16.推しがために燃ゆる
鏡に映る私は美しくない。アクアカラーのウェービーヘアはまとめてボンエットにしまっているから見えないし、色付きの眼鏡をかけているから顔も半分くらい見えない。
でも、しょうがないわ。マリッサ・シアーズがこの場にいるなんて、「彼」や「あの子」に知られたら良くないもの。
私は気を取り直して、手洗い場の蛇口を慎重に捻る。少量の水なら平気だけど、間違って大量に浴びたら美魚族の姿になってしまう。慎重に手を洗った私は、ハンカチーフで濡れた手を拭く。
トイレの個室から出てきた人物が私の隣の手洗い場にやって来る。――やけに少女趣味なその服装には見覚えがある。
「うげ」
少女趣味な人物の顔を見た瞬間、思わず声が漏れてしまった。人物は一瞬そのシーエメラルドの瞳を私の方に向けて不思議そうな顔をしたけれど、すぐに鏡の方に視線を移動させた。そして入念にメイク直しを始める。
そりゃあ、そうよね。気になる男とのデートだもんね。アリソンだっていつも以上に見た目には気を遣うわよね。
でも、だったらそのダサい少女趣味な格好はやめた方がいいわよ。女は一定数好きな人がいるけれど、男受けは悪いから。
私は急いで化粧室を出ると、劇場の指定席へと移動した。2階席の最後尾にある立見席。ロケーションは最悪だ。まあ、チケットが公演当日に手に入っただけでも良しとすべきね。
私はオペラグラスを使い、舞台ではなく客席の最前列を見た。――ああ、いるいる。女装をした「彼」が。そこにアリソンが戻ってくる。――なんか、アリソンが楽しそうでイライラするわ。
「ったく。見せつけてくれんじゃない!」
イライラのあまり、声が漏れてしまった。オペラグラスを外して周囲を見ると、何人かの観客が怪訝そうな顔で私を見ている。
「あんた、まさか」
隣の席の変な格好の男がまじまじと私を見てくる。お店の常連客だったらまずい。街一番の美人花売りとして名を馳せている私が変装して観劇をしている上、一人で悪態をついているなんて知れたら、明日にでもお店を畳まないといけなくなる。
でも、ボタニカル柄のバンダナを頭に巻いていて分厚い色付き眼鏡をかけた客なんて、いたかしら?
変な格好の男は、眼鏡を外す。シルバーアッシュの瞳と視線が合う。その冷たそうな切れ長の目には、見覚えがある。
「――あなた、ルイスじゃない」
ルイス・グレイは、パトリック王子の護衛官。その名を騙っている男。
エヴァやエイデンにはオスカー・オルガと騙っていたそうだけど……一体何個嘘をついているのかしら。
ただ、少なくともオリビア王女を捜していることだけは本当なんだろうな。でもそれなら、彼がここにいる理由が気になる。
「意外ね。観劇の趣味なんてあったの」
「そっちこそ。俳優に夢中なアリソンを小ばかにしてたのにな」
「そ、そうね。私を出し抜いて力を手に入れたあの子が熱をあげるなんて、どれだけいい男なのか観察にきたのよ」
きっと、ここにいる理由を聞いても正直に話してくれそうにないわね。
この男の動き次第では、何とかしてこの場から「彼」を連れ出さなきゃ……。
◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆
わたしがお手洗いから戻ると、歌い手はすぐ後ろの席の女の子と何事か話をしていた。わたしが着席すると、話がひと段落したのか歌い手が前を向こうとする。――が、引き留めようとするように女の子が声を上げる。
「ねー。お姉さん、とってもかわいいけど、本当にお姉さんなの?」
どうやら、女の子は歌い手の性別を疑っているらしい。隣に座っている母親らしき女性は、慌てた様子で「こら!」と女の子を制止する。
「だってぇ。お姉さんの声、男の人みたいなんだもん! でも、男の人には見えないね!」
女性は更に慌てて深く頭を下げるものの、歌い手はけらけらと笑う。
「私はお姉さんとお兄さんどっちだー? 帰りまでに当てたらご褒美あげようか」
冗談っぽく返す歌い手の言葉を受け、女の子は爛々と目を輝かせる。彼女は10歳くらいだろうか。無邪気な愛らしさが、ミアを連想させる。女の子の母親は困った様子で、女の子と歌い手を交互に見ている。
開演を告げるブザーが鳴る。歌い手が驚いた様子で辺りを見回していると、女の子は「お話が始まる合図なのよ! ほら、前向かなきゃ!」と言う。
歌い手は女の子に「また後でね」と答えると、女の子の指示に従って顔を舞台へと向けた。
あれ。彼って、カルロスのファンなのよね。まるで演劇は初めてのような反応だったわ。
わたしの視線に気づいてか歌い手はこっちを見ると、舞台を指さしながら「ほら始まるよ」と言ってきた。――そ、そうよ。いよいよ、ジュリアン様に会える! 細かいことは気にしない!
