第1話 無能力者、異世界に立つ!
深い闇の中にいた。
感覚というものは散り、意識さえも微睡んでいる。
果たしてこれが現実なのか。
あるいは夢なのかさえわからない。
なんだ……この感覚は……?
一体ここは……どこなんだ……?
個という概念すら溶けて消え、虚空を彷徨う。
すべてを肯定せず否定しない空間の中に自らを取り戻したのは、赤髪の女性の呼びかけがきっかけだった。
女性は恐ろしくもこう語る。
『風宮秋人、貴方の世界は滅んだ』
は?……嘘だろ?
俺、死んでるのか?
『今、貴方の世界を滅ぼした存在が、別の世界を滅ぼそうとしている。
もし、その世界の崩壊を止めることができれば、貴方の世界は元通りになる。
願うならば貴方の肉体と精神を再構築し、異世界へと送ろう』
なんという無茶振りだ。
ただの一般人に何を求めているんだ。
確かにこういうのはアニメでよくある展開ではある。
しかし実際にその問題と直面したらこんな風に戸惑ってしまうのも仕方ない。
……いや、でも俺は行くぞ。
現代とは違う世界で、新たな生活を始めることができる。
そもそもそれ以外の選択肢がない。
いいだろう、行ってやる。
異世界の崩壊とやらを、食い止めてやろうじゃないか。
この空間にずっといるのも嫌だしな。
赤髪の女性は優しく微笑み、手を振りかざした。
多分それが、最後の光景である。
目を覚ますと、青と白で彩られた天井が目に飛び込んできた。
それは天井ではなく、空だということに少しの時間を要して気づく。
身体を起こしてみると、目の前には広大な草原が広がっていた。
ズボンについた草を払いながら立ち上がると、思わずため息をついてしまった。
草原の奥の方には巨大な壁とそれの内部に入るための門らしき物が見える。
少し壁からはみ出る形で建物が見えるが、近くまで行かなければどのようなものか明確に判断できそうにない。
一見ここが外国のようにも思えたが、木の形状や今の状況を考えると自分の知っている場所ではないような気がする。
まさか、本当に……?
本当に俺は異世界とやらに来てしまったのか?
「マジか……」
頭を抱えた瞬間、赤髪の女性の言葉がフラッシュバックし自らの置かれた状況を思い返す。
『風宮秋人、貴方の世界は滅んだ』
確かに覚えている。
そうなると、赤髪の女性が言ったように俺はこの世界の崩壊を食い止めねばならない……?
夢だと思ったし、そもそも死んだ感覚なんて一切ないぞ。
世界の崩壊を防ぐということは理解はしていても、スケールが大きすぎてイメージが湧かない。
「……まぁ、ここにいてもしょうがないか」
今はとにかく、あの壁の方向に歩みを進める他ないだろう。
ゆっくりと大地を踏みしめて歩く。
右足、左足と前に進めていくだけの行動が、こんなにも心地良いだろうか。
ありふれた日常からの変化に、心が踊っているのかもしれない。
そうして歩いていると、数十メートル離れた場所に毛むくじゃらの生物がいた。
地面に生えた草を食べつつ、ゆっくりと動いている。
「なんか、雲みたいなやつだな……」
毛むくじゃらを観察していると、不意に強い風が吹いた。
先ほど感じた風とは違う、自然なものではない。
不自然なほどの強風で、何らかの動作によって発生しているように思える。
辺り一帯に影響を及ぼすほどの風を吹かせる動作ってなんだ……?
考えるよりも早く、答えは訪れた。
巨大な影が俺と毛むくじゃらを覆い尽くし、風は更に強く吹いた。
鼓膜を震わす咆哮と翼を翻らせる音が同時に鼓膜を刺激する。
瞬時に俺はそれが何であるか理解した。
なぜなら、ある程度予想はしていたからだ。
だが同時に、『まさか』としか思っていなかった。
強いて言えば妄想といってもいい。
物語の中に存在した、架空の生物がこの世界にはいる。
いや、いてほしい。
この世界ならば、ありえると。
世界は、俺という異物に対して牙を剥いた。
それは目前に着地すると、再び喉を震わせ咆哮する。
握り拳ほどの大きさをもつ赤い目玉。
鋭く尖った牙と爪。
頑強で、それでいて柔軟な鱗。
身体を支える強靭な翼と、しなやかでいて逞しい四足。
巨木のように太く触れるものすべてをなぎ払う尾。
体長おおよそ十数メートルはあろうかという、それは間違いなく――
「ドラ……ゴン!?」
飛竜。
ファンタジー世界の王と謳われる存在が、目の前にその姿を現した。
同時に、俺は悟った。
この世界が本当に異世界であるということを。