噂・壱
助けを求める人物が正しいとは限らない。
人の噂も七十五日という言葉がある。季節の境目が七十五日とされ、ひとつの季節がすぎれば噂も忘れられるだろうとか色々説はあるが、まあ大体噂が出来ても忘れ去られるし、新しい噂が出来るだろうという認識をしている。だからこそ、下らない話だろうと聞き流していた。そしてだからこそ、出会ってしまったのかもしれない。
一冊の本がそこにあった。正確には違うのかもしれないが、とにかくそれは地面から滲み出たような黒い何かに支えられて、道の真ん中に存在していた。
この本を読んではいけない。近付いては行けない、気にしてはいけない....ありとあらゆる否定の単語が、この本に警鐘を鳴らしているようだった。
「───────っ」
一歩踏み出す。いや、体が勝手に動いているのだ。自分の意思では抑えられない何かが体を動かしている。この本を読まなくては、読まなければ、読むべきなのだ。いや、本当は────
僕は胃の中のものを吐き出した。また顔を上げる時には、本も滲み出たものの痕跡も残っていなかった。
「で、それ以来視界にその本が映ると」
「はい....ここに来るまでも」
町外れに一軒だけ存在する小さな家。そこに僕─────村田優希は来ている。この付近は廃墟ばかりの区画なのだが、それでも他の家とも離れたこの場所は異様な気配が着いているような、そんな感じがした。
「それは別に、昔からあるものじゃあないよ。話を聞いた限りじゃ、自然に生まれたもの....本当ならきっと君達にしか分からない。今私が聞かなかったらの話だけど」
僕の目の前で胡座をかく男は、なんてこともないようにぼやく。
彼はこの家の主人であり、この街の異常な事──────今回のような事を解決するのを生業としている観測士だ。名前は....貝原壱樹だったような気がする。
「さ、て。じゃあもう帰っていいよ。もう必要な事はほとんど満たした。君は帰って普段通りの生活を過ごせばいい。
ああ、勿論だけど解決するのは今夜だからさ、それまではあんまり出かけない方がいいよ?どこか行きたいならこの帰りに寄っておくべきだね」
その言葉通り村田優希は帰った。二人だけの空間はまるで何もいないかのような静けさを保っていたが、耐えきれなくなったかのように、貝原壱樹の背後から一人の影が這い出した。
「壱、こんなことは関わる必要が無い。放置すればいい」
「そうはいかないよ、もうお金も貰っちゃったし。しかしいいね、今の学生はこんな値段でもぽんぽんと──────」
「壱」
ようやく貝原壱樹....壱は声の主に顔を向ける。本来の名前で呼ぶのは彼女、肆だけだ。昼間だというのに、体の輪郭すら捉えられないような闇の中から語りかける彼女に、壱は方を竦める。
「わかってるさ。でも行くよ。嫌なら君は来なければいい」
「....何も出来ないのにか」
「そうだよ」
雪が降り始めたなあ...と壱は呟き、そのまま倒れるように寝てしまった。肆の視線は外へと移る。夏も終わりかけ、まだ暑いというのに曇った空は冷たくもない六芒星の雪を吐き始めた。
どこでもない場所を見つめ、肆は思い出したかのように呟いた。
「主役の登場だな」
助けを求めるものが必ずしも正しいとは限らない。