第12話
森で倒れたミレーユ。
そんな彼女の前に現れたのは……?
『――ミレーユ』
……誰?
どこからかはわからないけれど、私を呼ぶ声がした。
声の主を探そうとしても、なんだかぼうっとしていて何も考えられない。
だけどなぜだろう。頭が真っ白なまま、私を呼んでいる声に耳を傾けているだけで、なんだかとても落ち着く気がするのは。
『――ミレーユ』
ほら、また聞こえる。
今度は少し懐かしい感じがした。
きっと声の主は私の知っている人に違いない。
ああそうだ、思い出した。
お腹の中にずんと響いてくるような渋い声。これは、私の大好きなおじいさまの声だ。
「――ミレーユ!」
さっきまでぼんやりと輪郭が薄れたように聞こえていた声が、今度ははっきりと鼓膜を震わせた。
言葉の強みがずっと増したその声に驚かされ、ハッとなった私の瞼が勢いよく跳ね上がった。
「ようやく起きたか。具合でも悪いのか? こんな時間まで起きてこないなんて珍しいじゃあないか」
「……うーん……?」
私の目の前にあったのはおじいさまの顔――私を奴隷商から引き取って育ててくれた、大好きなおじいさまの顔だった。
どうやら私は干し草のベッドに寝ていて、ちょうどおじいさまに起こされたところみたい。
頭がふわふわしたままで、瞼の重い目を擦りながら起き上がる。
すると部屋の中はもう随分明るかったものだから、私は肝を冷やして急に目が冴えた。
「わああーーッ! ごめんなさいおじいさま! 私ったらこんな時間まで寝てるなんて!」
「なんだ、元気じゃないか。よかったよかった」
「よくありませんよッ! すぐに朝ご飯の支度しますから!」
「ハハハ。朝餉なら先にもらったぞ。握り飯くらいなら自分でできるからな」
足腰が悪く、杖を突かなければまともに歩けないおじいさまに代わり、私はこの家の家事も炊事もすべてこなしている。
普段ならもっと早起きして朝食の支度をしておいて、おじいさまが起きてくる頃にはいつでも食べられるようにしておくのに、なぜだか今日は目が覚めなかった。
そんな私を、おじいさまはなんだか楽しそうに笑いながら見ている。
叱られたくはないけれど、叱られたほうが幾分ましなんじゃないか、なんて思えるほど、私は恥ずかしくて恥ずかしくて敵わなかった。
一人遅れての朝食。おじいさまが握り飯で済ませたのなら、寝坊した私も握り飯で済ませるべきだ。自分しか食べないのにあれこれ食卓を彩るのは気が引ける。
食べ終えたら次は掃除。椅子に腰かけてくつろいでいるおじいさまと何でもない話をしながら、部屋を箒で掃き雑巾で拭き上げるのは、私にとってとても楽しい時間なのだ。
午後になったら買い出しに出掛ける。決して裕福ではないため贅沢なものは食べられないけれど、おじいさまの喜ぶ顔を思い浮かべながら夕食の献立を考えると、なんだか胸が躍るような気分になったものだ。
夜になると、おじいさまが読み書きや計算を教えてくれる日もあった。それらがすっかり身についた今では教わることも減ってしまったけれど、とても物知りで教えるのも上手だったおじいさまのことを、私は何度誇らしく思ったか数えきれない。
*****
「だめですよ。今夜はもうおしまいです」
空のジョッキを差し出してお代わりを要求してくるおじいさまに、私は厳しく言い聞かせた。
おじいさまはお酒が大好きで、いくら貧しくても晩酌の楽しみだけは譲れないとよく言っている。
お金がないためいつも出来の悪い安酒ばかりだったけれど、おじいさまは文句の一つも言わずに美味しそうに飲んでいた。
「むぅ……。そうか、わかった」
老体に過度の飲酒は禁物ということは常識だ。だからおじいさまが飲むお酒の量の管理も私の仕事の一つだった。
酔ったおじいさまが相手のときだけは、少しだけ私のほうが立場が強い。飲み足りないと駄々をこねることも珍しくないのだけれど、長生きしてもらうためにも心を鬼にするのだ。
「なら、ミレーユ。言われた通り今夜は終いにするから、その代わりにちょっと来なさい」
「……? はい」
ソファに座ったおじいさまに手招きされ、私も隣に腰かけた。
するとおじいさまは、私の頭をがっしり掴めるほど大きな手で、私の栗色の髪をさらさらと撫でた。
「ミレーユ。お前に話しておきたいことがある」
「はい」
名もない奴隷だった私におじいさまがくれた名前を呼ばれると、その落ち着きのある声とも相まってとても耳に心地いい。
おじいさまの手は大きくて力強いのに、私の頭を撫でるときはまるで産まれたての赤子でも扱うかのようにとても優しい。
そんなおじいさまの隣でうっとりしている私に、おじいさまはなにやら改まって話を切り出してきたのだった。
次話に続きます。