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Farewell  作者: 松上遥
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Bittersweet

 また彼女はいつも通り振舞い始めるのだろうか。どうせ昨日とは変わらない、平凡で無害な僕との関係を継続していくのだろうか。ある意味安心はするけれど、きっと彼女の心は余計に休まらなくなるだろう。自分自身の気持ちを押し込めて傷つけて、僕が気を使わなくても、その必要ももう忘れてしまうくらいに、彼女はうまく立ち回るのだろうか。

 その日の朝は彼女に会うことはなかった。僕もその時彼女の立場なら、わざと電車の時間を遅らせてでも僕に会わないようするだろう。彼女と駅で会えばだいたい流れで一緒に登校するのがお決まりだが、別に毎日そこで会って毎日一緒に歩いているわけでもなかったし、むしろそうするのは少ない方だ。何一つ変わらないはずの一日が始まってくれた。

 潮風が駅前のビルに囲まれて加速し、交差点に向かう僕たち生徒を急かしてくる。無意識に早足になってしまうスニーカーがまばらに高校生が歩く程度のさびれた街の道路をぺたぺたと叩く。空は重い雲に覆われ、昼ご飯を買うために寄り道したコンビニの店員さんもうかない顔をしている。「雨が降りそうな空だねぇ、気を付けて行ってらっしゃい」と店員さんはビニール袋を手渡してくる。今年の四月から入ってきた50代あたりの店員さんで、まるで近所のおばさんのごとく朝の高校生を見送る。そろそろ僕も顔を覚えられているころだろう。

 コンビニから出ると、少しだけ空気が体にまとわりつくのを感じた。近年話題の温暖化やらで春はいずれ消滅するのだろう、もう蒸し暑さがそこまで来ている。梅雨に入る直前に行われる文化祭の準備がそろそろ本格化する。きっと忙しくなって、楽しいはずなのにねられずに体調を崩す人が出てくるんだろう。去年部活の先輩たちが文化祭の準備、部活の練習、学校の課題に追われてばたばた休んで小テストの追試に出るのを目の当たりにしてきた。文化部は出し物をして、運動部は道具運びに駆り出される。運動部はそれに自身の大会が重なることもある。そして課題の量は決して減らない。どの部活もそんなものなのだ。

 坂を上って海抜10メートルの校舎に入る。この辺りは最近何かと話題に上りがちな南海トラフ地震で確実に津波に持ってかれる。プレートの境界近く、堤防なし。2分弱で到達する津波からどこに逃げたらいいのか、いまだにわからない。個々の生徒は津波避難ビルに指定されてすらいない高校の建物の上階に避難する。築50年の耐震工事皆無の建物で、果たして何人生き残れるのかいつも考えてしまう。避難地の三回まで登り、教室に入って廊下側の席に着く。すでに数人の机の上にリュックが放り投げられていて、数人机で本を読んだり、スマホをいじったり、課題をしたりしている。放り投げられたリュックの持ち主はおそらく小テストの追試に出ている。下の階の教室に学年の追試対象者が詰め込まれていたのの中に、クラスメイトもいるのだろう。僕は机の上に数学の課題のプリントを広げて取り組む。毎日こうはしているけれど、今日は特に集中して、つまり周囲に気を配ることなくやろうと決意した。人の気配にやけに気づきやすい性質なので、少しでも人の影、足音の情報を頭に入れてはいけない。彼女が教室にやってきたときに取るべき対応が、僕には全く思いつかないからだ。そのくらいならいっそ無視を決め込んでしまった方がいい。

 やがて朝の登校時間の終わりを告げるチャイムが鳴って、担任の先生が教室に入ってくる。いつも遅刻するクラスメイト達が歩いたり走ったりして教室に滑り込むのが少し止んだ後、少しして窓際の席に空きがあることに気づく。彼女がまだ来ていなかった。課題のプリントが終わったので顔を上げると、担任の先生が「狩野さんは休み?」と誰かに聞いていた。彼女にしては珍しいことで、もしそうなら昨日の気まずい出来事を今日のうちだけ忘れていられそうだから、それはそれで都合がいいかも、とか汚いことを一瞬だけ考えた。

 担任の先生が出席を取り始める。いつもと変わらないリズムが繰り返される。昨日の放課後にガラガラだった教室がたくさんの生徒達で埋め尽くされていることに安心感を覚える。まるで、彼女と二人きりの静まり返っていたあの空間は、夢の中にあったんじゃないかと。