本日の演目は、わたしの大好きな「花の王家~碧い瞳の王子~」の続編である「花の王家~碧い瞳の王子 ENCORE~」だ。先日前売り券を手に入れたのでロッテ達と観劇する予定だったけど、歌い手のおかげで先に見ることになった。……抜け駆けしてごめんね、みんな。
舞台には豪華絢爛な調度品が並んでいる。どうやら宮廷を表しているようだ。舞台袖から、一つの影が颯爽と入場する。男性にしては華奢な体躯。金色の髪から放たれる華やかな雰囲気。これは間違いなく、ジュリアン様だ! わたしはキャーッと声を上げそうになるのを飲み込み、愛しのジュリアン様に熱視線を送る。
隣から視線を感じた気がしてふと横を見ると、歌い手と目が合った。歌い手はクスッと笑うと舞台に視線を移す。わたしはなんか気恥ずかしくなって、舞台が見れなくなってしまった。
舞台から男らしい低音ボイスが聞こえてくる。それに釣られて視線を舞台に戻すと、舞台袖からカルロスが入場してくる。彼の地毛は黒だが、ウィッグを付けているからか銀髪になっている。鍛え抜かれた体躯を騎士団の制服に身を包んでいる彼は、パトリック王子の護衛官であるルイス・グレイに扮している。
「ねー! 本物のルイスも銀髪なの?」
後ろから、女の子の声が聞こえてくる。母親は小声で女の子を制する。その様子を片耳で感じていた直後、わたしの脳裏にプラチナアッシュの居候の顔が浮かんだ。
ジュリアン様扮するパトリック王子は、また宮廷を飛び出して一人旅に出ようとしていた。それを諫めるルイスに対し、パトリック王子は堅物の鉄仮面だと揶揄する。――我が家にいる銀髪も、そういや堅物の鉄仮面だった。パトリック王子が女性と過ごす一夜の素晴らしさを説くと、ルイスはそんなおぞましいもの知りたくもないと声を張り上げる。そういえば、ルイスは女嫌いの設定だった。――我が家にいる銀髪も、女嫌いだ。
「いや、まさかね」
思わずそう呟くと、再度隣からの視線を感じる。顔を向けると、歌い手の碧い瞳と視線が絡む。碧い瞳の麗しい男性。今はブラウンのウィッグに隠れているけれど、彼の地毛は金髪だ。――そう。彼も、パトリック王子と同じく金髪碧眼。
ドクっと、わたしの心臓が動く。
不思議そうな顔をする歌い手の背後で、一つの影が動いた。一列目の端の席にいる男性が立ち上がる。男性が駆け出すと場内後方からどよめきが起こる。男性は舞台に飛び上がると、舞台袖から登場したばかりの金髪の女性に掴みかかった。女性の対角線に位置するジュリアン様とカルロスは、戸惑った様子で男性を見ている。
なんだなんだ。演出の一環か? 他の観客もそう思っているのか、場内は静まり返っている。そこに、「こらー! オリビア王女を離せ―!」という女の子の声が響く。
舞台上の男はどこからか短剣を取り出すと、オリビア王女に扮する女優の首元に刃を向ける。女優は思いが声にならないのか、口をパクパクとさせている。カルロスの「ジェシカ!」という声が場内へとこだまする。
ジェシカ、とはオリビア王女に扮している女優の名前だ。役名ではなく演者の名前で呼ぶということは、演出ではないということ。わたしがそう気づいた刹那、場内が騒然とする。
「軽々しく女神の名を呼ぶな! 益々穢れるだろう!」
スピーカーを通して男の声が場内へと広がる。どうやら、ジェシカの胸元にあるマイクが男の声を拾っているようだ。これが日本で制作された二次元作品なら「通行人A」とでも名付けられそうな特徴のないその男は、物凄い剣幕でカルロスを睨んでいる。――と思っていたら、いやらしい微笑みを浮かべてジェシカへと視線を向ける。
