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第2話

 鼻の奥をツン、とくすぐるような、嗅いだことのない匂い。

 くしゃみが出そうなのになかなか出てくれないもどかしさで、私はぼんやりとではあるけれど目を覚ました。


 全身が重い。瞼なんて殊更重い。

 どうやら私はどこかに寝転んでいる状態のようだが、それ以上のことはまだ把握できていない。


 何とか起き上がろうとすると、うぅ、と小さな声が私の喉から漏れ出てくる。

 すると私のいる場所のすぐ近くで、誰かが椅子から立ち上がる音が聞こえた。


「起きたかい? こんにちは」


 なんとか瞼を持ち上げて、視界を確保する。

 どうやら私はベッドの上で寝ていたようで、すぐ隣では一人の青年が私の顔を覗き込んでいた。


「えっ……と……」


 こんにちは、なんて呑気に挨拶を返せる余裕はなかった。

 私は今、自分が置かれている状況を何一つ把握できていない。供物として森に連れていかれて、狼の群れに襲われそうになって、そこへ知らない誰かがやってきたこと以外には、何も覚えていないのだ。


 ベッドに寝転んだまま視線だけを動かしてみると、いつの間にか私は屋内に移動していたことがわかった。

 壁際にある棚や机には薬品らしき瓶が所狭しと並んでいる。鼻を突くような匂いはきっとこれが原因なのだろう。

 私の身体を包むシーツや毛布は、まるで素肌に吸い付いてくるかのように柔らかく、優しい手触りだ。貧しかった私が普段寝ていた干し草のベッドとは格が違いすぎる。


 次に私は、ベッドの真横に立つ青年の顔を見上げてみる。

 少しくすんだ色の金髪に、泉のように透き通った碧眼。肩のあたりまで伸ばしている私よりも髪が長く中性的な顔つきをしているが、声を聞けば男性であることはすぐにわかった。