 全員分の点呼が終わったあと、ブラウスを着た狩野さんが走りこんでくる。ひどく息を切らして、髪が短くなって見やすくなった首にうっすら汗をかいて。空気を切る勢いで先生に頭を下げて、言い訳もせずに遅刻の報告をする。そんなのしなくても君が遅刻をしていることはみんな分かっているのに。彼女にはこういう、ある種へんな潔さがあった。

 朝のSHRが終わると、先生が僕と彼女を前に呼び出した。僕が先に教卓の方について、彼女ががたがた音を立てながら、タオルを片手に駆けてくる。先生に「文化祭が近いからクラスの制作物のテーマを決める、その進行を明日お願いするから先に二人で話し合っておいて」という趣旨のお願いをされた。そもそも、クラスの委員とか係とかは、アニメや漫画でよく見られるようにイベントがあるごとに決めるものではない。四月の最初に決めて、半年か一年間固定なのが普通だろう。もし、創作にありがちな流れのひとつの「文化祭が近くなってきたから文化祭委員を決めるぞ」というイベントが今起こってくれたら、何が何でもヒロインの似合う明るい彼女と僕なんかがストーリーの展開的に一緒に文化祭委員にならされるのを回避しようと努めるだろう。昨日の放課後のようなことがあっては、そのような幸運をつかむべき存在にはなりようがないのだから。だから現実からはどうしても逃れようがなく、四月頭に彼女と偶然一緒に文化祭委員とやらにならされていたのだった。男女1人ずつを指定されていたことを恨む。忙しいと評判なうえ、きっと人気のある彼女が先に決まっていたところに立候補するほど積極的な男子生徒はクラスにいなかった。よくある話し合いとやらで、それまで委員会をさぼり続けたことを理由にクラスメイト達に押し付けられたのだ。はいともいいえともはっきり言えない性質がこれ以上にほど悪い方向に発揮されたのは、未だ類を見ない。

 まだ少し汗を拭いている彼女は、丸い目で遠慮なくこっちを見つめてくる。

「じゃあ和田くん、今日の放課後でいい?あいてる?」

 部活のない曜日だったので「うん」と即座に頷いた。彼女が距離を取ろうとしないのなら、僕には何も言い返す権利がない。

 昨日のことがあったから次の日の授業に身が入りませんでした、と言えるほど僕はこの状況に酔いしれていたわけではなかった。確かに動揺はしたし、嬉しくなかったと言えば多分嘘になる。けれどそれほど幸せなイベントではなかった。むしろ気に病むことばかり引っかかって、彼女のことが心配になってしまう。ついでに、今日の放課後二人でしなくちゃいけない仕事ができてしまったことも。彼女がいつもと変わらず演じ切ってみせるから、腹が立つ。負けじと僕も精一杯を使っていつも通りを装う。装ったところで、彼女と違ってたくさんの人と関わらない僕だ。難易度からして格が違う。だから自分にも、腹が立つ。結局へんに彼女のことを意識するよりは、苛立ちばかりを抱えて一日を過ごしてしまったと思う。

 6時間目が終わって、教室と廊下の清掃が始まる。事実上だいぶ古い校舎は清掃員ではなく生徒たちによって清掃される。いくら取り除いても溜まっていく埃でハウスダストアレルギーになった生徒も少なくない。もうじき地震ですべて崩れてしまうのだろうが、生徒に対する人権の保障がぞんざいなもんだ。

 噂によると建て替えの代わりとしてやってきただいぶいいお値段の空気清浄機が本気を出して埃を吸う。清掃が終わって空気清浄機が「くうきが きれいになりました」と告げる。それと同時に彼女は廊下のロッカーの上に置いていたリュックを背負い、教室に入る。それに続いて僕も中に入る。僕たち以外にもクラスメイトがぞろぞろと教室に戻り、課題を始めたり喋り始めたり、机の中から教科書を出して鞄に詰め込んだり。狩野さんが自分の席に着くので僕もその隣の席に座り、ルーズリーフを出す。

「なーに、横どうしで話すの?向かい合わせじゃないかなー」

 彼女はぐいと机を動かす。年季の入った机が悲鳴を上げるのが面白かったのか、口の中で笑って見せる。なんだっけ、こういうの、深夜テンションって言うんじゃないか。

「ほらはやくー、そっちもくっつけて」と僕に机を動かすように促す。いつもより、さっきより口元が緩んでいる。物理的に。よく見ると目元がやけにきれいに見える。化粧でもして隈を消していると考えて差し支えないだろう。とんでもなく寝不足なんじゃないか、この人。

