第11話
村から精霊の森へと駆け込んだ私は木々の間を縫い、茂みを掻き分けてひたすらに奥を目指した。
森の中はオズワルド先生の結界が張り巡らされている。彼はきっとその力で、私だけをあの隠れ家まで辿り着かせてくれるだろう。
予想通り追っ手を撒くことができ、ドアのついた例の大樹の前まで辿り着いた私は、オズワルド先生の隠れ家に戻るとすぐにベッドに潜り込んだ。
オズワルド先生はそんな私の心境を察してくれているのか、帰っても挨拶一つしない私の無礼を何も咎めようとはしなかった。
ベッドの上で膝を抱え、頭から毛布を被って蹲る。
そうしていないと泣き出してしまいそうな私に、オズワルド先生はまた温かいミルクを差し出してくれた。
けれど正直、今は何も喉を通る気がしない。顔を上げないまま小さく首を横に振ると、オズワルド先生はため息をついて同じベッドに腰かけた。
「だから行かせたくなかったんだ。心も身体もあれだけ傷ついていた君にさらに追い打ちをかけることになると、僕にはわかっていたから」
「……」
「すまなかったね、ミレーユ。本当なら、君を森の結界に閉じ込めてでも、僕が止めてあげるべきだったのかもしれないのに」
「……」
先生のせいじゃありません。こうなるかもしれないと覚悟した上で、私が自分で決めたことですから。
オズワルド先生の、自分を責めるような悲しげな声。
そんな彼を励ますためにそう伝えたかったのだけれど、今は声を出すと涙も一緒に漏れ出てきそうだった。
悲しいのではない。悔しいのだ。
村人たちに存在すら否定され、供物だなんだと命を粗末にされたことが、悲しくないと言えば嘘になる。
けれどそれ以上に私は、手を伸ばせば救えそうなところにある命を、あと一歩のところで取りこぼしてしまう自分の不甲斐なさが、悔しくて悔しくて仕方がなかった。
あの様子を見る限り、疫病に苦しんでいる村人たちはまだまだいるはずだ。
私が説得することさえできれば、あとはオズワルド先生がどうにかしてくださるはずなのに。
それなのに自分には、何もできなかった。オズワルド先生に患者を診ていただくという、疫病と戦うための入口にすら、私の無力さ故に辿り着けないのが、胸に痛かった。
「悔いは残るだろうけど、これで諦めもついただろう? 彼らはどんなに犠牲者が増えようとも、疫病が自然に収まるのを待つという決断をしたんだ。こればっかりは、外野が言い聞かせたからってどうこうできる問題じゃない」
「…………それでも」
ようやく絞り出した声は、自分でも意外なものだった。
あれだけ否定されても、あれだけ無力を痛感しても、私の口から出たのはオズワルド先生とは真逆の意志を持つ言葉だった。
「それでも私、諦めませんから。……明日また、村へ行きます」
オズワルド先生は、何も言わなかった。
顔を伏せたままでも、隣にいる彼が驚く様子が見えるようだ。
「わかってるのかい? 君だけが森の結界を通り抜けたことで、村人たちは『森の魔法使い』と君の繋がりをより強く意識するようになったはずだ。明日の君はきっと、今日よりもっと辛い思いをすることになる」
「そうかもしれません。……でも、たくさんの人が死んでいくのをわかっていてこのまま逃げたりしたら、そのほうが私はもっと辛いと思うんです。明日や明後日どころか、きっとこれから一生……」
あの村に通う限り、私はオズワルド先生に迷惑も心配もかけ続けることになるだろう。それは申し訳ないと思っている。
けれど今ここで私が諦めたら、村の人々があと何人疫病の犠牲になるかわからない。
例え万に一つでも億に一つでも可能性があるなら、私を救ってくれたおじいさまやオズワルド先生のようになりたい。私も誰かの命を救いたいんだと、そう思ってしまったんだ。
*****
翌日、私は早朝からオズワルド先生の隠れ家を発ち、村を目指した。
