第1話
何の前触れもなく耳に轟いた、罵声。
私の住んでいた家に、大勢の男たちが突然押し入ってきたのは、つい今朝の話だ。
何が起きたのか状況を整理する時間すら与えられず、私は彼らに張り倒され、床に抑えつけられた。
小柄な少女一人に対し、大の男が二人がかり。当然私は身動きなど取れるはずもなく、視線を泳がせて周囲の状況を見渡すのが精一杯だった。
男たちは私が見ている目の前で、家にある私財を次々に運び出していった。
私なんかが抵抗したところで、男二人分の腕力を振り払えるはずがない。私にできたのは、ただただ喉が潰れるまで泣き喚き、その度に顔を殴られ腹をけたぐられることくらいだった。
雀の涙ほども残してやるつもりはないのだろう、すっかり着古したよれよれの普段着さえも、男たちは容赦なく私の身体から剥ぎ取って持ち去ってしまった。
これでも、山の中なんかで突然襲い掛かってくる追い剥ぎのほうがずっと優しいのだと思う。突然私の前に現れた彼らは、追い剥ぎなんかよりも、もっともっと質が悪いことを私は知っている。
彼らに身ぐるみを剥がされたあと、私は穴だらけでごみ同然の外套を羽織らされた。
無理矢理背後で組まされた両手首には木の手枷がつけられ、私は今、首輪についた縄に引かれて森の中へと連れ出されている。
殴られすぎて頬は真っ赤に腫れ上がり、身体もあちこち打撲している。
加えて先ほどから全身の肌が痒いのは、きっと着せられた外套にダニでも巣食っていたせいなのだろう。
強姦されなかっただけよかったと考えるべきなのだろうか。
彼らがそうしなかった理由は大体想像がつく。けれど私はきっと、犯されたほうがまだましだったともうすぐ絶望することになるんだと思う。
――なぜなら私は、大嫌いな隣人たちの命を救うために、これからこの森に供物として捧げられるのだから。
*****
村の近くには、『精霊の森』と呼ばれる自然豊かな地域がある。
けれど村人たちは、よほどのことがない限りこの森には近づこうとしない。
なぜならこの精霊の森には、昔からとある不穏な噂が伝わっているからだ。
精霊の森には、正体不明の魔法使いが住んでいる、と。
村に残っている古い書物によれば、その魔法使いは金髪碧眼の青年の姿をしているらしいのだけれど、その姿を実際に見たという村人は一人もいない。
というのも、精霊の森の地下には膨大な魔力を含んだ龍脈があるらしく、その影響か森に入ってもすぐに元の場所に戻ってきてしまうらしいのだ。
そんな場所に私が強引に連れてこられた理由は、主に二つ。
うち一つは、嫌われ者で身寄りのない私が、森に捧げる供物としてうってつけだったから。もう一つは、今すぐにでも供物を捧げたくなるほどの危機に、この村が陥っているからだ。
実はこの村には、少し前から原因不明の疫病が蔓延している。
小さく貧しいこの村に医者はおらず、既に九人が同じ症状に苦しんだのち、息を引き取った。
村人たちはこの疫病を恐れ、何の根拠もなく森の魔法使いの仕業だと決めつけたかと思えば、魔法使いのご機嫌取りのために私を供物に差し出すことを決めた。
その魔法使いとやらが本当にいるかどうかもわからないというのに、何とも滑稽で迷惑極まりない話だけれど、私に抵抗できるだけの力などありはしなかった。
「おい、ぐずぐずするな。さっさと歩け」
よろよろと今にも倒れそうに歩く私の背中を、一人の男がどんとけたぐる。
その拍子に木の根に足を取られた私は、土砂降りだった昨日の雨でぬかるんだ泥の上に盛大に転んでしまった。
「なにやってんだよ。どんくせえな」
誰のせいで歩けなくなったと思っているのだろうか。
今朝家で暴行を受けた際、逃げられないよう足首を力いっぱい踏みつけられたから、もはや立っていることすら辛いというのに。
もう、起き上がるのも億劫だ。
このまま森を進んでもいずれ元の場所に戻されるのだから、このあたりにさっさと私を捨て置いていって欲しい。
しかし、魔法使いとやらが本当にいるのなら、供物である私をどう料理するのだろうか。
血肉を煮溶かして怪しげな薬でも作るのだろうか。それとも私の魂か何かを代償に、奇怪な儀式でも執り行うのだろうか。
どうなるにせよ、私がそれを見届けることはないのだから、きっと考えるだけ徒労なのだけれど。
「……ん? なんだ?」
ふと、一人の男が呟いた。それを聞いた他の男たちも、息を潜めて耳を欹てる。
すると私の耳には、森のずっと奥のほうから発せられたのだろう、狼の遠吠えの声が響いてきたのだった。
「も、もうこのへんでいいだろ……?」
「……ああ、そうだな」
狼の存在に怖気づいたのか、男たちはそわそわと冷静さを失っている。
彼らは首輪から伸びる縄で私の脚を木に縛り付けると、周囲を警戒しながら来た道を戻り始めた。
そこまでしなくても、私はもう起き上がる気力すら残っていないのに。
「よし、早く戻るぞ。狼なんかに出くわしたらたまったもんじゃな――」
先陣を切って歩き出した男が、急に口をつぐんだ。恐れていた事態がまさに今起こったのだ。
彼の目の前には、牙を剥き出してぐるると唸りながら唾液を垂れ流す、一匹の狼の姿があった。
気が付けば、唸り声は四方八方から聞こえてきていた。
地面に倒れこんだ私の視界でとらえられたのはせいぜい二、三匹だったけれど、足音や唸り声はもっと数が多そうだ。
結局私は、森の供物どころか狼の餌としてこの命を終えることになったらしい。
けれど今更どちらでもいい。せめて痛みに苦しむ時間が少なくて済むよう、私の肉を齧る前に息の根を止めてくれることを祈るばかりだ。
「うわああああーーッ!!」
一人の男が狼に飛びつかれ、押し倒された。
その拍子に二人が森の外に向けて駆け出し、もう一人は噛まれた男を助けようと右往左往している。
これを合図にするかのように、他の狼たちも一斉に男に襲い掛かった。
逃げ出した二人が賢かったんだろうな。残された二人と私は、きっとここで――
そう諦めて目を閉じた、そのときだった。
「――こらこら。ダメだろう、そんなことしちゃあ」
死地の真ん中で聞こえてきたのは、拍子抜けするほど緊張感に乏しい声。
しかし狼たちはその声にびくりと反応すると、男に食らいついていた顔を一斉に同じ方角へ向けた。
これ幸いにと、男二人も森の外へ逃げていく。どうやら襲われた男は軽傷で済んだようだ。
せっかく捕らえた獲物が敗走する背中を見た狼たちが再び駆け出す。しかし狼たちの進路は、不意に現れた人影によって遮られてしまっていた。
「もう一回だけ言うよ? 人間を襲っちゃあダメだ。彼らを怒らせると、それはそれは恐ろしいことになるんだからね」
幼子を厳しく躾けるようでいて、穏やかで優しい声。
その声に狼たちは、きゅうんと情けない声で鳴いて尻尾を巻いている。
ぼんやりと霞む視界に私が捉えたのは、狼たちの間を縫ってこちらに歩いてくる金髪碧眼の青年。
それだけ把握すると、私の意識はどろりと、暗い微睡みの中へ沈んでいった。