「ジェ、ジェシカ。ようやく会えたね。来世ではきっと、結ばれようね」
ハアハアと息を荒げながら通行人Aはそう言った。わたしの体にざっと悪寒が走る。――な、なるほど。この通行人Aの推しはジェシカなのね。ジェシカがカルロスと結婚したから暴走しているわけか。推しの結婚は涙で枕を水没させるくらい悲しいことなのはわかるけど、だからってこんなことしていいわけない! わたしは興奮し、立ち上がっていた。
通行人Aとジェシカの周りを劇団の警備員が取り囲み始めている。捕まるのも時間の問題だろう。そう思った時だった。後方からパチン、と指を弾くような音が聞こえる。すると通行人Aの体は炎に包まれる。心当たりのあるその光景にわたしが唖然としていると炎は止み、通行人Aがいた場所には腰の曲がった老人が立っていた。
老人はすかさず炎の壁を生み出し、自分とジェシカだけの空間を作る。老人は勝ち誇ったように高笑いしながら、手にしていた短剣を投げ捨てる。カラカラと音を立ててカルロスの足元へと転がる。
転がる短剣が動きを止めたとほぼ同時、会場の暗さが増す。わたしが見上げた先には。大きなドラゴン――飛龍族の姿があった。炎を口から吐きながら飛び回るドラゴンの姿を目にした観客達は、悲鳴を上げながら後方の出口の方へと駆け出している。
「ワシがあと40……いや、30歳若かったらよかったのにな」
舞台上の老人は悲し気にそう言った。ジェシカは驚いた顔で老人の顔を見ており、カルロスは「お前だったのか!」と声を荒げている。今にも火中に飛び込まん勢いのカルロスをジュリアン様が引き留めている。凛々しい表情のジュリアン様も素敵……って、うっとりしてる場合じゃなかった! この場を何とかしないと……。わたしはエイデンの名前を口にしかけて、近くにはいないことを思い出した。
アリソンの姿のままでは魔法は使えない。エイデンがいなければエヴァに戻れない。現実の歯がゆさに、下唇を噛む。
「パット!」
後方から聞き覚えのある男声が聞こえてくる。わたしが振り返ると、そこには西洋風の唐草模様のバンダナを頭に巻いた男がいた。男がバンダナと眼鏡を勢いよく外すと、プラチナアッシュの居候の姿になる。わたしが「あ!」と声を上げるとほぼ同時に、鞘に収まった光の剣をこちらへと投げてくる。避けようとするわたしの横をすり抜けて、光の剣は歌い手の手中に収まる。
「よ、相棒。気づいていたのか」
歌い手の声に、プラチナアッシュの居候は口元に薄い笑みを浮かべる。
「そっちこそ、気づいてたのに逃げなかったんだな」
歌い手は被っていたウィックを外した。そしてお団子状にまとめていた金色の髪をほどくと、ゆるく一つに束ねなおす。歌い手はわたしに優しく微笑みかけた後、プラチナアッシュの居候に向かい「アリソンと一緒に外へ」と声をかける。
わたしは居候の腕に引き寄せられながら、歌い手の華奢な背中を見る。遠のいていくからか更に華奢に見え始めたその背中から離れるのが嫌で、わたしは居候の手を振り払おうとする。けれど、少女の細腕では男の手を払えない。
「あ、ドラゴン! そうよ、ドラゴンも倒さなきゃ! わたしがやってやるわ!」
そう言いながら空に視線を向けるものの、そこにドラゴンの姿は見えない。会場中に視線を走らせると、2階席の方でで炎の魔法と水の魔法が衝突し合っているのが見えた。炎の魔法を操っているのは勿論ドラゴン。水の魔法を操っているのは……誰だろう。人位の大きさだけど、ここからだと小さくて見えない。
「大丈夫。ここはマリッサに任せて」
そうか。あそこにいるのはマリッサなのね。
だけど、居候もマリッサもどうして此処にいるの?
