第31話
「ディオンさん、出発されましたよ」
「そっか。見送りご苦労様、ミレーユ」
書斎に戻ると、オズワルド先生はようやく笑いの発作が治まったのか荷造りを始めていた。
旅行鞄の中には、診察に使う道具や薬の材料になる薬草の粉末などが詰められているみたい。
準備の手際が良く、随分慣れている様子に見えるけれど、彼はそんなに頻繁に出張診察に行くのだろうか。
外での彼の仕事ぶりを見てみたい。
この隠れ家の充実した設備を使えないという不自由な条件の中、一体どのようにオズワルド先生の手腕が振るわれるのか、とてもとても興味がある。
――のだけれど……。
「よし。だいたいこんなものだろう。それじゃあディオンのあとを追うとしようか」
「はい。留守はお任せください、先生」
余所行きの上着を羽織るオズワルド先生を送り出そうと、私はそう言った。
けれどなぜだか先生は、そんな私を見るなりきょとんとしてしてしまった。また私はなにかおかしなことを言ってしまっただろうか。
「えっ、来ないの、ミレーユ?」
「えっ?」
予想していなかった切り返しに私も固まってしまった。
オズワルド先生は私がついてくるのが当たり前であると思っていたのだろうか。そんな恐れ多いこと、できるはずがないのに。
私はまだ助手としては名ばかりで、オズワルド先生のお手伝いなんて何もできない。ついて行っても邪魔をしてしまうだけだ。
ならばせいぜい今の私にできるのは、この隠れ家の主の留守を預かるくらいがいいところだと思ったのだけれど……。
少し変な間が空いて、オズワルド先生がため息をついた。
彼はそのあとゆっくりと歩み寄ってくると、向かい合わせに立って私の顔を見下ろした。
「ミレーユ。君はまた余計なことを考えてるだろう?」
「そんな。余計だなんて……」
オズワルド先生にはやはり見透かされてしまっているみたいだ。
私が助手としてまだ何もできないのを気にしていることを。先生のお手伝いどころか客人の応対もまともにできないほど無能な自分が、ついて行くだけ無駄なのではと考えていることを。
けれど、それが余計だなんて思わない。私はオズワルド先生のことを尊敬しているからこそ、彼のために自分ができることをしたいだけだ。
ついて行っても、私なんかじゃどうせ何の力にもなれない。ならばここに残って医術の基礎を自分で勉強したり、散らかり放題の部屋の片づけでもしているほうが、絶対に先生の役に立つに決まっているのだ。
それを余計だなんて言われても、私は……。
「あのね、ミレーユ。僕は君にこう尋ねたはずだよ。誰のためだい、って」
「あっ、それ、は……」
もちろん、そのことは覚えている。忘れるはずがない。
私がオズワルド先生の元にいる理由。それは他の誰でもなく自分のため――自分の目指す自分になるためだ。
このことを指摘されると私は弱い。確かに私が留守番をしようと申し出たのは、自分のためではなくオズワルド先生のためだったと言われれば否定できない。
だからといって、ついて行って彼の邪魔をしてしまうことも本意ではないのだけれど……。この板挟みの状況……私はどうすればいいというのだろうか。
もじもじと何も答えられずにいる私。するとオズワルド先生は、私の顔を覗き込んでずいっと顔を寄せてきた。
びっくりして思わず固まってしまう。鼻と鼻があと少しで当たりそうで、思わず顔が火照り始める。
オズワルド先生には自分の顔が整っていることを一度きちんと自覚してもらいたいのだけれど……! いきなりこのようなことをされるのは本当に心臓に悪い……!
「――『臨床』」
「…………へ?」
一人でドキドキしている私に、オズワルド先生は何か知らない単語を投げかけてきた。
「へ? じゃないよ、復唱して。『臨床』!」
「り、りんショーッ!?」
「もう一回! 『臨床』!」
「リんしょーッ!!」
「もっと大きな声で! はい『臨床』!」
「りンしょーッ!!」
あの、なんですか、この状況。
聞いたことのない言葉を何度も私に繰り返し唱えさせて、オズワルド先生は一体何を考えているのだろう。
というか、今の話の流れからどうしてこのような謎の儀式に発展したのか、まるでわからないのだけれど!?
