第21話
追っ手の足音はない。
森の結界の奥まで入ったならもう大丈夫だろうし、何より襲ってきた女性もあんなに錯乱した状態でまともに追ってこられるとは思えない。
ひとまず私は適当な大樹に背中をもたれ、乱した呼吸をゆっくりと整えていた。
私に刃を向けた女性の、殺意に満ちた目を思い出す。
ここにいればもう安全だとわかっているというのに、私は今更怖くなって足が震え、その場に座り込んでしまった。
こんなはずじゃなかった。私はただ、村の疫病をなんとかしたかっただけだ。なのにどうしてこうなってしまったのだろう。
私が奴隷だからだろうか。私が村人たちをまるで説得できなかったからだろうか。
あるいはその両方なのかもしれないな、なんて私は考えていた。奴隷だから人々からは嫌悪の視線を向けられるのは仕方がないし、私がちゃんと村の人たちを説得してオズワルド先生の診察を受けさせられていれば、犠牲者はもっと少なくて済んだのは間違いないことだ。
目の奥がじんわりと熱くなってきて、溢れ出た雫が頬を濡らした。
私はそのままうずくまって、やり場のないどろどろとした感情から隠れるように頭を抱えた。
奴隷って、一体なんなの……?
家畜のように売買され、ぼろ雑巾のように扱われ、何かを成し遂げても肯定すらしてもらえない。
使い捨ての道具として身を削り、自分の意志よりも他人の我欲に支配され、鋭く尖った感情の切っ先を向けられていればそれでいい存在――それが奴隷だというのだろうか。
あまりこんなことは考えたくないけれど、私だって村を救うために頑張ったはずだ。努力したはずだ。
オズワルド先生にはやり方が間違っていると諭され猛省することになってしまったけれど、それでも私が疫病に苦しむ人々のために力を尽くしたのは事実なのに、こんな仕打ちを受けなければならないなんて。
「――ミレーユ」
ふと耳にした声に、肩がぴくりと反応した。
顔を上げるとそこには、眉をひそめてどこか悲しげな表情をしたオズワルド先生が立っていた。
「先……生……」
しまった。先生には心配をかけたくなかったから、早く泣き止んで隠れ家に戻ろうと思っていたのに。
まさか彼のほうから迎えに来るなんて予想してなかった。
私は一度木の陰に隠れて涙を拭ってから、再びオズワルド先生の前に顔を出した。
悲しい顔は見せたくない。彼のおかげで村は助かったのだ。よい知らせなのだから精一杯の笑顔で報告しないと。
「薬は無事村に届けました。あれを飲んだらみんな元気になったそうです。さすが先生ですね!」
「…………」
オズワルド先生は何も言ってくれない。なぜだろう。
けれどこのまま沈黙が流れたらせっかく張った気が途切れそうで、私はさらに言葉をつづけた。
「私が何もできない分、先生にはご迷惑とご心配をおかけしてばっかりでしたけどね。だけど本当に感謝しています。村を救ってくださってありがとうございました、先生!」
「…………」
やっぱり何も言ってくれない。オズワルド先生は悲しそうに私を見つめたまま、ただ茫然と立ち尽くしているだけだ。
「もう、どうして黙ってるんですか? いいお知らせなのにちっとも嬉しくなさそうですよ?」
「…………」
「さ、早く戻りましょう。私もお昼の薬を飲まなきゃいけま――」
これ以上引き延ばすのは無理だと感じて、私がオズワルド先生を追い抜き進もうとした、そのときだった。
彼の右手が私の頭に触れたかと思うと、私はそのまま彼の肩に抱き寄せられた。
「……先……生……?」
「……いい知らせなもんか」
額を先生の肩に押し当てられたままで、彼の震える声が聞こえた。
気のせいだろうか。私の頭を抱き寄せるオズワルド先生の手が、微かに震えている気がするのは。
「どうして君みたいな人っていうのは、辛いときほど笑おうとするんだ。辛いときは辛いでいい。悔しいときは悔しいでいいんだよ。……君はよく頑張った。誰が認めなくても僕が知ってる。僕だけはちゃんと知ってるから……せめてそれだけは、君も知っていてくれ」
「先生、なにを仰ってるんですか……? 辛いなんてそんなこと……私は村の人たちを助けられたので大満足ですよ? 本当に最高の気分ですから」
なんだろう。このままじゃまずい気がする。
オズワルド先生に悲しい顔をして欲しくないばかりに、思ってもいない言葉が次々に口から漏れ出てくる。けれどその度に彼の手の震えは増していくみたいだ。
「先生は節操がなさすぎませんか? 寝ている女の子の裸は見るし、急に抱きしめてくるし、命を助けるためとはいえキスまでされました。今だって、私にいきなりこんなことして……」
とにかく、このままじゃいけない。なんとか彼から離れないと。
なのに、突き放そうと思っても私の身体はちっとも動いてくれない。これじゃあまるで、私がオズワルド先生にくっついて安心しているみたいじゃないか。
「もう、ダメですってば先生。物には限度というものがあります。離れてくださらないといい加減……私も、本気で……怒り、ます……から……ッ……」
ああ、もうだめだ。
額に彼の体温を感じていると、せっかく堪えていた涙が溢れ出してきてしまった。
私はそのままオズワルド先生の胸にしがみつくと盛大に泣き声を上げた。
オズワルド先生は自分の服が涙で濡れることも厭わず、私が泣き止むまでただひたすらに、私の頭を胸元に抱えて背中をさすり続けてくれたのだった。