 ちゃんと寝なきゃだめだよ、とは口にしかけてひっこめた。きっと、僕のせいでもあることを忘れちゃいけない。まだ教室にクラスメイトが残っているから、気づかないふりをしておかなくちゃいけない。

「さーぁ、どうやって決めるんだかねえ、こういうの」

 さっきまでいつもの狩野さんを演じていられたんだから、まだもうちょっと保たせてほしい。

「四人ごとくらいで話し合ってもらって、テーマの案を出してもらうべきじゃないかな」

「で、そのあと絵を描いてもらう人も募ることになるんだよね…そっちの方が先の方がいい気がするんだけど、先生がテーマ先に決めろっていうから、んー、まいいかぁ…」

 その手は無造作にボールペンをいじる。ときどきくるくると回す。

「会計は私たちがやるとして…あー、やだぁ、クラスで一個制作物作れってなにー?早く三年生になって出し物っぽい出し物したいー」

 この学校の二年生が作ることになっているのはクラスの「旗」だった。一年生は地域で行われる祭りの飾りを、三年生はクラスごとの文化祭らしい出し物を。あと文化祭で出し物をするのは文化系の部活、と決まっている。

 だから文化部に入っていない一、二年生は当日はかなり暇だし、加えて文化部に入っていたとしても作業ばかりに追われるかたまらなく暇か。彼女は大体部活の、文化祭のための活動が大変だ退屈だと言って、クラスごとの楽しい出し物がないことを憂いている。彼女のように言う生徒はそう少なくない。ただ彼女はいつもよりかなり疲れているのか、マイナスな発言がいつもの比にならないほど、とんでもない勢いで飛び出してくる。

「あーーー無理疲れたやだぁー」

「ほら狩野さん、疲れてるなら帰って寝たらどう?」

 ぱっとこっちを見つめて、朝から満足に開いていない目を今日一開いて、逸らす。

「君みたいなこと言う人、嫌い」

「そっか、嫌いか」

 僕はこっそり教室中を見回した。課題をしているクラスメイトがイヤホンをしていて、他の人たちがぞろぞろ帰っていくのを確認した。

「…ほんとうに嫌いなの?」

 彼女の肩がびくりと動いた。さあどう出てくるだろう。少しだけやりすぎたかなとひっそり懺悔しておく。彼女は今朝から真っ白で不健康盛りの顔色を少しも変えず、じっと机を見つめていた。昨日の放課後のことを思い出して内面はすっかりパニックになってしまっているのだろうか、でもそれを気遣ってやれない意地悪な気持ちが僕の背中を押してしまった。だって僕だってこれまでの人生でいちばんと言えそうなほど慌てていて、今だって苦しいくらい心臓が痛く拍動していたのだから。このくらいの意地悪、許されたっていいじゃないか、とも考えた。

「いじわる」

 顔を赤らめるわけではない。彼女はこういう「見られちゃいけない顔」を、複数人の他人に見られるようなことに耐えられないのだろう。僕とは真逆だ。僕も今、その技がとてもほしい。

「じゃあ和田くんは、私のこと嫌いなの?」

 余裕ぶった声。息いっぱいで、低くしている声。もしかしたら本気で余裕なのかも、他人の僕が推し量る余裕はない。

「顔、赤いけど?」

「うるさいよ、寝た方がいい」

 彼女はにやりとして見せる。君は昨日から疲れすぎているにきまってる。僕のような人間にこんな構い方をするなんて。

 でも僕も疲れていたのかもしれない。何となく、目の前にいる無敵な人に対抗したい気持ちが芽生えた。

「嫌いだって言ったら、狩野さんは昨日のこと、後悔するの?」

「え?」

「じゃあ試しに言ってみようかな。嫌いだよ。昨日みたいなことがあるなんて、本当に心外だったよ」

 彼女は何も言い返さない。

「パニックになってるのはお互い様だよ、そっちだけじゃないなからね。辱めてあげてもいいんだよ、僕は酷いことも恥ずかしいこともしてやれるよ、だって嫌いなんだから」

 すぅ、と息を吸い込む音が聞こえた。僕は喋るのをやめて、頬杖をついて彼女を見ていた。感情を悟らせまいとさせるからいけないんだよ。誰も君の本心なんてわからなくなってしまうんだ。

