紫苑
空港近くのカフェで待ち合わせだった。
わたしは先に着いて待っていようと思っていたが、彼はもう来て待っていた。
「こんなことになってるとは思わなかった」
彼はわたしの突き出た腹を見てそう言った。
立花里志。わたしの幼馴染だ。
こどもの頃から仲が良く、なぜかわたしを好きだと言っている。
おそらくそれは、友達にピアノを教えたり勉強を手伝う理由を脳が探した結果、好きだからということにして整合性をとろうとした脳の勘違いによるものだ。
それでもわたしは利用する。
男の子には父親が必要だと思うからだ。
「結婚したい」
「いいよ」
「しりとりじゃないよ?」
「しりとりじゃない。
ぼくはずっと光ちゃんが好きだった。
バレンタインチョコもらった時は嬉しかったよ。
でも10代になると急に光ちゃんの笑顔が眩しく思えて、
なぜか自分が恥ずかしくなって、不釣合いじゃないかと不安で言えなかった。
光ちゃんが桐人くんとつきあい始めた頃は後悔した。
もっと早く行動しておけばよかったと。
両親が申し込んだ幸せな結婚遺伝子研究所のおすすめリストに
光ちゃんの名前を見つけて運命を感じた。
きっと桐人くんはアメリカから帰ってこない。
ぼくは戦略的に待っていれば勝てると確信したんだ。
両親も祝福してくれる。
結婚しよう」
「うん、……ありがとう」
お茶に口をつけると安心感で満たされて、涙ぐんでしまった。
「……ごめんなさい」
「あやまることはないよ。
ぼくの望みは光ちゃんと暮らすこと。結婚して独占したい。
それからこどもをつくって一族の繁栄。
そのためならなんでもするだけ。
できれば光ちゃんも幸せな結婚遺伝子研究所に申し込んでもらって、
ぼくの名前があるのを見て安心したいけどね」
「わたしには、遺伝子のマッチングは占いにしか思えない。
生物として本能を感じたもの」
「ぼくも光ちゃんに本能を感じてるよ。
自信がなかったところに遺伝子の結果が強烈な根拠として居座ってるだけで。
……安心したいだけなんだ」
「ごめんなさい……」
両手で手を包み込むと握り返してきた。大きな手でごつごつしている。
わたし達は手のかたちが似ている。華奢な指輪は似合わず、重厚感のあるものがしっくりくる。
この手のかたちが、遺伝子の相性を証明しているのだと、思い込むことにした。
「……ところで、そのお腹、桐人くんの?」
「……クローンなの」
「出産はいつ?」
「予定では3ヵ月後」
「じゃあ、仕事を整理するから、新婚生活はタイで過ごそうか。
ぼくものんびりしたい。自然のなかで」
そう言って両手を上げてストレッチを始めた。顔も上げている。
クローンと聞いて、さすがにこたえたのか、涙がこぼれないようにしているのかもしれない。
そう思うとそう思うと、申し訳なさが胸に押し寄せ、涙も押し寄せてしまった。
「……その子の名前、もう決まってる?」
「……紫苑にする」
一足先にロックスターを出産したたまちゃんもタイに行くというので、再会を約束して見送った。
そういう人ばかりが住む村があるらしい。
ここまで堂々とやってるのに社会問題にならないのが不思議だ。
……よほど支配者階級にお得意様が多いのか。
課された体操や運動、あと語学の勉強を終えて窓辺に腰掛ける。
脳内に勝手にBGMが流れ始める。ノスタルジーな曲だ。
わたしは今、ノスタルジックな気分なのか……。
今にも破裂しそうな腹をさすりながら、深く自分のこころの根底を探る。
この感情のコントロールができないと、また10年後に産むことになるとヌッシーさんに言われたからだ。
言われてからは注意深く自分の感情を観察してきた。
たとえば、甘いものを食べると嬉しく楽しい気分になる。
腸がドーパミンを出すよう指令し、もっと甘いものを手に入れろと言っているようだ。
追うようにカフェインもとると脳の神経が覚醒する。
脳がギュインギュインと音を出して回転を上げる。
同時に3つの側面から物事を追求し、まだ誰も辿り着けた事のない何かを掴めそうな感覚に襲われる。
1秒が3秒のように感じられるが、実際は10分のつもりが3時間たっている。
そしてその後激しい情緒不安定に襲われる。
タブレットでYOUTUBEの桐人くんの姿を見る。
元気そうでホッとしつつ、まるで見つめられているようで胸がときめき頭が真っ白になる。
この感情を制御できなければ、紫苑を失った時さらに苦しむことになる。
怯えながら安眠ポッドに入る。
いよいよ明日は出産だ。
自然分娩を選択したが思いのほかスムーズだった。
胸の上に乗せられた紫苑を見て涙が溢れ出す。
「赤ちゃんのとき、こんな顔してたんだね桐人くん……」
すぐさま紫苑は検査のため連れ去られて、わたしも処置が始まった。
母性本能の愛情と、恋愛感情の愛情を細かく分析する。
母性本能が優位になるように自分に言い聞かせる。
わたしのこどもだと……。
タイに移住して、たまちゃんに再会するとベビーシッターを紹介してくれた。
一時ベビーシッターに預けると、すぐさま日本で伝統的な結婚式だ。
誰もが祝福しているが、誰もわたしの犯した罪に気づいていない。
だがこれで名実共にわたしは立花里志の妻だ。
義務を果たさなければならない。
結婚式のあとの食事の席で、わたしは夫と一族にある考えの了承をとることにした。
「こどもは3人、全員女の子でいいですか?」
みんな口々に同意した。
「もちろん、私も娘が欲しかったのよ」
「私達の時代も、選べるなら女の子にしたわ」
「産まれて成長する頃には、さらに遺伝子治療も進んでいるだろう。仮に性別が女で、脳神経が男だったとしても、なにも心配することはない。よい時代になった」
だが夫は顎に手をあて、深く思案しているようだ。
「わかった。もう名前も決めた。それでいいね? 光ちゃん」
どうやら気づいてしまったようだ。
わたしの出した歪んだ解決策。しかし古くからある先人の知恵だ。
それはつまり、親が子供の結婚相手を決めていた時代に、結ばれなかった恋人同士が自分の子や孫に想いを託して子孫同士が結ばれるという愛のかたちだ。
遺伝子が繁殖相手を決めているのなら、これで何かが治まるはずだ。
紫苑がわたしの娘を選んでくれたら、わたしの痛みが治まり、魂が救われる。
この細い糸につかまりながら、夫と共に生きていく。
夫は寂しげな表情で微笑んでいる。
……なぜここまでしてくれるんだろう。
そしてなぜ、わたしは夫に対等な愛を返せないのか。
知り合ったときが、こどもだったからかもしれない。
夫は誠実で真面目で、こどもの頃の記憶のわたしの父と全く違う個性だからかも……。
そうだ、わたしの遺伝子は、もっと脳の奥深くの宇宙へと手を伸ばし、誰も掴んだことのない星を手にできそうな脳を欲しがっているのかもしれない。
それが、わたしにとっては桐人くんだったが、桐人くんにとっては違ったということか。
夫がシャワーを浴びている間にタブレットに手を伸ばす。
もはや紫苑の顔を1日見られないことに耐えられない。
寝顔でもと思ったが、消灯して暗く、カメラにははっきりと映らなかった。
そのまま桐人くんのYOUTUBEを見る。
だが更新は2ヶ月前から途絶えていた。