれなかったじゃないか」
エイデンの言葉で、この世界に来たばかりのことが脳裏を過った。エヴァは漆黒の髪に赤い瞳というこの世界では忌避される容姿をしている。そのせいで、どれだけ傷ついたか……。命の危機すらあった。ぎゅっと胸が苦しくなる。
「私は、アリソンの笑顔が傍にあればそれでいいんです」
歌声が聞こえる。視線をエイデンからマリッサへと移すと、マリッサの方から水の蛇が飛んできた。その蛇はわたしの体に絡みつき、縛り上げる。ふわっとした浮遊感の直後に引っ張られ、気づくとマリッサの近くに引き寄せられていた。
頬が冷っとする。マリッサの指先がわたしの頬に当たっていた。――彼女の指、こんなに冷たかったっけ。彼女の凍土の瞳はまっすぐにわたしを見ている。
「だーめ。誰も逃がさないわよ」
エイデンが咆哮すると、わたしの体は炎に包まれる。炎が止んだので肩に掛かる髪を見ると、その色は漆黒に変わっていた。きっと、瞳の色は真っ赤なんだろうな。
「エヴァ、貴女だけで逃げなさい」
命じるようなエイデンの声が聞こえる。わたしはそれには答えず、部屋の奥の方に視線を向ける。唖然と立ち尽くしているパトリックの姿が見える。
「パトリック! あなたはどうしたいの?」
ルイスと共に宮廷に戻るのか。あるいは、わたしやエイデン・ルイスを倒してマリッサと愛の逃避行をするのか。その答え次第で、私はマリッサと全力で戦うのか彼女が逃げれる程度の力で戦うのか決める。
「俺の中で、答えは一つだけだよ」
パトリックはそう答えると、こちらに向かって歩いてくる。彼がルイスの前を通りかかっても、ルイスは微動だにせず相棒の様子を見守っている。
わたし達の近くにたどり着いたパトリックは、マリッサに笑顔を向ける。
「ずっとずっと嫌いだった。窮屈な宮廷が。王位を継ぐという運命を呪ってもいたよ。それはこれからもずっと変わらない。――俺は、自由を愛している」
パトリックはわたしへと視線を移す。――顔が、どことなく強張っている?
「こんな噂がある。茨邸の魔女を殺した者は、エイネブルーム王国の英雄になれる。英雄になれば、どんな願いだって叶えられる。――例えば、王位を誰かに譲る、とか」
しゃりんっと、金属のこすれ合う音が聞こえる。
――えっ? えっ? そ、それってつまり――。
パトリックは光の剣を鞘から抜いており、刀身があらわになる。エイデンが火球を放ってくるものの、パトリックは後ろを向いたまま光の剣一振りでその火球を消し去る。――そして、剣を振り上げて――。
目の前が真っ暗になる。刹那、ザシュっという音がすぐ近くで鳴る。――それが鳴りやまぬうちに体が急下降し、お尻に鈍い痛みが走る。――あれ、どこか斬られたわりにあまり痛くない?
わたしが恐る恐る目を開くと、眼前には真っ二つに切られた水の蛇の骸が転がっていた。その傍らでは、マリッサを抱きしめているパトリックの姿があった。見てはいけない気がして、わたしはさっと視線を逸らす。
「マリッサ。ごめん。俺、やっぱり宮廷に戻る。これ以上母さんとオリビアを会わせないわけにはいかないし……やりたいこと、見つけたんだ。だから――もうこれ以上、俺の為に悪役にならないでくれ」
「わかってるわよ。――本当、勝手な人なんだから」
「ありがとう。こんな俺の、友達で居てくれて」
友達。――ん? パトリックとマリッサは恋人同士ではないの?
わたしは反射的に顔を上げて、パトリックとマリッサの方を見ていた。パトリックはもうマリッサを抱きしめておらず、マリッサは人間の姿に戻っている。
「これからもよろしくね」
パトリックが満面の笑みでそう言うと、マリッサの目からは一筋の涙がこぼれた。彼女は、嬉しいのか悲しいのか読み取れない複雑な表情をしている。
「怖かったよね。ごめんね」
急に声をかけられて、わたしは顔を上げた。パトリックがこっちを見ており、ポンポンと頭を撫でてきた。その手の柔らかさが心地よくって、わたしは思わず目を細める。




