第17話
「――ミレーユ」
私の肩をそっと叩きながら、そう呼びかける誰かがいる。
今の今まで眠っていた私でもそれが誰かわかるのは、その声を耳にすることに安心感を覚えるようになったからだろうか。
朝は鳥のさえずる声で目覚めるのが心地いいのだというのは定番だ。
けれど鳥の声と同じくらいに――いや、それ以上に快適に目覚めさせてくれるようにも思えるその声に、私は重い瞼を持ち上げた。
うーん、という呻き声には警戒心の欠片もなくて、我ながら気を緩めすぎているのではと思わないこともない。
けれど私のいるこの場所が、隣にいるこの人が、病人である私をとことん労わってくれるものだから、今の私はそれに甘えたくなってしまっているのだ。
「……おはようございます、先生」
「うん。おはよう、ミレーユ。あれからはなんともなかったかな?」
「はい、おかげさまで。今もかなり調子がいいです」
オズワルド先生は私の額に手を当てて熱を測りながら微笑みかけてくれた。
出会って数日の相手にここまで心を許すのは初めてだ。今の私には頼れる人物が彼しかいないということも大きいのかもしれないけれど、それ以上に彼の人柄がそうさせているのは間違いでもない気がする。
奴隷であることも、出自が複雑すぎることも、未だ和平に加わろうとしない人種であることも。彼は何一つ気にすることなく、私の命を二度も救ってくれた。
そんな相手に心を許すなというほうが難しいだろう。というか、これほどの恩があってなお心を開かないなんて、そんな薄情な人がいるはずがないと思い込んでしまうのは私だけだろうか。
「うーん。元気が戻ったのはいいことだけど、やっぱり熱までは下がらなかったか。昨晩の施術で発作は落ち着いても、やっぱり根本的な治療には至ってない。そろそろ菌の培養も終わった頃合いだろう。効果のある薬がどれなのか、これでわかるはずだから持ってくるよ」
オズワルド先生はそう言い残して部屋を去った。
彼の背中をぼうっと眺めながら、私は先生の言った『昨晩の施術』とやらに思いを馳せた。
そういえば昨晩私は、急に具合が悪くなって、魘されて目が覚めて……。
助けを呼びたくても呼べなくて、でも先生は自分で気づいてくれて……。
……そのあと、どうなったんだっけ。
オズワルド先生は発作と言っていたけれど、そのせいで頭ははっきりしていなかったし、どこか夢心地だったせいであんまり覚えていない。
ただ、オズワルド先生が何かしてくれたおかげで、とても気分が楽になったことだけは覚えている。
病人だから仕方ないと言ってしまえばそれまでなのかもしれないけれど、肝心なところだけをまったく記憶できていないせいで、私は起きてからもなんだか胸がモヤモヤしたままだった。
*****
一晩経ってキんのばイヨーなるものが終わったと言っていたオズワルド先生は、その結果を見るとすぐに薬を調合してくれた。
薬というものは病なら何にでも効くというわけではなく、それぞれの病の特徴に合わせて効果の違うものを使わなければいけないらしい。
もちろん今回の疫病にも、効果がある薬とない薬があって、オズワルド先生はそれを見極めるための検査に一晩を費やしたのだそうだ。
キんのばイヨーには、時間がかかるんだって。私にはやっぱり難しい。
「それじゃあミレーユ。これを飲んで。そうすれば割とすぐ熱は下がるはずだ」
オズワルド先生に手渡されたのは、水の入ったグラスと粉薬。
これを飲めば治るんだと思うと、なんだか少しドキドキする。
こんなちょっとの量で、あんなに苦しかった病気から解放されるだなんて、にわかには信じ難い。もちろん、それはオズワルド先生のお医者様としての腕を疑っているという意味ではなくて。
私が思い切って薬を飲みこむ様子を、オズワルド先生はどこか満足げに見ていた。
これで私が回復したなら、薬の効果の証明になる。そうすれば先生は、村人たちに配給するための薬も調合してくれると約束してくれた。そうとなれば、私は何がなんでも元気にならないと。
「この薬を一日三回、最低でも十日間は継続して飲むこと。いいね?」
「はい、先生」
「よろしい。それじゃあ次は、君にこれをあげよう」
オズワルド先生はそう言って、綺麗にたたまれた女性ものの服を私に差し出してきた。
私が今着ているものと色合いは似ているけれど、どうやら今度はワンピースのようだ。
「熱が高かったから、たくさん汗をかいただろう? 君も女の子だし、そういうの気になるかなと思って」
「ありがとうございます、助かります。……でも、あげようなんて言われても恐れ多いですよ。お借りするだけで十分です」
私は村人たちに私財のすべてを奪われてしまった。それはもちろん、私が普段着ていた衣服も含めてすべてだ。
今はオズワルド先生から服を借りているけれど、二度も命を救われた上に物乞いまでしていたのでは罰が当たりそうで怖い。にこにこ笑って嬉しそうな彼には悪いけれど、気持ちだけもらっておくことにしよう。
頭をぺこりと下げ、私はオズワルド先生から服を受け取った。
私が今着ている服と同じ生地でできているらしく、肌触りがよく似ている。色なんてほぼ一緒なのではないだろうか。
同じ呉服屋で仕立てられたのだろうか。形はまったく違うのに、珍しいこともあるものだ。
そんなことを呑気に考えていた矢先、私は指先で感じ取った違和感に悪寒が走った。手にしたワンピースが、突然小刻みにもぞもぞと動き出したのだ。
「い、いやああああああーーッ!!??」
驚きすぎて私はワンピースを放り投げてしまった。
そしてそのワンピースはオズワルド先生の顔に勢いよく叩きつけられ、そのまま彼に引っかかった。
悲鳴。のち一瞬沈黙。
虫でも紛れ込んでいたのかと驚いたとはいえ、私は命の恩人になんてことをしてしまったのかとさらに背筋が凍り付いた。
ワンピースでオズワルド先生の顔が見えないのが余計に怖い。怒らせた。絶対怒らせちゃったよ……!
「ご、ごごごっごごごめんなさいッ!! 大丈夫ですか、先生!?」
「……やれやれ、世話の焼ける子だ」
顔からワンピースを取り去りながら、オズワルド先生はそう呟いた。
ああっ、どうしよう。お世話を焼かせてしまった。
とにかく謝らないと。彼に受けたあまりにも大きすぎる恩を、こんな程度の低い仇で返すわけにはいかないのに……!
ところがオズワルド先生は、何から口にすればいいかパクパクと慌てふためく私のことはさておき、少し呆れたような笑みを浮かべてワンピースに視線を落としていた。
「僕ですら全然気づかなかったよ。そんなところにいたら驚かれても仕方ないだろう? ほら、ミレーユと仲直りして」
「……へ?」
オズワルド先生の優しい言葉は、明らかに私以外の誰かに向けて発せられていた。
そしてその声に呼び出されるように、再びもぞもぞと動き出したワンピースの中からは、赤い三角頭巾を被った親指くらいの大きさのなにかが、私に向けてひょっこりと顔を覗かせた。