朝一番は、村の女性たちが水汲みなどで動き始める時間帯だ。もしかしたら昨日の男たちよりは話が通じるかもしれない。
そんな淡い希望を抱きながら、かつその期待も簡単に裏切られるのかもしれないと覚悟しながら、私は疫病の蔓延する村へ再び足を踏み入れた。
予想通り、村では水汲みへ向かう途中の女性たちが数人、なにやら話しながら歩いていた。
私はもちろん声をかけて、オズワルド先生に疫病の患者を診てもらわないかと提案した。
しかし村の女性たちも、昨日の男たちと似たような反応だった。
供物として森の魔法使いに捧げられた奴隷が生き延びていて、凝りもせずまたひょっこり村に顔を出したのだからそれも当然なのかもしれない。
一人には悲鳴を上げられ、一人には空の水瓶を振り回されて殴られそうになった。
彼女らが水汲みの帰りでなかったのはせめてもの救いだ。オズワルド先生に服を借りている以上着替えなんてないのに、濡れ鼠にされてはたまらない。
次第に騒ぎを聞きつけて、村の男たちが農具などを武器に持って集まってきた。
昨日はこの時点で逃げ帰ったけれど、今日はもう少し長く村に留まらなければならないという私なりの意地がある。武器で脅されてもなお、私は村人たちと一定の距離を保ったままで説得を続けた。
森の魔法使いに怪しい術で操られているのではと警戒しているらしく、村人たちも私に近づくことは避けている様子だった。
これ幸いにと私は彼らに説き続ける。しかし彼らはやはり聞く耳を持ってはくれない。
結局私は昨日のように農具で追い立てられ、精霊の森に逃げ帰らずを得なかったのだった。
そんな日が二日、三日と続いた。
森の隠れ家に戻るたびにオズワルド先生には心配されたけれど、私の意志は揺らがなかった。
何度村人たちを説得しても同じ文言の繰り返しで、まったく進展がない。それでも私は村に通うことをやめようとは思わなかった。
村人たちが聞いてくれなくても関係ない。私が村に行くことにこそ意味があるんだ。そう信じて私は、今日も森を抜けて村を目指した。
「二度と来んなって何回も言ってんだろ!! いい加減しつこいんだよこの奴隷!!」
「ですから何度でも来ると毎日言っているじゃありませんか! 先生に診ていただく決心をするまで、私は絶対に諦めません!」
今日も今日とて同じ問答。はじめはおどおどと説得していた私も次第にこの空気に慣れたのか、少しずつ強気で発言することができるようになっていた。
気のせいか、私を追い払おうと出てくる村人の数が日に日に減っている気がする。おそらくは大部分が屋内で病床に伏せているものと思われた。
やはりこの疫病は少しずつ、確実にこの村を蝕んでいる。とにかく時間がないことだけは確かだろう。
「こんのガキ……死ななきゃわかんねえなら今すぐ殺してやろうか!?」
今日もやはり、鍬を振り上げた男によって森の中へ追い立てられてしまった。
オズワルド先生の結界のおかげで捕まることはないけれど、やはり誰かに殺意を向けられるのは怖い。
それでも、私がやらなくちゃ。
今日はもう難しいだろうから、明日また改めて……。
そんなことを考えながら森を進んでいた、そのときだった。
「……あ、れっ……?」
突然襲ってきた、眩暈。
私は足元がふらついて、近くの木に手をつくとそのまましゃがみ込んでしまった。
身体に力が入らず、立っていられない。視界が次第に薄暗くなってきて、胃のあたりを締め付けられるような感覚に思わず嘔吐してしまった。
身体の真ん中に焼けた鉄の芯が入れられたように熱い。頭なんかは特に熱くて、だんだん意識がぼんやりとしてきた。
あ、まずい。このままじゃ……。
なんとかオズワルド先生の隠れ家まで戻らないと。そう思った矢先に地面に倒れこんだ私は、鼻を突く胃酸と腐葉土の臭いの中で、一瞬で意識を失った。