 鼻が高くて、やや垂れ目。左目の下には泣きぼくろが見える。

 いかにも性格が穏やかそうな柔らかい表情は、初対面であるというのに不思議とどこか安心感を覚えた。


「あの、ここは……?」


 私はそう尋ねながら、倦怠感というものを物理的に詰め込まれたのかと思うほど重い上体をゆっくりと持ち上げる。

 すると肩までかかっていた毛布がするりと肌を滑り、その感触で私は、自分が何も衣服を身に着けていないことに気が付いた。


「わわッ!?」


 慌てて毛布を掴み、胸元に抑えつける。

 鉛のように重い腕が、今だけは俊敏に動いてくれて助かったけれど――


「……み、見えました……?」


「いいや? ギリギリ見えてないけど」


 耳まで真っ赤な私とは対照的に、青年は顔色一つ変えなかった。

 彼の返答に安堵する。今朝身ぐるみを剥がされたときはそれどころではなかったけれど、やっぱり男の人に裸を見られるのは恥ずかしいもの。


「あはは、ごめんよ。君が羽織ってた外套(あれ)、あまりにも汚かったから捨てちゃったんだ。もしかして、大事なものだったりしたのかな?」


「いえ、そんなことはまったく……」


 少しずつ状況が読めてきた。

 おそらく彼は、私が意識を失う直前に声を聞いた者と同じ人物なのだろう。

 金髪碧眼の青年。村に伝わっている森の魔法使いの特徴と一致しているけれど、彼のおかげで狼に襲われずに済んだというのはとりあえず間違いなさそうだ。


「……あの、あなたが私をここに運んでくださったんですよね? 助けていただいて、本当にありがとうございました」


 青年の顔を見上げながら、ぺこりと小さく頭を下げる。

 彼が森の魔法使いなのかどうかはさておき、助けてもらった事実があるのならお礼くらい言っておかないと。


 ところが青年は、私が礼を言ったのを聞くと少し不思議そうな顔をした。

 そして顎に手を当てて「んー?」と唸ると、急に顔を寄せて私の顔をじっくりと見つめ始めた。


「ちょっと……? な、なな、なんですか……?」


 彼の顔を間近で見ると、ふんわりと花畑のような匂いがした。

 しみ一つない肌は女性顔負けで、睫毛も驚くほど長い。中性的な顔の印象はきっとこのあたりからきているのだろう。私なんかよりよっぽど美人だ。男の人だけれど。


 宝石のような碧眼にまじまじと見つめられていると、次第に顔が熱を帯びてきた。

 若い男の人とこんなに顔を寄せたことなんて産まれて初めてだ。

 というか、初対面でこんなにも近づいてきて、彼は一体何を考えているのだろうか。顔から火が出る前に離れてもらいたいのだけれど……!


「……君、本当に奴隷(・・)?」


「……え?」


 じっくりと私を観察した上で、彼はそう尋ねてきた。

 この状況でなぜその問いなのかとむしろ問い返したいところなのだけれど、彼の真剣な表情を見ているとそんな気もなくなってしまった。


「君たちが何をしに森に入ってきたのかは知らない。だけど、あんな身なりをしてたんだ。てっきり奴隷を連れてきたんだと思ってたんだけど……。それにしては君は、礼儀や言葉がしっかりしすぎてる」


 きょとんとしてしまっている自覚はあるけれど、私には彼の言い分もなんとなくわかった。

 あの村だけではない。奴隷制はあちこちで当たり前のように定着している文化(・・)の一つだ。

 ほとんどの奴隷たちは幼いころに奴隷商によって売買され、主人の命令には絶対に逆らわないよう徹底的に躾けられる。

 それでいて人権などが与えられることはなく、言葉遣いや読み書きすら満足にできないのが当たり前なのだ。


 衣服なんかも主人からぼろ布一枚もらえればいい方で、ほとんどの奴隷は裸のまま家畜同然の扱いを受けるのが普通だ。

 だからこそ、彼が森で倒れていた私の格好を見て奴隷だと判断するのは、当然と言えば当然なのだ。


「私、は……」


 答えようとすると、胸がきゅっと締め付けられるように痛む。

 けれど私の事情は少しばかり複雑だ。きちんと説明しなければ彼にはきっと伝わらない。

 ならば答える他にはないだろう。彼は私の命の恩人なのだから。


「はいかいいえかで答えるなら……はい、なんでしょうね。あなたの仰る通り、私は奴隷です。にしては恵まれすぎていたというのは、間違いないんでしょうけど」


「ふうん」


 なんとも軽い返事をして、青年は私のいるベッドに腰かけた。

 それだけなのにびっくりするほど揺れる。どうやら奴隷の身である私なんかにはもったいないくらいに高級で柔らかなベッドなのだろう。


「オズワルド。よろしく」


「……えっ?」


 青年はにっこり笑って、私に右手を差し出してきた。

 突然のことに対応し損ねた私は、ただ目をぱちぱちと瞬かせて拍子抜けした声を漏らすことしかできなかった。


「僕の名前だよ。オズワルド。よければ君の名前も教えてくれないかな? 奴隷の君が、それだけ礼儀も言葉遣いもきちんと仕込まれてるんだ。さぞいい主人に恵まれたんだろう? ならきっと、名前だってもらってるはずだ」


 すぐには言葉を返せなかった。

 目が覚めてほんの少ししか言葉を交わしていないのに、彼は私のことを見抜いているというか、肯定してくれているというか、なんとも不思議な感じがした。

 ただ、それが心地よかったのは間違いないんだと思う。でなければ私は、無意識に彼の手を取って、握手に応えたりなどしなかっただろう。


「……ミレーユ……です」


「そうか。君はミレーユというんだね」


 オズワルドと名乗った青年の手から、じんわりと優しい体温が染みてくる。

 それも相まってか、随分久し振りに呼ばれたようにすら感じる自分の名前に、私は少し目頭を熱くしてしまったのだった。

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