「今のお前は無能なんだからな」
何かの二次作品で聞いたことがるような「無能」呼ばわりと「お前」呼びにカチンときて、わたしはプラチナアッシュの瞳を睨みつけてやった。
「おー怖い怖い。顔が怖くても今のお前はただのアリソンなんだから、大人しくしててくれよ。パットのことだから、お前に何かあったら自分の命よりお前の命を優先する」
「え」
自分の命よりわたしの命を優先する? それって……。ポッと体の芯が熱くなった。
「あ、勘違いするなよ。パットにとってアリソンが特別だからじゃない。アリソンが“女”だからだ。あいつは女全般に優しいやつなんだよ」
浮つくなと切り捨てられて、ほんの少しイラっとした。そして、心を見透かされたことに気恥ずかしさを覚えた。
プラチナアッシュの彼のおかげで冷静さを取り戻せたわたしは、再びぐるっと会場を見渡す。推しを心配してか野次馬根性なのか会場にはまだ三分の一程の観客が残っており、観客達はドラゴンVSマリッサと舞台を交互に見ている。
居候に「パット」と呼ばれていた歌い手は、軽々とした身のこなしで舞台へ上がる。
「ふん。ただの小娘に何ができる」
老人は、吐き捨てるようにそう言った。パットがそれには答えずに剣を鞘から抜き取ると、光で出来た刀身があらわになる。舞台上の人物は怪訝な顔をしたり驚いたりしてパットを見ている。
「ママ! あれって、光の剣!?」
騒然とする人々の声に紛れて、後ろの席に座っていた女の子の声が聞こえてくる。声のした方を見ると、やはりその女の子が母親に手を引かれた状態で立ち止まっていた。女の子の声を引き金とするように、場内の視線はパットの方に集中し始める。
パットは光の刃を炎の壁に向かって振り下ろす。炎は光の刃へと吸い込まれ、老人とジェシカを囲っていた壁は消失する。
老人は酷く狼狽した様子で色々な炎の魔法を繰り出すが、それらはすべて光の刃へと吸収されていく。老人は魔法を繰り出すたびにパットとの距離を取ろうとするけれど、パットは軽快な動きで距離を詰めていく。
「さあ。彼女を離すんだ」
パットがそう叫んだ時だった。老人が呪文を唱え始める。この口の動き……大変!
「あ、愛ってなんだ!」
わたしは老人を引き留めたい一心で、そう叫んでいた。舞台上のすべての視線がわたしへと向く。急に「なんだ!」なんて問いかけるわたしこそなんなんだ!
「た、たた……ためらわないことなのよ!」
どこかで聞いたことがあるようなフレーズを口にし、頭が真っ白になった。老人はわたしの方を見ながらも呪文をやめようとしない。
「あなた! ジェシカのこと愛してるんでしょ。だったら、結婚なんかでためらわずに愛をささげ続けなさいよ!」
「ちょ、おまえ何をして!」
居候にたしなめられて、わたしは小声で返す。
「あの人、自爆の呪文唱えているわ。劇場一つ消し飛ぶわよ。光の剣じゃ防げない。それに、悪人だろうと彼に……パットに人を殺して欲しくない」
ぎょっとする居候の腕を振り払って、わたしはより一層大きい声で叫ぶ。
「愛をささげ続けたら、もしかしたらジェシカの最後の男にだってなれるかもしれないわよ! いいじゃない。今はカルロスにくれてあげれば。そのうち別れるかもしれないし!」
カルロスがいる方から殺気が漂ってくる気がする。けれど、わたしは無視して続けた。
「わたしの推しはね、ジュリアン様よ!」そう発して、キャーッと走り去りたい気持ちになった。だって、ジュリアン様が目の前にいるんだもの。
「ジュリアン様、色んな女の子と噂になってるけど気にしないわ! だって、わたしは最後の女になれればいいんだもの! あ、本当のこと言うと嫉妬はしちゃうけど……でも、醜い気持ちはそっと閉じ込めるわ! そして、ためらわずに愛し続ける!」
わたしがそう断言すると、老人は呪文をやめてその場に崩れ落ちた。ジェシカは解放されたものの、座り込んで動けなくなってしまう。そこにすかさずパットが駆け寄り、ジェシカに肩をかして移動を始める。
「お、お嬢ちゃん……辛い思い沢山したんだなぁ」
パットがジェシカをカルロスの元へ連れていくと、カルロスはジェシカをお姫様抱っこして舞台袖の方へ消えていった。警備員達はそれを確認すると老人へと駆け寄り、魔法封じの縄で老人を拘束する。涙を流し始めた老人は抵抗することなく、警備員に連れられてその場を後にした。
観劇席後方での戦いも決着がついたらしく、マリッサは水の魔法で生成した蛇でドラゴンを縛り上げていた。
一件落着したことに気づき、わたしはへなへなとその場に崩れ落ちた。舞台から零れ落ちるスポットライトが遮られた気がして顔を上げると、そこには……。
「ジュ、ジュリアン様!」
ジュリアン様は膝をついてわたしと視線を同じにすると、そぅっとわたしの手を握る。滑らかな手から伝わってくる熱のせいか、わたしの体温は急上昇する。
「ありがとう。僕のこと、愛してくれているんだね」
わたしの胸中は甘ったるさでいっぱいになる。生クリームたっぷりのパフェを食べた後のような甘ったるさ。その甘ったるさに目を白黒させていると、頬に柔らかいものが触れる。
その柔らかいものの正体がジュリアン様の唇だと理解したと同時、わたしの視界は真っ白になった。




