Twilight
ぱしゃり。
放課後の教室に入ると、スマートフォンのカメラアプリがシャッター音を立てていた。
ただただじっとして窓際に体重をあずけて、夕焼けの空を撮り続ける。その瞳はオレンジ色に染まって、光をそろそろ失いそうになっている。
音を立てないようにしてそっと自分の席に着く。集中しているときの彼女…僕の好きな人、狩野結衣さんは、こういうときに刺激されるとひどく動揺する性質がある。
おそるおそる教科書とノートを出して、課題を消化しにかかる。いつも僕は部活の後に教室に戻って次の日の予習をしたり課題をしたりするのが日課だった。明日提出の英作文が一つ終わったくらいに、窓近くから足音がした。
「え、いたっけ」
ぼんやりとした声が左から聞こえて、そっちを向くとスマホ片手に立ち尽くす彼女がいた。眼鏡の枠の中に写る空はいくらか暗くなっていた。これからどんどん明るくなっていくんだろう、とぼうっと考えた。かすかな影を伸ばす彼女は何も言わずこっちを見ていた。動揺しているのか、焦点のおぼつかない目をして青ざめた顔をしている。
見ちゃいけないものを見ている気がする。でもたまらなく惹きつけられて、離せない。
「…気づかなかった?」
こっちもこまっているのにきっと彼女はとっくに気付いている。自分の顔を作るのに慣れていない癖に他人の表情を読み取る力ばかりにたけている彼女だから、その目にもどんどん影が差していく。許されるなら、その目を性能のいいカメラで納めた写真を額縁に入れ飾ってしまいたい。そのくらい、美しい。
「…えへへ、ぜんぜん。和田くんが上手なんじゃないの、こそこそーってするの」
細められてもまだ暗い。どうしたら継続できるかは、まだ僕は知らない。
「空の写真撮ってたの?」
ぱち、瞳の奥で泡がはじけたように、こっちを見る彼女はまだ次の手を決めかねている。
「そう、なの、そうなのっ、すごくきれいだったから!」
短くなった髪の毛がほんの少し風に吹かれて、ひざ丈のスカートが揺らめく。駆け足で僕の隣の席について、静かに椅子を引く。丸く目を開いて僕の手元を覗き込む。まだ一生懸命作った行動というか、へんに気遣わせないようにと意識しているようにこちらに悟られてしまっている。
「どうしてそんなに慌ててるの?」
「え?」
指が一瞬で硬直する。その表情が作りものじゃなくなる。
「なんでわかるの?」
質問に質問で返してきた声は、震えていた。
「目を見たらなんとなく、わかるよ」
彼女の瞳に移る白い蛍光灯の光が、ゆがむ。ふいとそっぽを向く。
スマートフォンをことんと机に置いて、聞こえないくらい静かに息を吐く。
「だって、油断してたから」
「油断?」
「油断。周りに人がいないからって、した。誰もいないから調子乗って、気ぃ抜いてた。あなたがよく来るの忘れてた。一人だけだって思ってたから、他にもいろんな事してたの。こんなとこ見られるのやだなぁって、死ぬほどやだなぁって思ってたけど、楽しかったから。四十人近く詰め込まれる教室に一人だけになって、やけに広い感じがして、うれしくて…」
彼女の手が力を失って、だらんと机に落とされる。
「走り回ったりしても、誰にも見つからないし」
その頬は心なしか赤い。夕日のせいだろうか。
「走り回ってたの?」
「…子供っぽいって、おもう?」
「さあ…僕らはまだ子供だからなぁ」
「そおじゃなくて」
「言いたいことはわかるけどさ」
確かに、小さくて、守ってあげたくなるくらいの幼さがあるよ。とは、口が裂けたって言えない。喉よりもっと低い位置で飲み込んでしまう。
もしかしたら、これはとても幸運なのかもしれない。他に誰もいない状態で、素に限りなく近い彼女と会話ができている。去年一年間同じクラスでもこういうことはなかったわけだし、もう少し僕は幸せ者らしく、思考をやめていた方がいいのかもしれない。
僕はボールペンに手を伸ばして、作業を再開した。ノートにインクが載せられる音を確認して、彼女は腕に完全に顔をうずめる。
「つかれた」
弱々しい声がつんと僕を刺す。
「ねえ、和田くんは、私のこと、かわいい女の子だって、おもう?」
やけに明るい声でもなく、暗さいっぱいの声でもなく。
僕が即座に返すことができない間、一瞬でひどく、静かになったような気がした。いつもうるさいまでに高校生たちの話し声でいっぱいになる教室は、いまや僕たち二人の吐息の音を拾うのもやっとになっている。
「言い方を変える、綺麗な顔、だと、おもう?」
いつになくたどたどしい。彼女は僕以外と話す時は、実はこんな話し方なのかもしれない。僕が今まで知らなかっただけかも。
でも、たまらなく壊れそうな彼女が目の前にいた。
「整った顔ではあると思うよ。パーツとか、その配置とか」
「…ふーん?」
彼女の短い髪が風に揺れた。
「補正、かかってない?」
ちょっとだけ、こっちを馬鹿にしてくるかのような、楽しんでいる声色。
何を聞いているんだか、一瞬では本当にわからなかったし、たぶん二秒くらい与えられたけど、僕が何を求められているのか、全く理解できずにいた。
がたりと椅子が動く音がした。僕は固まったまま、音のした方を見れずにいた。夕日で斜めに長く伸びた影がフレームのあたりで動いていたのがわかった。
次の事象が何か理解できたのは、それが起こってからかなり時間がたってからだった。
僕にとっては初めてだった。彼女にとって初めてだったかは、未だ知りえない。
だから、すぐ理解できるはずもなかった。
「…ね、嫌?」
彼女の口角がやんわりと上がったのが、見えた。
ファーストキスが彼女になろうとは、それまでのぼくは一ミリも考えていなかった。
何秒か経って、彼女の問いかけが頭に入ってきた。彼女はじっと僕の目を見て、僕の答えを待っていた。夜中の猫みたいな目が、僕の言葉を逃がすまいと待っている。
「…卑怯、だよ」
君は他人の心を見通すことに長けている。僕なんかと違って、いろんな人と関わって生きてきたんだ。僕の想像の及ばないようなことをする。だからこうやって僕を驚かせてくる。僕が君を好きなことも、きっと君はずっと前から勘付いていたんだろう。その綺麗な顔と、僕が持ちえない色々な能力で、僕を慌てさせようとたくらんでいたんだろう。
堪らなくなって目を逸らした。これ以上彼女の目を見ていたら、僕の気持ちをもっと盗られてしまいそうだと思った。彼女のことを恐れた。急に怖くなった。負ける、というやんわりとしたイメージが、途端に確信に変わった。
「ひ、きょう」
また、弱々しい声。
「ひきょう、かなぁ?」
そう言いつつ、彼女の声は震えていた。
「そっか、そっか」
どんどん滲んでいく。
「ああ、そっか、ひきょおだよね、わたし、」
彼女の顔が遠ざかる。
「ごめんね、そうよね、そんなにうまくいく、はずが」
背中を向けられる。僕はまだ怖くて、机から目を逸らせない。
「ほんとうにごめんね、今のこと、全部、忘れて」
彼女はリュックを手に取って、走って教室を出ていった。




