第32話
「急いで荷造りしないと。先生をお待たせするわけには……!」
部屋に駆け込むなり私は衣装たんすを開けて、その中の衣類を数着ベッドに放った。
それから旅行鞄を引っ張ってきて、適当に丸めた衣類をその中に詰め込んでいく。
本当はきちんとたたんで入れていきたいのだけれど、オズワルド先生はほとんど支度ができているため今は時間がない。出先で荷解きするときにでも鞄の中身を整理しよう。
私が医療行為を行うわけではないため、持っていく荷物のほとんどは着替えの類だった。
そのため準備にさほど時間はかからなかったけれど、早さの代わりに鞄はパンパンに膨れてしまっている。きちんとたたむ時間さえあれば……!
鞄の口を無理矢理閉じ、オズワルド先生の元へ戻ろうと駆け出す。
しかし部屋を出る寸前、机の上に見覚えのないものが置いてあることに気がついて私は足を止めた。
「……あれ? なんだろう。帽子?」
見たところそれはつば広帽子のようだ。
夏の日差しの下で映えそうな白に、紺色のリボンが一周巻かれている。今はまだ春だけれど、日差しが強くなってくるこれから季節にはぴったりの代物だろう。
けれど今朝、私がこの部屋を出るときにはこんなものはなかったはずだ。
誰かが置いたのだとしたら、オズワルド先生と隠れ家をまわっている間か、ディオンさんの応対をしている間だと思われる。そしてそれが誰の仕業なのかは、私にはなんとなくわかる気がした。
机の上の帽子をそっと持ち上げてみる。
するとその下には私の予想通り、小さくて真っ赤な頭巾頭が隠れるように座っていた。
「あ、やっぱりノームちゃんだ。これも作ってくれたの?」
ノームはひょっこりと立ち上がると、私の顔を見上げてこくこくと頷いた。
本当にちょうどいい。まるで私がオズワルド先生の出張診察についていくことをわかっていて仕立てたかのようだ。
「ふふ。ありがと」
その場で帽子を被ってみせた私は、ノームの頭を指先でちょんちょんと撫でながらお礼を言った。
するとノームは頭をぷるぷると震わせると、ポンと弾けて消えてしまった。
前と同じように、嬉しくて感極まっちゃったかな。本当に嬉しいのは私のほうなのに。
ノームからの餞別を受け取り、俄然やる気が湧いてきた。
私は一度深呼吸して「よしッ!」と気を引き締めると、床に下ろした旅行鞄を再び抱えてオズワルド先生の元へと戻った。
*****
「それじゃあここからは馬車だね。ディオンの言っていた通りなら、一日半くらいで到着するはずだ」
「はぁ……やっとですかぁ……」
隠れ家を出発した私とオズワルド先生は、まず精霊の森を抜けた南側――どの種族の領地にもなっていない中立地域の街に向かった。
これからここで馬車を手配して、依頼人の待つ獣人領へと向かうのだ。けれど、大きな旅行鞄を抱えたまま森の中を進むのは、正直私にはかなり応えた。
この中立地域では、それぞれの領地が近いこともあって、森人と獣人ばかり見かける。
ここから精霊の森を挟んで向こう側は人間領であるため、距離的にはこの街で人間を見かけてもなんらおかしくはないはずだ。けれど和平協定を拒否し続けている人間が、多様な種族が入り乱れているこの中立地域に姿を現すことはほとんどないだろう。
彼らは他種族を憎み続け、ずっと自分らの領地に隠れたまま鎖国的政策を行っているのだ。
「だ、大丈夫ですかね……。人間なんかがこんなところに来て……」
「まあ確かに人間ってだけで人目は集まるかもしれないけど、君自身に敵意はないんだから平気平気。森人と一緒にいれば面倒なことにはならないさ。それに帽子を被っていれば、ディオンみたいな耳を隠した獣人に見えないこともない」
馬車乗り場を目指して歩く間も、私は周囲の目が気になって仕方がなかった。
六つの種族が和平協定を結んでいる中、私たち人間だけが孤立している。もし気づかれれば白い目で見られてもおかしくはない。
まあ、和平は結ばれていなくても、同じメーレア連邦国の国民であることに変わりはない。森人であるオズワルド先生もついているし、人間だからといっていきなり襲われたり追い出されたりはしないと思うけれど。
それにしてもノームたちは本当にいいタイミングで帽子を作ってくれたものだ。帰ったらもっといっぱいお礼を言っておかないとなあ。
そうこうしているうちに、私とオズワルド先生は馬車乗り場に辿り着いた。
先生がディオンさんに指定された街まで行きたいことを伝えると、御者の男性はすぐにでも出発できると言ってくれた。
ちなみにこの御者の男性は耳が尖っていて長いため森人のようだ。馬の獣人が御者だったりしたら、ちょっとおもしろかったのにな。
これから馬車で一日半。長い道のりだけれど、重い鞄を持って歩くよりはずっといいはずだ。
西の空はだんだん茜色に染まり始めている。先に出発したディオンさんも今頃は、依頼人の待つ場所へ向かって走り続けているのだろうか。
私たちも急がないと。こうして私たちが馬車に座っている今も、病に苦しみながらオズワルド先生を待っている人がいるのだから。