 彼女は俯いた。短くなった髪の毛が顔の横を滑る。前髪で隠れてしまって顔色すら分からなくなる。僕が黙ってしまったことで再び静まり返る教室に、廊下側の席で課題を消化するシャープペンが叩きつけられる音だけが響く。

「…どこまで、本心?」

 とだけ。どんな顔をして言っているのか、見当もつかない。

「君のことを嫌いだっていうとこだけが、嘘。」

「じゃあ、嫌いじゃなく、何?」

 声のトーンは変えるわけにいかない、当たりの決意を感じさせる。泣きそうな声はだめ、怒っている声もだめ。マイナスの感情は他人に見せちゃいけない。弱い部分を見せちゃいけない…。

 でも、今度は向こうが意地悪だった。逆転してしまった。そうなったら、僕はもう負けを認める未来しか見えない。だから早くに諦めたって、結果は同じだろう。

「好きだよ、とても。興味がないわけでも嫌いなわけでもないよ」

 すんなりと言ってしまえば終わりだと思ったし、言う前は本当に余裕ぶっていた。やっと正直になって口にしてしまった直後、さっきよりもうるさく心臓が鳴る。きっと顔は赤くなってしまっている。熱が顔に集まってあついのを認めてしまっている時点で、もう僕の負けだ。

 彼女が煽りもしないのをいいことに、勢いのまま口にする。心臓が痛い。浮かされているような気分だ。

「昨日のことだって罪悪感は感じなくていいんだよ、ただちょっと、心臓に悪かったことだけ反省してもらいたいくらいで…」

 彼女の方を見ると、まだ向こうは俯いて黙っていた。細い指を顔の方に運んで、整った顔のどこかに触れる。

 ぽたっ。

 ぼた、ぼたぼた。

 机の木目が歪む。一か所、二か所、三か所。

 指を伝って、ブラウスの袖まで流れていく。透明に滲む。

 僕に彼女を理解する気はない。どんなに努力して歩み寄ったところで、決して分かる日は来ないだろうから。だからこんなときにかけるべき言葉なんて都合よく思いつくはずがない。

 何も言わずにハンカチを差し出す。受け取るのを確認して、手元にある委員会の資料に目を通す。予算の管理について、絵を描くことになる無地の旗がどうとか、文化祭のルールがどうとか。きっと要領のいい彼女に任せた方がよさそうだと去年のぼくなら思っていたのだろうが、ここまで弱かった彼女の一面を知ってしまえば、もうそうする気にはなれない。

 上の人たちが細かくまとめてくれた決まりを読んでいって、B4一枚の横書きの文章を右下まで読み進めたころ、彼女が顔を上げた。それに気づいて僕がそっちを見ようとすると、「だめ、こっちを見ないで」と止められる。「隈があったところで僕が君を嫌いになるわけじゃないけど」と言うと、彼女は少し黙り込んで、「わかった」とだけ。

 諦めただろうと見上げると、ハンカチではなくひたすら袖で目のあたりを拭う彼女がいた。袖が薄橙色に染まっていくのを見て、彼女が余計にも程がある気づかいをしているのが分かった。

 彼女の隣に回り、手を引いて立ち上がらせる。反対側の手にハンカチを持たせて、教室を出て廊下にある水道まで彼女を連れていく。理解はできていなかったものの抵抗する意思はないようで、僕が彼女のブラウスの袖を引っ張って水を当てるのを何も眺めていた。

「化粧って、洗濯してもなかなか、取れないんだよ」

「いいよ。好きなだけ汚して」

 確かに袖についた色は簡単には落ちず、どうやら水で洗うのは正攻法じゃなかったらしい。薄まりはしたものの広がってしまい、目立たない程度にしかならなかった。

「ごめん」

「いいよ、ありがとう」

「着替える?」

「服持ってない」

「Tシャツ貸したら、着る?」

「…差し支えなければ」

 トイレの個室で着替えて戻ってきた彼女の目元には、想像通り隈があった。後腫れているのかいつもより少し目が細く見え、何より顔色が悪かった。

「帰った方がいいと思う」

「やだ。絶対帰らない」

 そう言うとまた彼女の瞳から涙が落ちた。その提案はもうしないと心に誓った。

 気が付いたら課題をしていたクラスメイトは帰っていた。今日の数学のプリントを終わらせたんだろう。どこまで見られてしまっただろうか。僕が気にする筋合いはないのかもしれないけれど。