「――りんしょーうッ!!」
「よろしい!」
軽く十回は呪文を唱えただろうか。オズワルド先生が満足するころには息が上がっていた。
本当になんなのだろう。ついのせられて言われるがまま復唱していたけれど、彼が私に何をさせたかったのかはさっぱりだ。
「じゃあ説明してあげよう。『臨床』というのはつまり、患者の横たわる床へと実際に足を運び、患者と実際に向き合うことだ。医の道を志す者にとってこれは基礎中の基礎であり、原点であり、それと同時に終着点でもある」
「は、はあ……」
息を整える私にくるりと背を向けたオズワルド先生は、書斎を歩き回りながら得意げに語り出した。
毎回思うのだけれど、部屋中に散らかった大量の書物を一度も踏んだり崩したりしない先生の歩行法は、地味にすごい特技だと思う。慣れの問題なのだろうか。
「君のことだ。どうせ自分には何の知識も技術もないから、ついて行くと邪魔になってしまうんじゃないかとか考えてたんだろう。でも、それは大きな間違いだよ、ミレーユ」
部屋をぐるりと一周まわって私の前まで戻ってきたオズワルド先生。
彼は再び私と向き合って立つと、いつもの優しい笑顔ではなく、師としての厳しさを感じさせる表情を見せた。
「君は勘違いをしているんだ。医の道において最も重要なのは、あらゆる疾患に精通する知識力でも、どんな難しい症例にも対応できる技術力でもない。――――ただ救いたいとそれだけを願った結果に伴う、行動力だよ」
「行動力……」
なぜだろう。オズワルド先生の言葉はいつも、私の胸の中にすとんと落ちてきて簡単に飲み込むことができる。
その理由はよくわからないけれど、多分言葉の重みが違うんだと思う。四百年以上のときを生き、医師として多くの命に関わってきた彼が命について語るからこそ、私のようなたった十六の小娘には何も反論できないのだ。
そして何よりも、オズワルド先生の言葉はいつだって正しい。
私は彼に何度も救われ、身をもって彼の目指す理想を感じたからこそ、無条件にそう信じることができる。
そんな彼だからこそ、私はその隣にいたいと望んだのだ。
「僕の助手になる前の君にはそれがあった。方法は間違えてしまったけど、君は村の住人たちを救おうとがむしゃらに行動してたじゃないか。けど今はどうだい? この隠れ家で一人留守番してることが、助けを求める依頼人を救うための行動として最善だと、君は思うのかい?」
そんなはずがない。例え半人前でも青二才でも、私はオズワルドという偉大な医師の助手なのだ。
彼を助け、彼から学び、彼のように生きたいという自分自身の願望が、私にはある。その思いに従って行動することもできなかったら、私は一体何のためにここにいるのかわからないじゃないか。
「君は自分のために僕のそばで学びたいと言ったね。だったらこれは絶好の機会だ。臨床の現場には医学書なんかに載っていない、現場でしか学べないことがたくさんある。今の君がこれを逃すのは、あまりにも惜しいことなんじゃないかと僕は思うんだけどなあ」
そう言ってオズワルド先生は、真剣そのものだった表情を緩めて微笑んでくれた。
彼の言葉を受けて私がどちらに転がろうとしているのか、先生にはすっかりお見通しということみたい。なんだか心の内側を覗かれているみたいで、少し恥ずかしい。
「大丈夫。君が恐れてるようなことにはならないよ。……君はもう方法を間違えたりしない。間違えさせたりなんかしない。なんてったって君と一緒にいるのは、他の誰でもないこの僕なんだから」
ああ、私って、本当に先生には敵わないなあ。
オズワルド先生のお手伝いができるようにと思ってここに残ったのに、私はいつだって彼に助けられてばっかりだ。
けれど先生は、私は私のために生きて欲しいと言ってくれたし、そうできるように支えてくれている。ならばその思いを踏みにじるようなことだけは絶対にしたくない。
だったら答えは決まっている。
私が私自身のために、今本当にやりたいことは――
「……支度、してきます……!」
力強く、私はそう口にした。
私が踵を返した背後。オズワルド先生はいかにもしてやったりな笑顔で、一旦自室に戻る私の背中を見つめていたに違いない。