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Farewell  作者: 松上遥
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Burgandy

 彼女のいつもと違う一面を見たのは、この夕方に初めてではなかった。

 やがて空は燃えるような赤色になって、これまでの人生で初めてなくらい、遠い国の栄えている海のように、教室を染めた。と思ったらそっとその光は消えていき、教室を照らすのは蛍光灯に成り代わっていく。眼鏡を取って眺めると、さびれた街を少数で照らす電灯の光だけがやけにぼうっと大きくなる。遠くに見える港に大きなタンカーのような形が光り輝いて、まるで人気のない住宅街を見下しているようにも取れるほどだった。

 目を閉じて、まだ混沌を極める頭の中を整理しているうちに、去年のクリスマスイブに出会った彼女のことを思い出した。その日僕は塾の帰りで、授業がいつもより少し早く終わったのと疲れてしまったのもあって、いつもより早く建物を出てまちをうろつくことにした。駅の方に向かって歩いていく途中にあるイルミネーションをぼんやり眺めて、忙しそうに歩く人たちを尻目にベンチに陣取った。このあたりに雪が降ることはめったにない。その日も昼は快晴で、僕がこの町にいる間はホワイトクリスマスとかいうものを体験できないんだろうな、とか考えていた。

 ふと、鼻をすする音が耳に入ってきた。道を歩く人たちのものではなかった。僕の座っているベンチの隣で、うずくまっている人がいた。その人は深い赤色の大きめなマフラーのようなものを身体に巻いて、その下にはちゃんとした上着を着ていなかった。明らかに周りの人たちからは浮いていた。もしホームレスならちゃんとあったかくできるだろうし、何より普通に身体がきれいで汚れているように見えなかった。かすかに見えた目が若い女性にありがちな形をしていて、どうしても声をかけなければいけない気がしてしまった。

「どうしたんですか」

 僕が声をかけると、彼女はぴくりと肩を動かして見せたが、返事はしなかった。

「風邪をひきますよ、温かいものを買ってきますからね」

 これを着て待っていてください、とコートを差し出した。そんな気の利いたことをすんなりできたのはこの時しかないと思う。

 そばにあったコンビニから戻って、ホットミルクティーを差し出した。彼女の暗い目がこっちをじろりと睨んできた。決して敵意はないのだろうしそんな目しかできなかったのだろうけど、初めて見る迫力のある目に僕はほんの一瞬怯んだ。向こうは僕をじっと見て、ほんの少し声を出した。「あなた、」とか、そんな言葉だった気がする。その人は、狩野さんだった。

 彼女はその瞬間僕が同じクラスの人だと分かってしまったみたいだった。即座に逃げ出そうと立ち上がったものの、まともに歩き出すことができず、ドミノみたいに足から崩れ落ちる。体からコートとマフラーが落ち、彼女がいかに薄着をしいているか目に入った。それでいて足元は裸足にスニーカーを履いていて、見ているこっちが寒くなるさまをしていた。

「見ないで」

 決して大きな声ではないけれど、できる限りどすをきかせた声で言い張った。

「だめだって、このまま放っておいたら体調を悪くする」

「うるさい」

 この時の彼女がどうしてこう振舞っていたのかは分からないが、きっと普段隙を見せないようにして生きてきた彼女はクラスの端っこにいる僕のような人にこんな様子を見られて自尊心をかなり傷つけたに違いなかった。彼女の目は暗く、もはやこちらに対する敵意を超えたものを込めているように見えた。

 その目を見て、僕が恋に落ちたり落ちなかったりしたのはその時はよくわからなかった。

 ただ、どうしようもなく、彼女をここから逃がしてはいけないと思った。そうしたら僕が自分のことを責めて堪らない未来が見えた。彼女はマフラーも置きっぱなしにしてふらふらしたままどうにか歩いていこうとする。仕方ないから男女の力の差を利用させてもらったことは許してほしい。必死で真っ白になった彼女を後ろから抱きしめて、抵抗する力もまともになかった身体を無理やりベンチに座らせた。触れてしまった体は嫌なくらいに冷たく、その表情に光がさすことは当分なさそうだった。

 抵抗さえしない彼女に赤いマフラーを首に巻いて、コートを着せた。幸い厚着をきめこんでいたので上着を一枚彼女の脚に被せて、もう一度彼女にペットボトルを差し出す。彼女の目にほんの少し恐怖の色があって、罪悪感のようなものをこちらに与えてきた。

 彼女は指先がかじかんでうまくキャップを開けることすらできず、僕が手を出すと素直にこっちに渡してきた。明けてから返すと彼女は白い湯気がのぼるのをぼうっと眺めて、ゆっくり唇を付けた。体が冷え切っているからだろうか、かなりちびちびと飲んでいた。

 少したって、彼女がか細い声で言った。

「ごめんね」

「いいよ、特に困ったわけでもないし」

「そうじゃない」

 きっと彼女は、イライラしているところを見せてしまったことを嘘みたいにひどく悔やんでいたのだと思う。彼女は静かに口を付ける部分を噛む。

「なんでもいいよ、あったかくしてくれるなら」

 彼女は諦めたような目を作った。

「理由は言わないからね」

「…わかった」

 その翌朝、彼女と駅でばったり会った。クリスマスだったのに、どっちも学校に行って自習をするつもりでいた。彼女は元気に「おはよう、クリスマスなのにデートするカノジョもいないんだねー」とか言ってきた。僕はもう、前日の彼女とその日の彼女が別人なんだと思い込むしかなかった。そうでもしないと彼女にとっての当たり障りのないクラスメイトは続けられないと思っていた。

 僕はその時から、彼女に干渉してはいけない存在になった気がした。少なくとも、このクリスマスの出来事は忘れたことにしないといけないということは分かっていた。

 彼女はその後もずっと何事もなかったかのように振舞い続け、多分いっそう、学校で出会う誰にも正直な気持ちを話さなくなった。いつも彼女は誰かを演じていて、それを“彼女”としてみんなが認識しているような気がした。僕があの時声をかけたせいでこうなってしまったのかもしれないと、今でも考える。あれがなかったら、もう少し彼女が素直に生きていけたんじゃないかと。そして、彼女は僕のことを嫌っているのではないかとも思っていた。本当は避けたくて仕方なくても、“彼女”が決してそれを許さない。そんな行為は相応しくないから、とかが妥当だろうか。

 だからまだ、まだ皮膚の上に残る感覚が、本当のものとは思えない。そもそも、彼女が何で僕にキスをしたのか、まったく意味が分からない。

 机からペンが落ちる。気づいても、まだ動ける気がしない。靄が晴れていくように元に戻る意識の中でさえ、僕はまだ混乱していた。ぐるぐる巻きの渦の中に巻き込まれて、当分はその上の方でひどく速く回されてしまうのだろう。

 額をついた机は、ぬるい。窓の外は深い紺色をして、僕を責め立てる。

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