 彼女は大人しくさっきまでいた席に戻って、落ち込んでいるのをもう隠す気もないらしい。こんな弱いところを他人に見せてしまうなんて、と言った心境だろうか。

「ごめんなさい」

「いいよ、気にしない」

「迷惑かけちゃった」

「今日が初めてじゃないでしょ」

「昨日とか、あの、クリスマスの時とか…?」

 声が震える。やっぱり気にしていた。

「もういいよ、だって僕は君のことが好きなんだから」

「そういう問題じゃない、あなたはただのクラスメイトなんだから」

「じゃあ、もし、僕が君にとってただのクラスメイトじゃなくなれば…」

 そこまで言いかけて、口を閉じる。また僕の心臓が激しく拍動し始める。苦しくなる。

 彼女はいつもより開かない目で僕のことを見ていた。茫然、と言うべきだろうか。しかしまだ状況が呑み込めていないのか、僕よりも慌てた目をしているようにも取れる。僕が何か続けられるわけもなく、目の前の人から目を逸らして手元に視線を落とす。

 彼女は少しでも動揺してくれただろうか、と意地悪な興味がわいた。人間としてのレベルが比較にならないくらい低い僕に告白をされて、もしかして少しでも彼女の感情が動いてくれただろうか。そもそもさっき泣き始めたのは、どうしてだろう。

 ぐるぐると考えだして黙っていて、先に静寂を破ったのは彼女の方だった。

「もし、あなたがただのクラスメイトじゃなくなったら、私はもっと苦しくなる」

 今よりもっと、息ができなくなる。



 ねえ、一緒に帰ろう。

 夜の7時、課題を消化していた彼女が声をかけてきた。サッカー部の掛け声に混ざって、下の階で体育科の先生が教室に残っている生徒たちを帰らせる声が聞こえていた。窓を閉め、黒板を消して蛍光灯を消し、真っ暗になった廊下に出ていく。戦後長く残った夜の校舎は、梅雨入り前の気温の高さにも拘らず背筋が凍るほどの不気味さをしている。しょっちゅう残る生徒達にはもう見慣れた光景だ。

 施錠を確認するために階段を上っていく先生に挨拶をして、オレンジ色に照らされて練習を続ける運動部の横を西門まで歩いていく。彼女は門を抜けるまで何も言わなかった。門を出てすぐにある車道を渡って、住宅街の細い道に入ってから、口を開いた。

「誰にも好かれたくなかったの、苦しいから」

「表に出ている君は、とても魅力的だけど」

「それはどうでもいいの、ただ、私じゃないから。私のことを、好きになってほしくなかったの」

「じゃあ、表向きの君だけが好きだと言い直したら、君は満足なわけだ」

「和田くんは、そんな嘘をつけるほど器用な男じゃないと思うよ」

 いつものような声色を装って、棘のある言葉。

「あーあ、もう面倒になっちゃった。嫌だなあ」

 彼女が空を仰ぐ。建物の明かりさえほんの少ししか邪魔をしてこない星空に、見とれている。

「これまで通りじゃだめなの?」

 彼女に聞いた。今日のことや昨日のことを、クリスマスの夜の時のように、なかったことにしてしまえたら。器用なはずの彼女が、これまで以上に頑張る気になれるのなら。

 ふう、と息を吐く。いつか誰かが言っていた。ため息の時口をウ、の形にしておけば、深呼吸みたいになって落ち着ける、なんて。

「無理に決まってる」

 何にも装わなくなった瞳が、こっちを見つめる。眼鏡越しじゃないと、まともに振舞っていられなくなる。

「口止めは、いらなそうだけど」

 僕の足は止められる。彼女は自由に足を動かす。

「たまらなく嫌なの。あなたのこと、嫌いじゃないの」

 こっちを振り返らない。ふわふわと揺れる。

「私のことが、嫌いなだけなの」

 彼女は立ち止まる。僕を振り返る。

 僕はさっき聞かれた質問を、返した。

「僕のことは、嫌いじゃなきゃ、何?」

 彼女の口角がほんの少し上がる。余裕と不安と、いつもの明るい目が入り混じって、月の光に包まれる。星を映す。君は多分、神に祝福されている。

「とっても、好き」

 白い光でいっそう白く見える腕が、こっちに伸びてくる。その頬はほんのりと染まっている。

 彼女は走り出した。あと8分で、電車が来る。

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